第4話

 「はっ! 夢……か」

 目黒朝子、三十五歳。額に汗を伝い、強制的に目覚めた。

 ベッドサイドには、女性二人が映り、色あせた写真が一枚、写真立てに飾られている。

 その隣に、漆黒のトゥシューズが置かれている。

 「夢ではないわね。どうしたのかしら、らしくない」

 悪夢であれば、鏡に映る顔は成熟していない。多彩な表情も失っていない。

 それに、漆黒のトゥシューズが手元にあるわけがない。

 「……今日も、あなたの人生を生きます。真理」

 朝子は漆黒のネグリジェを脱ぎ捨て、漆黒の戦闘義に着替えた。

 トゥシューズで両足を包んで。


 十年前、警察の事情聴衆を受けた朝子は、三日目で解放された。

 警察も精神医も、これ以上ではらちが明かないと判断したからだ。

 久々に外の空気を吸った朝子は、目立つ衣装のまま、所属するバレエ団事務所に向かった。

 そこで、朝子はオーナーに直接、バレリーナを辞めることを告げ、翌日日本に帰って来た。

 帰国後は実家に身を寄せたが、気が休まることはなかった。

 真理の両親から、電話なり直接実家に来るなり罵詈雑言を浴びた。

 朝子の両親はひたすら謝罪したけれど、朝子は真理の両親に同意するように頷いただけだった。

 朝子は自分自身を責め続けた。

 一年ほど、実家で放心続けた。

 ようやく実家の庭に出られるようになった朝子は、次の仕事を探すこともなかった。

 これまでバレエ一筋で生きてきた朝子は、社会に通用する資格も実力も持っていない。

 仕事を探すのが、非常に困難だった。また、朝子自身が探す気にもなれなかった。

 庭と自分の部屋を往復するだけの朝子を見かねた母親は、朝子に散歩を提案した。

 「ねぇ、朝子。気晴らしでもしたらどうかしら? きっと、なにか見付かるわよ」

 朝子は乗り気ではなかったけれど、母親が無理にでも背中を押した。朝子は渋々玄関のドアを押し開いた。

 八年ぶりに見る懐かしい景色は、朝子が思う以上に様変わりしていた。

 駄菓子屋や金物店などの老舗は姿を消し、代わりに整骨院やスポーツクラブ、チェーンスーパーが軒を連ねていた。

 その中で朝子の視線を奪ったのは、カポエラー教室にて懸命に練習する中年女性だった。

 足が止まって一時間後、レッスンを終えたであろう中年女性が教室を出た。

 女性がドアを開けた瞬間、二人は視線が合った。

 「あら? あらあらあら? あなた、良い筋肉しているわねぇ」

 女性は朝子の許可を得ずに、腕や脚にべたべたと触れた。

 「でも、だいぶ筋肉を使っていないわねぇ。もったいないわぁ。それに、なーんか、表情が暗いわね。何か、悲しいことでもあったのかしら? 良かったら、教室に入ってみない?」

 女性に手を引かれ、朝子は無気力なままカポエラー教室の中に入った。

 「先生、この子、カポエラーに興味がおありのようですわよ」

 「え、あの、そういうのでは……」

 そこでようやく、朝子は握られた手を振り放った。

 「冗談よ。そんな状態で何かできるわけがないわ。でも、これも何かの運命ね。よかったらおばちゃんに話してごらんなさい。年下の悩みを聞くのは得意中の得意よ。何しろ、私、保育士の長だからね」

 「え……? 保育士?」

 朝子は親友の姿を重ね見た。それも、目の前の女性と比べてもなおさら若い、十八歳の真理を。

 『朝子、私たち、絶対に夢を叶えようね! 私は立派な保育士、朝子は一流のバレリーナになるって』

 「真理……!」

 朝子は突発的に涙が溢れた。


 ごめんなさい。約束を果たせなくて。

 ごめんなさい。約束を破って。

 ごめんなさい。あなたの親友になってしまって。


 朝子は声に出さず、教室の床を濡らした。

 「さあさ、先生が温かいお茶を用意してくださったわよ。そこの席に座りましょうね」

 朝子は導かれるまま女性の隣に座り、出る限りの言葉で事件を語った。

 朝子が第三者に明かしたのは、事件発生から一年後、このときが初めてであった。

 「……そうだったの。それは辛かったわね。でも、もしあなたがずっと傷心したままだったら、そのお友達はもっと辛いはずよ」

 「そんな、彼女はもう、どこにもいないのに」

 「いるわ、ここに」

 女性は朝子の左胸をそっと叩いた。

 「ねぇ、あなた。強制するつもりはないけれど、試しにこの教室に通ってみたらどうかしら? それでもって、短大に入学する」

 「短大? どうしてでしょうか?」

 朝子は女性の思考を掴むことができなかった。先ほどまで考えなしに自分の、親友の身に起きたことを洗いざらい話してしまったのだから、無理もない。

 「私は待っているから、お友達と同じ保育士さんになってみなさいな。それにね、私が経営している保育園の周りは物騒なのよ。護衛のためにも、子どもたちを守るためにも格闘技は必要なの。だから、この教室に通っているってわけ。でも、歳には敵わないわねぇ。すぐに息切れするのだから。その点、あなたは良いわよ。まだ若いし、いくらでも挑戦できるのだから」

 「私が……保育士?」

 女性は頷くことも返事もしなかった。ただ、目を細めて微笑むだけだった。

 肯定も否定もしていない。決めるのは朝子自身だと告げている証拠だ。

 朝子にとって、女性の態度はどちらでもよかった。ただ、真理の無念を晴らすことができるであれば。

 「なります、私。保育士に。これから、受験勉強します。入学してからこの教室に通うので、それまでに筋トレしておきます」

 「そ、そう……」

 女性の驚く反応を見ずに、朝子は教室を去った。

 自宅から徒歩二十分の場所に位置する予備校に入講申し込みを済ませ、実家に戻った。

 翌日から朝子は来年の受験に向けて猛勉強をし、実事二十七歳で保育科のある短期大学に入学した。

 入学までの一年間、朝子は思い続けた。


 人を魅せられないバレリーナは死んだ。

 これからは自分が代わりに真理の人生を生きる。

 親友との約束を破った償いとして。


 入学から二年後、カポエラー教室で出会った女性が経営する保育所に二十九歳で就職。

 三十二歳で延長を任されるようになった。

 こうして、ブラックえんちょが誕生したのだ。

 今日も朝子はスワンらしく華麗に舞う(蹴る)。

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