第3話
ぼんやりとした視界の中、スワンが純白の翼を広げている。
華奢な足一本を軸にして、くるくると回っている。
髪飾りからはみ出る塊は、黒髪のお団子。
真逆の色の羽が乱れる中、そのお団子で焦点が定まる。
この場所は湖ではない。とある舞台の上にスワンが一匹舞っている。
スワンに見とれる人々が持つパンフレットには、ある女性の名前が記されている。
ASAKO MEGURO 目黒朝子。
派手なアイメイクをしていても、スポットライトを浴びる表情には妖艶さが物足りない。
凛としているよりも愛嬌を振りまいている方が自然に感じるほどだ。
彼女の笑い慣れている日常を証明するように。
目黒朝子、二十五歳。
彼女は十八歳で海外に渡り、今回初めて主役に抜擢された。
題目は「白鳥の湖」
スワンの服を脱いだ彼女はモデルにスカウトされるほどの美人ではないが、朝を告げるように明るい笑顔で周囲から親しまれていた。
日本を発つときも別れを惜しまれ、主役に抜擢されたことを知らせると誰もが喜んだ。
その内の一人が、観客としてもう一人の朝子に息を呑んだ。
朝子の親友である女性、白井真理。
彼女は保育士として、日本の保育園で働いている。
今回、親友の活躍を理由に休暇を得て、日本を発った。
真理は高校時代からの付き合いで、朝子の家族よりも誰よりも応援していた。
真理にとっても、朝子の今回の活躍は特別だった。
朝子の名前と写真の載ったパンフレットを大事そうに両腕で、皺にならないように包んでいる。
「朝子……すごいわ! こんなに感動するの、生まれて初めて!」
シソンヌ。右膝、つま先をしっかりと伸ばし、左足で空を切るように思い切りステップを踏む。
朝子は真理をはじめとする大勢の視線を集め、プレッシャーにも負けず踊っていた。
男性ダンサーが登場したときだった。
観衆の感嘆の声が、一斉に悲鳴に変わった。
朝子の動きも瞬時に止まり、初めて観衆に目を向けた。
「何ごと……?」
観衆がこの舞台を観るために通った入り口に、一人の男が立っていた。銃を持って。
「お、お前ら! こんなものに金をかけるなら、俺らに金を置いてから死んでしまえ!」
朝子にはおぼろげにしか見えませんでしたが、男の服は伸びきり薄汚れているようでした。
「皆さま、皆さま、落ち着……ッ!」
朝子は腹の底から力を入れ叫びましたが、銃声を耳にすると声を飲んでしまいました。
近くにいた警備員が男に撃たれてしまったのです。
観衆の混乱はさらに酷くなります。
ある人は泣き叫び、またある人は四つん這いで会場を去ろうとしました。
男は警備員が倒れ、自分を制する人間がいなくなったことで、一心不乱に銃を撃ちました。
そのときです。
「逃げるんだ、アサコ!」
「待って! あの声は……」
男性ダンサーが朝子の腕を掴み、退場を促しました。
それでも朝子は動くことができませんでした。
「真理……!」
親友の声が耳に届いてしまったのです。
それも、あろうことか、真理に銃口を向けています。
「ここにいる人たちには何の罪もないわ。文句があるならば政府にでも訴えなさい!」
果敢に立ち向かう真理の腕の中で、子どもが大声で泣いています。
おそらく、混乱の中、親とはぐれてしまったのだろう。
真理にはまだ子どもはなく、結婚もしていないのだから。
「うるせぇ! ちゃんとこっちの言葉で言いやがれ、アジア人め!」
「ごちゃごちゃ言っていないで、さっさとその物騒なものをしまいなさい!」
心優しくも勝ち気な真理は男に対抗します。
「逃げるんだ、アサコ!」
「逃げられないわ! 親友が危険な目に遭っているのだもの」
一方、舞台の上では、朝子がその場に留まろうとします。
「逃げるならば、あなただけにして! そして一刻も早く警察に通報してちょうだい」
朝子が言うと、男性ダンサーは負い目を感じる表情で朝子を残しました。
事実、朝子は男性ダンサー一人の命を救うことになるのですが、それ以外には何もできませんでした。
「真理、真理!」
ただ、親友の名前を叫ぶだけです。
先刻まで優雅に待っていた足は不格好に震え、翼の羽も抜け落ち人の手に戻っていました。
朝子とは正反対に、真理は温かみのあるペールオレンジ色の翼で色素の薄い子どもを包み込んでいる。
真理の毅然とした態度に、男の興奮は絶頂まで達した。
「くそう! なんで世の中、何もかもこうも上手くいかないんだ! ちきしょう! お前らなんて、こうしてやる!」
その瞬間、真理は子どもを後方に突き飛ばした。
「走って! JUST GO AWAY!」
「真理―!」
朝子は全身の力を振り絞って、金切り声を上げた。
それでも、会場に朝子の声が響くことはなかった。
男が真理に向かって銃を撃ったからだ。
そのとき、真理が何を言おうとしていたのかは分からない。
後方の朝子に向かって弱々しく微笑み、背中を地面につけるように倒れた。
子どもは真理が力尽きる瞬間を見ていない。
真理に言われた通り、突き放された瞬間、走り出したからだ。
会場の席に身を潜めながら中腰で男から遠ざかったので、しばらくしたらはぐれた親と再会できるかもしれない。
また、男は二度も人に銃を放つことをしなかった。
天井に向けて十発ほど撃ち、最後には自らの額を傷付けた。
「こんな世界とはおさらばだ! 神とやらに一つ文句言いに行ってやるぜ!」
ほどなくして、男も倒れた。
「真理、真理!」
ようやく動けるようになった朝子は、舞台を飛び降り、会場の入り口付近まで階段を上った。
日本を離れて七年、久々に会った親友は何も語らなかった。
すでに、この世の人でなくなったのだ。
「真理……ごめんなさい。私のせいで、これからも保育士として頑張って、素敵な男性に出会って結婚するはずだったのに。その未来、全部私が奪ってしまった……。私が、下衆な男を魅せることさえできたら、こいつも銃を下ろしたかもしれないのに、本当にごめんなさい」
警察が駆け付けるまでの十分間、朝子は衣装の汚れに構わず、膝を地に付け豪雨のごとく涙を親友に捧げた。
警察署にて事情聴衆を受けるも、朝子は一言も口にしなかった。
放心し、警察官の問い詰める数々の言葉を受け流した。
諦めた警察官は精神医を呼び、朝子の様子を見せた。
精神医は、警察官に、朝子をそっと見守るようにと告げた。朝子をその部屋に一人残し、二人は別室からカメラを通じて監視した。
朝子はそのようなことはお構いなしだった。むしろ、精神医の顔すら覚えようともしなかった。
監視されて二時間後、朝子はゆっくりとトゥシューズを脱いだ。
「……何が主演よ。何が、バレリーナよ!」
脱いだトゥシューズを地面に叩き付けた。
あまりの衝撃に対のトゥシューズが跳ね上がると、痛いと訴えるように朝子の鼻を突いた。
拍子に目を瞑ると、親友の真理の笑顔が暗闇の中で輝いた。
「朝子、私、踊っている朝子を見るのが大好きだよ」
朝子の主演が決まった夜、国際電話で真理が言った言葉を思い出した。
朝子は、我が身を顧みた。
純白の衣装は輝きを失っている。
化粧は崩れ、指でなぞるとパウダーが付着する。
姿勢はだらしなく、バレリーナの品格を感じない。
「ごめんなさい。私、真理が思ってくれているほどのスワン……いや、人間じゃないの」
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