第2話

 えんちょの一日は早い。

 午前五時、朝子はすでに保育園にいる。

 園児の教室に取り付けたバーで入念に体操をすると、保育園の敷地内、グラウンドやフェンスの細部にいたるまで細かく目を配る。

 暴力団が扱う覚せい剤らしき物体もない。血痕も見当たらない。物騒な気配も感じない。

 異常なしと判断した朝子は教室の掃除に取り掛かる。

 このとき、園児の持ち物にも目を光らせる。

 最後に、職員室の清掃をする。

 床の隅々まで磨いた後、最後にロッカーをチェックする。

 「……よし」

 園児も部下も健全であることを確信し、ようやく自分のデスクに向かう。

 午後七時、朝子の部下である保育士が出勤する。

 上司と部下は簡単な挨拶と朝礼を済ませ、三十分後には園児を迎え始める。

 この日の午前中は、園児たちがおもちゃを取り合って喧嘩したことを除いて、穏やかだった。

 変化が起きたのは、午後三時、園児が昼寝をしている最中だった。

 「え、えんちょ先生!」

 この道十年のベテラン保育士が生まれたばかりの仔馬のような足取りで、朝子の懐に入ろうとした。

 「どうしました、京子先生」

 朝子は京子の肩を掴み、自分に触れることを拒んだ。

 「落ち着いて話してみなさい」

 すると京子は震えた声で答えた。

 「あれは……さすがに手に負えません。女性とはいえ、包丁を振り回しているのですから」

 朝子は侵入者の存在を疑った。

 「さきほどから微かに叫び声が聞こえると思ったら……。京子先生、まずは落ち着いてください。そして警察に通報なさい。他の先生方はすべての窓、入り口にしっかりと鍵をかけておいてください。決して、子どもたちに悟られないように。良いですね?」

 京子に共鳴し震え始めた若い保育士たちは頷くことすらできなかった。

 「良いですね!」

 朝子が声を低くすると、ようやく保育士たちが動き出した。

 そして朝子はグラウンドへと向かった。


 「……あの人は」

 部下の進言通り、グラウンドには包丁を持った女性がいた。

 ただでさえ物騒な状況であるが、朝子が気になったのは自分の記憶と女性の様子だった。

 朝子は女性をよく知っていた。もっとも、現在の表情は先刻まで知らなかったが。

 その女性は、千鳥足で何かを狙って包丁を振りかざしている。

 けれど彼女の周囲には何もなく、空を切るのみだった。

 ピルエット・アン・ドゥダン。

 右足を軸にして体を時計回りさせる。

 朝子は慎重に、十センチずつ女性に近付いた。最後に包丁を下ろした瞬間を狙い、つま先で女性の手を突いた。

 その拍子に包丁が手から離れた。

 「何すんのよ……人でなし」

 女性は中腰でギロリと睨んだ。

 朝子は包丁を踏みつけ、二度と女性が手にすることのないように努めた。

 「やはり、真美ちゃんのお母さまですね?」

 「うるさい! うるさい、うるさい、うるさい! 死ね!」

 定まらない目で朝子を罵るのは、先月家庭の事情で保育園を辞めた女児の母親だった。

 「真美ちゃんは今どうしているのですか? ……いえ、話しても無駄ですね。その様子では」

 朝子は踏み付けたままの包丁を自分の後方に移動させ、構えた。

 「ああー!」

 女性が朝子にのしかかろうとした瞬間、朝子のもう片方の足が舞い上がった。

 「ううっ!」

 女性はそのまま気を失った。

 ほどなくして、警察官が二名、パトカーに乗ってやって来た。

 女性は業務執行妨害及び恐喝で現行犯逮捕となった。


 翌日、朝子は警察署に出向き、真美が保育園を辞めた本当の理由を知った。

 真美の母親は物腰の柔らかい暴力団との交際と同時に覚せい剤を始めた。

 覚せい剤の使用を重ねるうちに、彼女は即効性のある快感のみを求めるようになり、育児が疎かになった。

 また、覚せい剤の購入に充てるため、保育料の延滞が半年も続いた。

 真美の顔に痣が目立つようになったのは、延滞した最初の月だった。

 やがて真美と母親は保育園に姿を見せなくなり、そのまま退園扱いとなった。

 真美の痣を気にしていた担任の保育士と朝子は児童相談所に通報したが、運悪くも応対したのが不謹慎で横着な職員だった。

 大人による救いの手が差し伸べられる前に、真美は自宅にて虐待死していた。

 警察は覚せい剤使用、殺人、そして死体遺棄の現行犯として真美の母親を再逮捕。交際相手の暴力団員も同罪として逮捕された。

 この事実は職員の間で留めておいた。

 あることないことで大人に噂されれば、天国にいる真美が可哀想という理由だった。

 真実を知った朝子と担任の保育士は、翌日より毎月の命日、真美の死体が発見された場所に花を手向けた。

 来世では健全な場所に生まれ育ち、両親に恵まれることを願って。


 今日も朝子は華麗に舞う(蹴る)。

 敷地外から敵意でない何かの視線を感じて。

 約半年間、朝子は不可解に思いながら一日を過ごした。

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