ブラックえんちょ
加藤ゆうき
第1話
タン・リエ・パール・テール。
両翼を傘の形に開き、右足を前に出すと同時に両翼で己の前面を覆う。
羽根が抜け落ちないように、左翼をそっと天に向ける。
ガラス窓を開ける右手は突風のように速く、トゥシューズを履いた両足の前進は「ドレミの歌」のように遅すぎず軽やかに。
漆黒のスワンの登場。
すっぴんに近いメイクに加え、目力も口角の動きもないので、スワンの表情はまったくといって良いほど分からない。
黒髪を纏めたお団子頭、黒のタートルネック、黒のスキニーレギンス、そして黒のトゥシューズ。
そこにとって非日常のコスチュームと動作が、周囲の視線を奪う。
パステルカラーのジャージを着た女性二人、水色のスモックを着たおよそ二十人の小人。
そして色あせた黒のジャケットに金色のラインが描かれたシャツを合わせた強面の男性が三人。
タタンタンタン! 音楽の授業でもお馴染みのクラシック曲が流れるようなテンポで近付いてくるスワンに、男性たちは上半身がのけ反る。
「何なんだ、こい……グフッ!」
「アニキ! ゴフッ!」
「ひっ……ダァッ!」
スワンの片足が軸となり、もう片方の足が男性の顔面を巻き込んで円を描く。
男性たちは声を発すると同時に尻もちをつく。
「このアマ!」
最初に倒れた男性が立ち上がらずにジャケットの懐に手を入れると、スワンは開眼する。
住処とする湖が瞬く間に湖底まで凍り付いてしまうほどの眼差しだ。
「出ていきなさい」
スワンの言葉はそれ以外にない。それでも男性たちは、顔も体も正面を向き両足をクロスしているように見せるアン・フェスのポーズを崩さないスワンに寒気を感じた。
「た、ただでは済まないからな!」
「変人め!」
「あ、アニキー!」
三人の男性は縦列に沿って立ち去った。
色あせた影が跡形もなく消えると、これまで硬直していた小人が無邪気な子どもに戻った。
「えんちょ! えんちょ! ブラックえんちょ!」
およそ二十人分の手叩きがスワンを囲む。
「園長先生、また助けてくださって、本当にありがとうございます」
「……次回、このようなことが起きたら、真っ先に園児たちを室内に非難させなさい。あなたたちは固まっている場合ではありませんよ」
スワンは女性二人の安堵した表情を確認せず、室内に向かって、つま先立ちで歩き出した。
子どもたちの喝采というアーチをくぐって。
そう、ここはあさがお保育園。漆黒のスワンの正体はこの保育園の園長を務める女性。
名前は目黒朝子、三十五歳。
先刻の男性三人は保育園の周辺を縄張りとしている暴力団の一員、彼らに怯えていたのはあさがお保育園の若手保育士と園児たち。
朝子は部下と園児たちを守ったのだ。
バレエで。
朝子の前職はバレリーナ。
その経験を活かし格闘技を融合させた結果、今では漆黒の容姿、ブラックスワンにちなんで「ブラックえんちょ」と呼ばれている。
ちなみに「えんちょ」とは、まだ舌足らずの幼い子どもたちが自然と呼ぶようになった略語である。
彼女の一日は暴力団の退治で始まり、暴力団の退治で終わる。
一見治安の悪い区域に保育園が位置するが、保護者は朝子の実力に安心して息子、あるいは娘を預ける。
この区域に、朝子を知らない者はいない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます