06 魔法使いとの邂逅
2月1日20時頃。町は段々と静けさを増していく。俺は昼間の調査のことを思い返す。
先日テレビに映っていた場所に向かう。
元は立派な一軒家であったと思うが、今は焼け焦げた家の骨組みがそこにあるだけだ。
辺りを見回す、すると予想通り魔法の痕跡を見つけることができた。
今まで見た中では最も濃く痕跡が残っている。
犯行は魔法によるものだと確信した。
裏付けを取るために他の現場も調査をしてみるが結果は同じだった。
だがそこで俺は重大なことに気付く。
たとえ犯人を見つけることができたとしてもなにもできないのだ。
犯人は魔法で放火を繰り返している、そんな事実を一体誰が信じるのか。
そうなると取れる選択肢はただ一つ。俺がその犯人を裁くしかない―
だが犯人が大人しく俺の言うことに従ってくれるとは考えにくい。
そうなると必然的に力尽くでねじ伏せるしか方法はないだろう。
相手は炎を操る魔法使い、戦闘になった場合その力は脅威となるだろう。
一方こちらは戦闘で役に立つような魔法を修練してきたわけではない。
敵と自分との力の差が未知数である以上真っ向勝負を挑むのは得策とはいえない。
とはいえ犯人が日を置かず、さらなる犯行を重ねる可能性は高い。
危険が伴うとしても、事前準備なしの本番一発勝負を仕掛ける、それしかない。
一通り調査を終え、一度事務所に帰還する。
犯行が行われている時刻は決まっていた。大体20時から23時の間だ。
杏莉さんに早めの夕食をお願いする。腹が減ってはなんとやら、という訳だ。
「放火事件、なにかわかりましたか?」
「んー、犯行時刻は20時から23時の間。それと事件現場の傾向かな。それでヤマを掛けて張り込みをするつもりさ。だから、その間に腹が減らねぇように早めに杏莉さんの美味い飯を食って英気を養っておこうと思ってね」
「なるほど、でもそれで犯人を見つけてしまったらどうするんですか?」
「弱っちそうならとっ捕まえる。強そうだったら顔だけ写真撮ってとっとと逃げる」
「なんというか、犯人を見つけてほしいような・・・ほしくないような・・・」
「まあ、無理はしねぇさ」
そんな話をしながら食事を済ます。いつも通りご馳走様と一礼をして立ち上がる。
「そんな訳で行ってくるわ。帰りは・・・どうしようかな?」
「私は慧さんを待ちます。もしなにかあれば電話かメールで連絡をください。そういえば、まだ連絡先を聞いてませんでしたね」
「わりぃ、俺携帯持ってねぇんだわ。電話を持ち歩くってのが嫌でさ。家の電話かパソコンのメアドしかねぇわ」
「え!そ、そういえば慧さんが携帯を使ってる所、見たことなかったです・・・」
このご時世、携帯やらスマホを持っていないというのは俺らの年代では稀な話だ。
驚くのも当然か。
「そういう訳だから最悪そのまま家に帰ってそっからメール送るよ、だから帰りが遅くなったら構わず寝ちゃってくれ」
「わかりました。ではなにかあった時は、このアドレスに連絡をくださいね」
彼女から電話番号とメールアドレスが書かれた紙を受け取った。
「そんじゃ行ってくる。陸もまた後でな」
いつもならにゃーん、と返事をするはずなのだが今回は返事がない。
昼に出かけた時は返事があったのだが。
陸は背筋を伸ばし座りながらこちらを見ている。
何か言いたげにしているが人間の俺には猫の気持ちはわからない。
「陸ちゃん、どうしたのかしら?」
「・・・さぁな、まぁ行ってくるよ」
「はい、くれぐれも無理はしないでくださいね」
数分おきに犯人を探索する魔法を展開する。今のところ反応はない。
心の片隅で今日は犯行が行われないで欲しいと弱気になる。
(一日あれば多少は対策を立てられそうなんだがなぁ)
そんなふうに考えていた矢先、暗闇の向こうで
「くそっ!ふざけた真似しやがって!」
犯行を未然に防ぐことができなかった苛立ちを押し込め、火の手が上がる場所へ急いで向かう。
火が燃え盛る現場に到着すると、そこに一人の男が空に浮かんでいた。
「やっぱりキレイだなぁ!最っ高の気分だ!これから毎日家を焼くぜぇ!!」
ボサっとした髪に、だぼついたジャンパーと擦れたデニムのジーンズ、薄汚れたスニーカーを履いている根暗そうな男は興奮しながら叫んでいた。
コイツが連続放火魔か。俺は覚悟を決める。
「お前が噂の連続放火魔か」
「うお!だっ誰だ!・・・そ、そうか、あんたも俺とおんなじ、まっ魔法使いなのか!」
相手はさっきの様子とは打って変わり、落ち着きのない態度でこちらを見た。
「お前と一緒にされるのは心外だな。俺は探偵だ、お前みたいな放火魔とはちげぇんだよ」
「そっその探偵やってるあんたがなっなんの用だよ・・・!」
「お前みたいなヤツを野放しにはできねぇからな、俺がやめさせにきた」
「やめ!やめさせる!?・・・ふざっふざけんな・・・いきなり!・・・出てきて、おっ俺の楽しみ・・・俺の楽しみを!奪われてたまるかー!」
「お前がやめる気ねぇなら、力づくでやめさせるしかねぇな」
「あっあんたが・・・やっやるっていうなら・・・!お前・・・お前をー!」
そういうと相手は両の
火は次第に強くなり燃え盛る炎となり辺りを照らすまでに大きくなる。
「俺を殺るってのか?今までもビビって人は殺してないんだろ?」
「ちっちがう!お、俺は炎が綺麗に燃え上がっているのを見るのが楽しかったんだ!でもあっあんたが俺の楽しみ!楽しみを・・・邪魔するならー」
「俺は、殺れるぞ。その必要があるならな」
対抗すべく意識を集中して念じる。雪で傘を作った時の応用で、空気中にある水分を凝固させ、三つ氷の短剣を精製し、俺の周囲に展開させる。
「そっそんなもん、俺・・・俺の炎で焼き尽くしてやるー!」
相手は俺を腕で振り払うかように手から勢いよく炎を撒き散らしてきた。
俺の周囲を焼き尽くすかのように放たれ、迫りくる炎を紙一重のところで回避する。
氷の短剣はその炎に巻き込まれて一本だけ燃え尽きてしまうが残りの二本を炎を避けながら相手に向けて放つ。飛行する魔法の応用し、氷の短剣を空中で自在に操る。
対象が自分から物に変わっただけなので比較的自由に移動させることができる。
もっとも同時に移動させられるのは現状では三つの物体が限界のようだが。
それ以上は魔法の処理が追い付かないせいか、自由には動かせそうにない。
一本は相手の左側面から顔めがけて放つ。
「そっそんな武器じゃ俺にはき、効かないっ!」
しかし当たる直前で炎に焼かれ、一瞬で蒸発してしまう。
その隙にもう一本を相手の背後に忍ばせる。
だがあと少しというところで相手に感づかれてしまい、後ろを振り向かれ炎を拡散させて短剣を消し去った。
「あっあぶなかった・・・へ、へへ・・・で、でも詰めがっあ、甘かったな!」
「ああそうかい、でもまだまだ在庫はあるんだぜ?」
強気の姿勢は崩さない、だが状況はかなり厳しい。
魔力の残量に差がある。自分は5割程度、それに対して相手は7割ほど残っている。
仮にこれが均等に減っていくとすれば先にこちらが魔力切れを起こし敗北。
だがそれは希望的観測に過ぎない。実際は手慣れた魔法を使う相手の方がが有利だろう。
長期戦では絶対に勝てない。魔力が枯渇する前になんとかして決着をつけるしかない―
手元に氷の短剣を作り、間髪入れずにそれを相手に投げつける。
一つ、二つ、三つ・・・合計5本の氷の短剣が相手を目掛けて飛んでいく。
「かっ数が増えたって、か・・・関係ないぞっ!」
相手は両手を前方にかざし、炎を噴射する。
5本の短剣のうち2本はすぐさま燃やされ融解する。しかし残りの3本は直接操作をして相手を襲撃する。炎を前方に放ってくれたおかげで相手に死角が生まれる。
敵の背後、三方向からの奇襲させるが相手は後方に炎を出現させ、迫りくる短剣を軽々と燃やし尽くしてしまう。
「な、何本か残ってたのはみ、見えてたよ!」
この戦い方では埒が明かない。
だが今までの戦いの中で分かってきたこともある。敵の弱点が見えてきた。
すぐさま氷の短剣を4本作り上げる。今度は敵を攻撃することが目的ではない。
「ま、またその武器か!同じ手はき、効かないぞ!」
無視して短剣を操作する。相手を中心として数メートルのところで敵を囲んで円を描くように短剣を放つ。単純な円運動なのでこれなら複数の操作が可能だ。
準備を済ませ俺は強く念じ始める。短剣が描く円の結界の水分が凍っていき、局地的に大雪が降っているような状態を作り上げ、ダイアモンドダストを発生させた。
「くっ、こ、こんなことして背後を取ろうとしても、むっ無駄だからな!」
考えはバレてしまっているがやるしかない。相手が吹雪の中心で炎を発しているのがわかる。どうやらその場から動かず迎え撃つつもりのようだ。
周りを回転させていた短剣を敵の死角から襲わせる。
4本の短剣を時間差で操って波状攻撃を仕掛ける。
「効かないぞ!」
一つ、また一つと氷の短剣は溶かされていってしまう。
しかし最後の一本が打ち落とされた瞬間に大きな隙が生まれる、ここだ―
手には氷で作った刀を強く握りしめ、相手の死角から奇襲を仕掛ける。
これが決まれば俺の勝ちだ。
「あ、甘いな!」
突如振り向かれ、相手の全力で放った炎が爆炎となって直撃した。
「ふ、ふへへ!残念だったな、ワザと隙を作って誘ったんだ!まんまと引っかかったな!お、俺に勝負を挑まなければ焼け死ぬことなんて、なっなかったのに!フ、フヘヘハハ!」
渾身の魔力で放ったであろう業火に焼かれ、跡形もなく消え去る。
「よ、よし!邪魔者は消えた!こ、これで毎日家を燃やしまくれるぞおぉ!ハ・・・ハハ、アハハハハ!」
放火魔は高笑いをする。勝者の特権、自分の力に酔いしれる。
「確かに毎日家を焼けるかもなぁ?燃やしたのがこの俺だったらな」
俺は相手の頭を鷲掴みにして強く念じる。すると相手の全身に電撃が走る。
「あばばばば!な、なっなんで生きて!あがががが!」
「抵抗はしないほうがいい。少しでも何かしようとしたら・・・わかってるな?」
「はいぃい゛い゛い゛い゛い゛い゛わがりまぢだーぁぁぁががが!」
「お前がさっき燃やしたのは俺が作った『俺そっくりの氷の彫像』だ。お前は短剣を視認して撃ち落としていた。だから吹雪で視野を奪い、お前の予想通り死角から波状攻撃を仕掛け、最後に隙を見せたところに氷の彫像をぶつけた。お前がそうやって誘っているのはわかっていたからな。その間に気配を消してさらに背後を取る。後は勝ちを確信して隙だらけのお前を捕らえればそれで終わりって訳だ」
「く、くっ・・・わ、わっ悪かった、あ、あやまる。た、頼むから、こっ殺さないでくれ!!」
「さっき毎日家を焼くとか言ってたヤツはぁ・・・誰だったかなぁ?」
「ゆっ!許してくれ~~お願いだ~~~!!」
男はガクガクと震えながら涙声で必死に訴えかけてきた。
「お前が今までしてきたことを考えるとそう簡単には許せないな・・・そうだな」
そういって再度電撃を流し込む。
「あばばばば!や、やめてくれ!もうやだー!!」
「今お前の頭の中に爆弾を仕掛けた。起爆する条件は・・・魔法を悪用する事だ」
「わ、わかりました!も、もう悪いことはしなっ・・・しまっ、しません!」
「折角手に入れた力なんだ、もうちょい人の役に立つような使い方をしろよ?」
「はいぃぃっ!こっこれからは心を入れ替えますうぅぅ!!」
「わかれば、宜しい」
鷲掴みにしていた頭を離してやる。振り返ってこちらを見てくる。
目からは大量の涙を流している。相当ビビっていたようだ。
「あ、あっ、ありがとうございます!も、もう悪いことはしません!」
「まぁ・・・なにかあればお前が爆死するだけだから俺には関係ねぇけどな」
「ひ、ひぃ~!すいませんでしたー!!」
そういうと男は一目散に逃げて行った。これでもうあの男は放火を繰り返す事はないだろう。
(まったく、相手が調子に乗ってただけの小物で助かったな。爆弾なんて仕掛けちゃいねぇんだがなぁ)
会話の成り行きで必要であれば人も殺せる、と強がってはいたが正直そういった状況はあまり想像したくなかった。
相手が法で裁けないような人間であっても、俺が手を下していいという訳ではない。
それは本当にどうしようもない時の最後の手段・・・できればこの先そういった場面に出くわさないことを願いたい。
魔力は残り一割を切っていた。
慣れない魔法を連発したせいか、かなりギリギリの戦いになってしまった。
今回は運が良かっただけだが、今後も無傷で勝てるとは限らない。
これからは魔法使い同士の戦いも考慮して魔法の修業を行わなければ。
(・・・とりあえず事務所に顔出すか、杏莉さん待ってるかもしれねぇし)
事の顛末をどう話せばいいかとあれこれ考えながら帰還する。
「ただいまー」
にゃ~ん、と鳴く声。俺が帰ってくるのを知っていたかのように陸が出迎えてくれる。
「慧さん、おかえりなさい。あの、大丈夫でしたか?」
「大丈夫・・・といっていいのか、これは。放火事件を阻止することはできなかったし、犯人の姿はちらっと見たんだが顔はわからなかったよ」
「犯人、みつけたんですか・・・?」
「んーまぁ、多分そうだと思う。今後も犯行を続けるのであれば引き続き調査しているうちに、いずれ捕まえられるかもしれん」
「警察が二か月も手掛かりなしだったのたった一日で・・・あの、慧さん?」
「ん?なんだ?」
「慧さんって、ほんとはなにかすごい人なんですか?」
「いや、別になんもないけど。ただの三十路のおっさんですよ」
「むぅ~、超能力とか、魔法とか使えるほんとはすごい人だったりしません?」
いきなりの事でギョッとしてしまう。完全に図星だがバレているわけではなさそう・・・だよな?
「んな非科学的な事があるかよ。た!だ!の!おっさんです!」
「そこはその、おにいさんでもだいじょぶだと思います!」
「そうかい、そりゃよかった」
「むぅ~~」
唸り声をあげながら眉間にシワを寄せ、頬を膨れ上がらせている。思わず笑ってしまう。
「いや、そんな面白い顔するなよ」
そういうとはっとして普段の顔に戻る。
「おっ面白い顔なんてしてません!」
そんな他愛のない話をしながら机の上に置いてあったノートパソコンを起動する。
「今日は依頼のメール確認するの忘れてたからそれだけ見たら帰るよ」
そういってメールを確認する。すると新しいメールが一件届いていた。
そこにはこう書かれている。
「・・・家出した娘を・・・探してほしい?」
なんとなく引っかかる感じがしたので少し考えてみる。
家出、誘拐、失踪、行方不明・・・連想ゲームのように単語がポツポツと思い浮かぶ。
「家出の捜索依頼ですか・・・」
「そうみたいだが、なんか最近少女が失踪したってのをどっかで見たのを思い出してな」
書斎のファイルにもそういった事件の情報があった気がする。
「えっと、確か何件かそういった事件が起きているとテレビや新聞で取り上げていたと思います」
記憶違いではなさそうだ。
今回の家出の件、少女失踪、一ノ瀬遼太の失踪・・・なにか関連があるのだろうか?
「次の仕事はこれで決まりだな」
そういって俺は立ち上がる。
「さて、今日は帰るよ」
「はい、明日もよろしくお願いします」
「ああ、陸もまた明日な」
今度はちゃんと返事をしてくれた。本当に不思議な猫だ。
俺は今日の事を思い返す。魔法使い同士の邂逅。
そしてこれから起きるかもしれない戦いの事を。
事件を調査していくうちに魔法使いと出会ってしまう事はこの先も十分にあり得る。
その時も今回のように勝てるとは限らない。
最悪の場合、死という現実を突きつけられるかもしれない。
だがそのような結果は絶対にあってはならない。
少なくとも今は一人、俺の帰りを待つ人がいるのだから。
俺が居なくなってしまうような事があれば彼女はまた一人きりだ。
いくら俺が薄情な人間だとしても、彼女の信頼を裏切るような真似はしたくはない。
出会って間もないが彼女はこんな俺の事を信頼してくれている。
人の想いの強さに時間は関係ない。だから裏切りたくはないと強く思った。
(この俺が人の心配か。年を取って俺も変わったって事か・・・)
決して悪い気はしない。このまま俺の心の闇が祓われるのであればそれもいい。
今は素直にそう感じることが出来た。
―――――
私は猫である。名前はまだない。
人間というモノは不思議な生き物だ。
特にここ最近見かける人間は不思議だ。何せ鳥のように空を飛んでいるのだから。
その人間は何かを探すように私の遥か頭上を飛んでいく。
他の者たちはそれに気づいてはいないようだが私にはそれが見て取れる。
最近は寒くなってきた。草木が芽吹き出す暖かな頃は、日差しがとても心地よくこの広場でよく居眠りをしていたわけだが最近はそうもいかない。
今は私がいるこの広場の端に白い塊、人間が雪と呼んでいる物が積もっている。
それ自体は特に気にもならないのだが如何せん寒さが身に染みる。
この季節を過ごすのはこれで二度目になるが、私のような者にとってはあまり嬉しくはない季節だと言える。
今日は空を飛ぶ不思議な人間が私の元へとやってきた。
不思議そうに私の事を見つめながら手を振っていたので返事をする。
その人間は最近この公園にやってきた私と同じ色をした猫を拾いあげて再び空へ飛び立っていった。その人間の探し物はその猫だったようだ。
次の日もその人間はやってきた。私がいつも座っている場所の隣に腰を下ろした。
人間は近づくと暖かいので、すり寄って寒さをしのぐ。
その人間が話しかけてくるのでとりあえず返事をする。
するとその人間は私の頭を撫でてくる。
特に理由は無いのだがその場でゴロゴロと寝転がる。
次に来るときには差し入れを持ってきてくれると言っている。
私にとってはありがたい申し出だ。
人間が帰ろうとする姿をじっと見つめている。
自分では私の事を預かることは出来ないと言うようなことを話している。
少なくともこの人間は私に好意的なようだ。
去っていく人間を少し追いかけてみることにする。
すると観念したかのように、別の人間の元へ連れていくと言っている。
私としてはこの寒さから逃れられるのであれば願っても無い事だ。
その人間に抱きかかえられながら空を飛ぶ。私は鳥ではないのでこのような景色を見るのは初めてだが中々に気分がいい光景であった。
しばらくすると人間が住んでいるであろう場所に連れていかれる。
そこには別の人間が私を抱きかかえた人間の帰りを待っていたようだった。
挨拶代わりにと、その人間の足元にすり寄る。すると柔らかい手で撫でまわされる。
どういう訳か体が自然と動きその場でゴロゴロと転がってしまう。
しばらくするとその人間に抱き上げられる。
先程の人間とは違って胸のあたりに柔らかいものが付いている。
人間にも色々な種類があるようだ。
今私を抱えている人間は杏莉と呼ばれている。
私を連れてきた人間は慧。そして私には陸という名を与えられる。
生まれてこの方、己が名など気にも留めなかったがそれが私という存在を示す言葉なのだと思うと悪い気はしなかった。
二人は私をここに住まわせてくれるようだ。私はその好意に対し、敬意を表する。
人間のそれと同じく背筋を伸ばして頭を垂れる。
私の目の前に今まで見たことのない物が運ばれてくる。
美味しそうな匂いが私の食欲をそそる。
それを口にしてみると今までには味わったことのない感覚に襲われる。これは美味だ。
ここに連れてきてくれた慧という人間には感謝をせねばなるまい。
そしてこの美味なる物を差し出してくれた杏莉という人間にも。
私は心に誓った。何時かこの人間達には礼をせねばなるまい。此処へ連れてきてくれた人間の事を主殿、美味なる物を差し出してくれた人間を杏莉殿と呼ぶことにした。
主殿が去った後に杏莉殿が「オフロ」と呼ばれる場に私を入れてくれた。
私の体が入る程度の大きさの物の中に水が入っている。
触れると丁度良い加減に暖かい。その中に浸かってみると中々に快適であった。
まるで暖かい日差しの中で微睡む様なそんな気分になる。
その後は杏莉殿が私の体を綺麗に洗ってくれる。これも中々に心地よかった。
本当に感謝してもしきれない。
今度は杏莉殿がオフロに入っている。
暫くすると何か思い詰めるような顔をしながら出てくる。
私はそんな杏莉殿を出迎える。すると笑顔で私の事を見つめてくれている。
暗闇の中杏莉殿は眠りにつく。それを確認してから私も眠りにつく。
此処は至極暖かで居心地が良い。
主殿は探偵と呼ばれる何かを探し出す様な仕事を生業としているようだった。
杏莉殿はその補佐をしているようである。
今宵も主殿は何かを探しに出かける。しかし今回は何か嫌な予感がしていた。
主殿の身に何かあるのではないかという予感が。
いつもは主殿へ挨拶をして送り出していたのだが今日はその予感を伝えなければならないと感じた。
しかし私は猫だ。人間の言葉など話せる訳もない。
出来ることと言えば真剣な顔をして見つめることぐらいだ。
果たして主殿に私の気持ちが伝わったのだろうか?それは私には解らなかった。
主殿がいない間、杏莉殿は落ち着かない様子でその帰りを待っていた。
暫くすると主殿は何事もなかったかの様に帰ってきた。
しかし私にはわかる。主殿の身に何かあったのだと。
平静を装ってはいるが大分力を消耗しているのが見て取れる。
我々が縄張り争いをするように、人間達にも人間同士の争い事があるのだろうか。
しかし流石は主殿といった所か。
これならばこの先も心配するようなことはあるまい。
新しい日々が始まる。主殿と杏莉殿に見守られる日々が。
この恩はいつか必ず返さねばなるまい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます