第5話 奇跡を起こした少女の悩み

 5.奇跡を起こした少女の悩み



 バイロイト――連合軍がニュルンベルクを接収して以来、この町にはゲルマニア軍に対する前線基地が築かれている。

 国道である九号線を真っ直ぐ北上すればベルリンに着くこの場所は、戦況の膠着こうちゃくしている西部戦線やフランクフルト側のルートよりも重要な拠点といっていい。数日前から、ここにはルネが率いる連合軍のAM部隊が駐屯していた。


 かつてのインゴルスハイム基地とは違い、バイロイト基地は元々出版社だった建物を兵士宿舎に改装している。隣が軍需工場だったため、AMの整備ドックとして使用するのに都合が良かったのだ。

 その一階の食堂室で昼食をとっていたアーサリンの耳に、元々この基地にいた兵士たちの噂話が聞こえてきた。


「ねぇ……あの人だよ。アーサリン・ブラウン少尉……」


「知ってる。初出撃であのインメルマンを撃破して、次の日にリヒトホーフェン姉妹の赤いほうを再起不能にしたんでしょ」


「凄いよね……あんまり胸大きくないのに。ウィルマ・ビショップ中尉以上の天才なんじゃない?」


「でも、見た目は全然そうは見えないよね」


「いえ、大人しそうな見た目だけど、実はめちゃくちゃ怖い人なのかもよ?」


「ああ、私聞いたことある。インメルマンを撃破したとき、もう動かない敵の機体に何発もパイルバンカーを打ち込み続けてグチャグチャにしたとか……」


「それなら私も聞いた。パイルバンカーで千切ちぎれたリヒトホーフェンの脚をコックピットから引きずり出して、その血を相手に浴びせてたとか……」


「怖っ! ……それってちょっとサイコパス入ってない?」


「(うう……またおかしな噂が立ってる……)」


 半年前にマクシーネ・インメルマンとマルグリット・フォン・リヒトホーフェンの二大巨頭を撃破したアーサリンは、それ以降ずっとこのような好奇の目に晒されていた。ただ噂になるだけならいいのだが、その噂にとんでもない尾ひれが付いていることが多いのが最近の彼女の悩みだ。


「ぷっ……くくく…………くっふふふふふふ……」


 アーサリンの向かいに座っていたエダが腹部を押さえ、必死に笑いを堪えている。


「もう、エダさん他人事だと思って笑いすぎです」


「だ、だってさ……あいつら完全にお前のこと化物バケモノかなんかだと思ってるぞ。本人のことよく知ってる人間はそりゃ笑うって……あー、駄目だぁ。お腹痛い」


「むぅ……私がインメルマンやリヒトホーフェンに勝てたのなんて、ただの偶然なのに……」


 アーサリンがまるで“そっぴーちゃん”扱いされたトマサのようにむくれる。


「偶然だろうと実力だろうと、撃破した相手が相手だからな……同じ部隊のあたしだって実際にそのシーン見たわけじゃないから、最初は一体なにがどうなってそんな奇跡が起きたのかと思ったし。噂に多少尾ひれが付くのはしゃあねえよ」


「“多少”じゃないから困ってるんです」


「まあまあ、有名税だと思って我慢しなさい。期待のルーキーちゃん」


 エダがまるで姉のようにアーサリンの頭をわさわさと撫でる。


「ほら、そんなことより午後からの哨戒しょうかい行くぞ」


「はぁい……」


 アーサリンは渋々食器を片付けると、エダを追って食堂を後にした。




 その日の夜、哨戒しょうかい任務から戻ったアーサリンはパイロットスーツ姿のままで廊下を歩いていた。特に敵の動きがなかったことをルネに報告するため、シャワーを浴びるのは後回しにしたのだ。

 アーサリンが隊長室のある廊下を通りかかると、部屋からジャクリーンが出てくるのが見えた。さらによく見ると、彼女は胸の前でなにやらホールケーキほどもある大きな缶を抱えている。


「あ、アーティちゃん。お帰りなさい」


「ジャクリーンちゃん、ただいま。その手に持ってるの、なぁに?」


「ああ、これはお菓子の詰め合わせだよ。基地では甘いものがなかなか食べられないって手紙に書いたら、故郷のママが送ってくれたの。それで基地のみなさんにも食べてもらおうと思って、順番に配ってたところ。今ちょうど少佐にも持っていったんだけど……アーティちゃんもどう?」


「ありがとう、一つもらうね。わぁ、チョコレートもあるんだ」


 アーサリンがチョコレートの包みを開き、口の中に放り込む。


「ん~っ、美味しい! 染み渡るなぁ……」


「疲れたときには甘いものが一番だよね」


「あれ、でもなんかちょっと苦いような……あ、これウィスキーボンボンだ」


「ええっ? それってお酒入ってるやつだよね。アーティちゃん食べて大丈夫なの?」


「大丈夫だよ、そんな酔うほど入ってるわけじゃないだろうし。じゃあ私、これから少佐に報告があるから行くね。ごちそうさまー」


「う、うん」


 そうして、アーサリンは何事もなかったかのように隊長室へと入ってしまった。




 ―― サァァァァァァァ………… ――


 シャワー室にお湯の流れる音が響いている。シャワーを浴びているのはさっきまで哨戒しょうかいに出ていたエダ、そしてジョルジアナとロベルタの三人だ。


「っあ~! 生き返るなあ!」


 頭からお湯を浴びながら、エダが両手を頭の後ろに回して大きく伸びをする。普通ならそれに合わせて胸も引っ張り上げられるものだが、バレーボールほどもある彼女の胸はほとんど持ち上がらないのが凄いところだ。


「あなたほど胸が大きいと、肩や首に溜まる疲れが相当のものでしょうね」


「まあ、AM乗りは大体みんなそうだろ。職業病……ってのはちょっと違うか?」


 胸が大きいほど大出力を生み出せるので有利とされるAMにおいて、優秀なパイロットは慢性的な肩凝かたこりに悩まされていることが多い。本来ならば先日の温泉のように湯船にかったほうがいいのだが、ライン川から大きく離れたこの地域では水が貴重なので、むしろシャワーがあるだけでもおんだ。


 ―― がちゃり ――


 シャワー室の扉が開き、アーサリンが入ってきた。ルネへの報告を済ませてきたらしい。


「ようアーサリン、お疲れ様」


「はい」


 エダのいる個室の隣に入ったアーサリンが蛇口をひねり、シャワーを浴びはじめる。


「あー……アーサリンは大丈夫か」


 エダが隣にいるアーサリンの胸を覗き込みながらつぶやく。このシャワー室は簡易的なもので、個室といっても胸から膝あたりの高さにかけて仕切りがしてあるだけなので、ちょっと背伸びをすれば隣が覗けてしまうのだ。


「えっ? なんのことですか?」


「ああ、肩凝かたこりの話だよ。アーサリンの胸ならその心配はなさそうだなーってさ」


 それを聞いたアーサリンの動きがぴたりと止まる。

 エダにはなんら悪気があったわけではない。生まれつき“持っている者”である彼女はただ、“持たざる者”の気持ちを理解できないだけなのだ。今の台詞せりふにせよ、むしろ肩のらないアーサリンを本気でうらやましいと思っての言葉だったのだ。しかし、持たざる者であるアーサリンにとって今の言葉は――


 エダはシャンプーを泡立て、髪をわしゃわしゃと洗っていた。シャワーの音に加え、泡が入らないように目をしっかりと閉じているため、彼女は後ろから接近する者の気配に気付かない。


 ―― むにゅんっ ――


「ふひゃぁっ!?」


 突如として背後から胸をわし掴みにされ、エダが頓狂とんきょうな声を上げる。


「ど、どうしたのですか?」


 声に気付いたジョルジアナとロベルタが飛び出し、エダのいる個室を覗き込む。そこにはエダの背後にぴったりと抱きつき、その豊満な胸を下から上にこね回すように揉みしだくアーサリンの姿があった。


「いいですよねぇ……エダさんは……こんなご立派なモノを二つもぶら下げてるんですから……そりゃあ肩もるでしょう。私がマッサージしてあげますよ……大きな胸を揉んでれば、私にもご利益りやくがあるかもしれませんから……んひひひひ♪」


「あひゃっ! ひょわっ! んひぃぃっ!?」


 ジョルジアナとロベルタは一目でアーサリンの様子がおかしいことに気付いた。お湯を浴びて温まったにしては顔が赤すぎるし、目が完全にわっているのだ。


「お、落ち着いてくださいブラウン少尉! 胸を直接揉んでも肩凝かたこりの解消にはなりません!」


「ジョルジアナ、あなたも落ち着いて。ツッコむべきところはそこじゃない」


 ジョルジアナとロベルタが混乱している間にも、アーサリンはまだエダの胸を揉み続けていた。それどころか、次第に手つきがいやらしくなっている。


「んはっ……や、やめろアーサリン…………も、もうやめてぇぇ…………」


 すでにエダは腰が抜けたかのように座り込み、されるがままになっている。ジョルジアナとロベルタも下手に動けば次は自分がターゲットにされかねないと、固まったまま動けずにいた。そこへ――


「ふぃーっ、今日もいい汗かいたぜ」


 日課のトレーニングを終えたアルバータが、汗を流すためにシャワー室へ入ってきた。


「って、な……なにやってんだお前らぁ!?」


 アルバータが目にしたものは、床に倒れてビクンビクンと痙攣けいれんするエダの胸をなおも揉み続けるアーサリンと、硬直したまま青ざめた顔でそれを見ている二人の姿だった。


「あれぇ? アルバータさんじゃないですかあ……いいなあ……アルバータさんの胸も大きくて、形も良くって、とっても美味しそう……」


 三日月のように口角を上げ、不気味な笑みを浮かべるアーサリンの眼がアルバータを捉える。アーサリンはエダを解放してゆらりと立ち上がると、素早い動きで新たな獲物に襲い掛かった。


「うわぁっ!?」


 アルバータは反射的にパンチをくり出した。仲間を傷つけるつもりはなかったのだが、あまりの恐怖に思わず手が出てしまったのだ。だがアーサリンは鋭い突きを蛇のようにするりとかわすと、アルバータの腰に絡み付いて体勢を崩し、そのまま仰向あおむけに倒してマウントポジションをとった。


「はぁ……はぁ……アルバータさんの体ってほんといやらしい……それになんですかこの匂いは……全身からこんなメスの匂いを漂わせて……あれですか、私を誘ってるんですか? つまりこれはもう襲っていいってことですよね?」


 アーサリンが荒い息を吐きながら両手をわきわきとうごめかせる。すでに胸を揉むのが目的ではなく、おかしなスイッチが入ってしまっているようだ。


「ひぃぃっ!? ど、どうしちゃったんだよこいつ? おいジョルジアナ! ロベルタ! 黙ってないで助けてくれぇ!」


 アルバータが左右を見回すが、すでに二人はそこにいなかった。ジョルジアナはバスタオルを巻いて胸を隠したうえで個室のドアを閉めて防御に徹し、いつもウィルメッタから逃げるのに慣れているロベルタなどは、いつの間にやらシャワー室そのものから脱出している。


「こ、この裏切り者ぉぉっ!!!」


「じゃあ……いっただっきまーす♪」


 アルバータの両腕を押さえつけ、まるで発情した犬のように舌を出したアーサリンが胸の谷間をべろりと舐め上げる。


「うひぃぃぃっ!? や、やめろアーサリン! 俺たち女同士だぞ? こんなのおかしいだろ!」


「ええー……アルバータさんはいつも“俺”とか言って、まるで男の子みたいじゃないですかぁ。あー……でもアルバータさんみたいな素敵な人が男の子なら、私……めちゃくちゃにされてもいいかもぉ……」


「今俺をめちゃくちゃにしようとしてるのはお前のほうだぁーっ!」


 さっきはアルバータの女性の匂いに発情しておきながら、今度は男性らしさを求めてみたりと、アーサリンの言っていることは支離滅裂しりめつれつで一貫していない。これは明らかに酔っ払いの言動だ。

 そう、アーサリンは酔っていた。原因はもちろんさっき食べたウィスキーボンボンである。彼女は生来せいらい恐ろしいほどアルコールに弱く、シャワーを浴びて血行が良くなったせいで余計に早く回ってしまったのだ。そしてエダの一言が引鉄ひきがねとなって溜まりに溜まっていたストレスが爆発し、コンプレックスを持つ巨乳に対する奇行となって表れたらしい。


「あらあら、騒がしいわねえ。一体なにを騒いでいるの?」


 今にも貞操を奪われようとしていたアルバータの耳に救世主の声が届く。そこにいたのは連合軍最大の胸を持つ女、ルネだった。


「ふぅ……どうやら間に合ったみたいだね」


 ルネの後ろからロベルタがひょっこりと顔を出した。彼女は逃げたのではなく、ルネを呼びに行っていたのだ。


「しょ、少佐ぁぁっ! 助けてぇぇっ! アーサリンのやつがなんかおかしいんです!」


「んん~?」


 アーサリンの瞳が今度はルネを捉える。その途端、彼女の動きがぴたりと止まった。大きく目を見開き、わなわなと震えているようにも見える。


「おぉぉぉぉ……! ち、乳神ちちがみ様じゃあ……乳神ちちがみ様が降臨なされよったぁ。これを揉めば私の貧しい胸も豊かに実るに違いない……ありがたや……ありがたやぁ……」


 どこの田舎者いなかものかと言いたくなるような口調でつぶやきながら、アーサリンがルネに近づいていく。そしてまた両手をわきわきと動かしながら、今度はルネの胸を掴もうと腕を伸ばしたその瞬間――


「えいっ、当て身」


 ―― トンッ ――


「あうっ!」


 文字通り目にも留まらぬ速さで、ルネがアーサリンの首筋に手刀を打ち込んだ。その一撃でアーサリンは失神し、ぐったりとその場に倒れ込む。


「アルバータちゃん、大丈夫?」


「は、はは……ははは……た、助かりました」




 次の日――


「ねえねえ、知ってる? ブラウン少尉の話」


「聞いた聞いた。シャワー室でリッケンバッカー中尉とボール中尉を押し倒したんですって」


「ええーっ! ブラウン少尉ってそっちの趣味もあるの? しかも上官を襲うとか……マジでヤバい人じゃない」


 食堂でまた兵士たちがアーサリンの噂話をしている。

 たった半日ほどの間に、昨日のことがもう一般の兵士たちにも広まっていた。ジャクリーンの説明によってパイロットたちにはアーサリンが酔っていたと理解を得られたが、遠くで聞き耳を立てていただけの兵士たちにはその部分が省略されて伝わってしまったのだ。


「あぅぅ……また根も葉もない噂が広まってるよぉ……」


「「(根も葉もない噂じゃねえよ! 事実だよ!)」」


 近くにいたエダとアルバータが心の中で同時にツッコミを入れる。

 昨日あれだけのことをしでかしておきながら、アーサリンはなにがあったかまるで覚えていなかった。とはいえ彼女自身にはなんの落ち度もないため、直接被害にった二人も責めるに責められないのだ。


「(とりあえず、アーサリンに対して胸の話は禁句だな)」


「(ああ……あと絶対に酒は飲ませちゃダメだ)」


 エダとアルバータは小声でひそひそと話しながら、顔を見合わせてうなずき合っていた。そんなとき――


「た、大変だ! 大変だよーっ!」


 くだらない噂話でざわついていた食堂に、ウィルメッタが大声を上げながら飛び込んできた。


「ど、どうしたんだよそんなに慌てて」


「い、今……無線でマインツから入電があって……」


 マインツというのはフランクフルトの少し西にある町だ。今は中部山岳地帯を挟んで北西にあるボンを攻めるため、西側にいる部隊の前線基地として使われている。


「落ち着けウィルメッタ。あっちから一体なにを知らせてきたんだ?」


「フ、フランクフルトが……フランクフルトがゲルマニア軍に奪還された!」


「なんだって!?」


 ここ半年間の連戦連勝で、連合軍の兵士たちは次第に緊張感を失いつつあった。先ほどまでのように有名人の噂話で盛り上がるなど、その最たるものだ。そんな彼女たちにもたらされたフランクフルト陥落の報は、まさに青天の霹靂へきれきともいうべきものだった。


「パイロットたちはいるか!」


 食堂にいた者がみな衝撃を受けているところに、副隊長のラモーナがドアを乱暴に開けながら入ってきた。


「緊急招集だ! AMパイロットは全員、隣の整備ドックに集合せよ!」


「「「は、はいっ!」」」


 その場にいたパイロットたちが慌てて椅子から立ち上がる。

 ラモーナのただならぬ気配と“緊急”召集という言葉に、最近浮かれ気味だった彼女たちは一瞬で“ここは戦場である”という現実に引き戻された。

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