第35話 女神の抱擁

「こちらから嘆きの声が聞こえました」


 彼女が声を発するまで、シルクは文字通り立ち尽くしているしかなかった。

「嘆き?」

 ようやく聞き返すことで出てきた声はかすれている。もっと、この場にふさわしい言葉があるはずなのに、何かでせき止められているかのように止まっていた。


「はい。助けを求めている方がいらっしゃいますよね。兄様」

「マリア、それは」


 兄様という呼びかけにつられて名前を口にしたが、それでもその名前にシルクの内に違和感が生まれている。


 彼女は本当にマリアなのか、と。


 落ち着いて見れば、なんてことはない。目の前にいるのは、シルクのよく知った幼い顔立ちの少女だ。自分も小さな頃、この手で守らねばと誓った少女。

 それなのに、彼女を「マリア」と呼ぶことをシルクの心は拒否している。


「確かに、ここに、いるけど」


 何がシルクの正常な思考を邪魔しているのかは、よくわからない。彼自身、己の整理が足りない。

 しかし、わかることもある。わかる、というより頭に直接叩きつけられる。彼女がまとっている雰囲気。それは、明らかにマリアのものでなく、別人であるということ。


「……へぇ」


 ようやく感嘆の声をあげたアゼルも同じ感覚を抱いていた。


 しかし、シルクと決定的に違うのは、しばしの間、唖然あぜんとしていたアゼルの表情が晴れやかなものになったこと。

 それは彼が戦場で、自分の知らない技を使う強敵に会った時にするものと似ている。


「私に、その方を診させてくださいませんか?」

 いまだ正常な思考を取り戻せていないシルクは、彼女の発する迫力にただうなづくしかなかった。


「失礼します」


 扉を開けると、マリアは他に目をもくれず患者へと近寄っていく。周囲の者が何事かと問う間もない。一息で小柄な体は部屋を横断した。

「おつらいでしょう。もう少しの辛抱です」

 流れるような所作でベッドの横にひざまずき、自らの体に爪を立てようとした手をとったマリアは優しく微笑ほほえんだ。その手に、血がつくこともいとわずに。


 その笑みは、まさしく女神のそれだったと後々語る者がいた。


 その光景があまりに美しくて、先ほどまで必死に動き看病していた者の手が止まる。その目が丸く見開かれた。自分がしていた仕事も忘れ、彼女の一挙手一投足に注目している。


 手を離し、そのまま、マリアは自らの両手を組んだ。そのを閉じて、祈りの構えをとる。


「夜空を満たす輝き、夜天をかけるひらめきよ。我が祈り、届くのであれば応えたまえ」


 神界から世界を見ていると言われている星の神へ、マリアは呼びかける。その瞬間、確かに彼女の体がほのかな光を発し出した。

(ああ、これは)

 その背中を見るシルクにも覚えがあった。確か、あれは父を訪ねてやってきた僧侶が見せた奇跡の光。それを思い出したからこそ、助ける可能性も生まれた。

 しかし、その可能性はわずかなものだった。それでも、目の前の現実となった。


 マリアを包む輝き、それは彼の地での思い出によく似ていた。


「彼の者に祝福を。我に彼を癒やす術を。どうか、我らに慈悲を」


 すがるような声。しかし、弱くはない。心からの力強い音が、場を支配する。


 しばらくの沈黙。

「……」

 そして、マリアは目を強く見開き、もう一度、目の前の腕をとった。静かに穏やかに、その腕を握りしめる。


「『我がかいなは女神の抱擁』」


 彼女がその言葉を口にした刹那、体は一層強く発光する。その明かりが彼女の腕から男の体へと広がっていく。

 シルクが目の前の光景に息を飲んでいる間に、パチンと光が弾けた。


 しばしの静寂。霧散した輝きが、くうへと還っていく。


「はぁぁ~~」


 マリアの気の抜けた声が止まっていた時を動かしだした。固まっていたシルクも、そこで思考が正常に戻る。


「成功しました」

 マリアはそのまま後ろに倒れそうになる。なんとか、持ち直すと姿勢を崩してシルクの方を向き直る。

「これで、穏やかには眠れます。ちょっと心配だったけど、ちゃんと悪いのが抜けたみたいです」

 その微笑ほほえみは、たしかに幼き頃の彼女であった。


 マリアの言葉通り、病床に先程までの混乱はなく、静かな寝息だけ聞こえていた。顔色も、明るい者へと変わっている。誰かが、これなら大丈夫そうだ、と口にしていた。


「やった、やった」

 マリアは両手をたたいて、はしゃいでいる。そんな彼女に、様子を見守っていた周囲の人間が集まってきた。今のがなんなのか、彼らもまるで子供のように目を輝かせている。


 そんな彼女から、少し距離をとるシルク。必然的に、横に並んでいたアゼルの背後に立つことになった。

「あれが嬢ちゃんの『神聖魔法』か。大したものだな」

 いまだに動揺しているシルクとは対照的に、アゼルは堂々と感想を述べている。


 神聖魔法。

 己の体を触媒に、神々の奇跡をこの世に体現させる秘術。俗に神降ろし――ただ、ほとんどの事例では実際に神が降りてくるわけではないとは聞くが――、そう呼ばれる術者の集中が極まった状態で行使される。

 先ほどのマリアが放っていた異質な雰囲気。それこそが、まさしく神降ろし。その状態に達するには、その者の素質と鍛錬、そして信心深さが肝要とされる。


「君、知ってたの?」

 シルクの非難するような声に、アゼルは苦笑した。情報を隠された、とでも思ったのだろう。


 シルクは意外と、予想外なことに出会でくわすと感情的になる。それで判断を誤ることはないが、アゼルはそんな彼の珍しい態度が非常に好みだった。


「いや、知らないし、聞いてもいない」

 それは本当だ。何せ、道中はマリアがシルクの話をアゼルに終始尋ねていたからだ。彼女のことを聞く余裕も、そもそも聞く気もなかった。


「ただ、嬢ちゃんのやってた修行しゅぎょう。教会行脚あんぎゃ、なんて可愛かわいい言葉に惑わされるけど、結構面倒でな」

 ここが全ての総本山、なんて場所は星神教にはない。大陸の各地に星神教会があり、全てがその土地に密接に結びついている。その違いを学び、自らの教義へと昇華させるのが修行の目的だ。

「武装した僧侶と一緒に移動するんだけど、数が多いと守りきれないから、よっぽどの有望株しかさせてもらえない。教会も、準備に金がいるしな。送る側も、迎え入れる側も」

 どれぐらいの有望株かというと、成し遂げた後は自らの教会を持つ候補者になれるぐらいだ。


「だから、協会からは結構期待されてんだなくらいには思ってたんだよ。……ほんとだぞ」

「なるほど」


 アゼルの言葉を聞いて、シルクは右手を口に持って何やら考え出した。その紫の瞳に映っているのは、歓喜に囲まれているマリアだ。

 その横顔を見つめ、シルクはこくりとうなずいた。


「アゼル、マリアが落ち着いたら僕の部屋に来る様に伝えておいてくれ」


 その冷ややかな声にアゼルは目を丸くして振り向いた。それは、シルクが仕事を円滑えんかつに進めるために感情を抑えた時の声色こわいろだ。

 何か、問おうとするも、すでにシルクは背中を向けて立ち去っている。


「なんなんだ、急に」

 その背中を見つめ、アゼルは小さく息を吐くのだった。

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