第34話 望まぬ苦行
報告を受けて立ち上がったシルクは足早に目的地へ急ぐ。焦る心をなだめつつ、たどり着いた医務室の扉をシルクは自らの手で開いた。
「これは」
真っ先に目に映ったのは苦しむ男の姿。知識は幾らかあってもシルクは素人だ。そんな素人目にも分かるほど、彼の様子は異常だった。
「あ、ああ」
口からは声にならない息が漏れる。
真っ青な顔。その
介助者が抱えている右手を見れば、その爪が赤く汚れていた。自らの手でかきむしったのか。シルクがそう判断すると同時に、男が大きく体を動かそうとした。
刹那、周囲の者が
「こりゃあ、ひでぇ」
遠目から男の様子が目に入ったアゼルは思わず
「容体は?」
シルクは隠しきれない動揺を見せつつも、現状を把握しようとする。
「見ての通りです。こちらからの問いかけに答えようとしているので、意識はあるのでしょう。皮膚に異常は見当たらないのに、
何かの病でしょうか、と続いた言葉を聞いて「むぅ」とシルクは小さく唸った。
もし伝染する病であれば、適切な処置も難しい。治療をしようとして被害が広がることも考えられる。それでも、何とかしようと勇気ある者が動いてくれていた。
非常時に彼らのような存在はありがたい。そう思いつつシルクは距離を詰める。周囲の者がぎょっとしたが、シルクは気にせずに歩み寄る。
「彼は山越えをしてきた敵部隊相手に負傷した。事前に聞いた、その報告に間違いは?」
彼の症状を見て大方の見当がついていた。
助けてほしい、と。
「ありません」
「そうか」
短く答えたあと、シルクはその整った顔を悔し気に
知識はある。そのせいで、この場で行える処置が絶望的に少ないことも察してしまう。
「傷口の洗浄は済ませているね?」
「斬られてから時間が
敵兵に斬りつけられた、と聞いていたから可能性は頭にあった。シルクは同調するように首を縦に振る。
「そうだ。これは、おそらく敵の刃物に塗りつけられていた毒の影響だ」
「しかし、こんな症状は」
「うん、見たことある人の方が希少だよ。きっと」
言葉を重ねるように、シルクは続けた。
「特効薬はある。でも、残念ながらすぐに用意できるものではないと思う。無理にでもいい。多量の水を飲ませてあげてほしい。毒が抜けやすくなる」
彼自身が持つ治癒能力に任せるしかない。シルクは歯がゆさを覚える。
「君はこの土地に詳しい者を探してくれないか。できれば、植生に関する知識が豊富な者を。軍内部にいなかったら、町でも話を聞いてみてくれ」
命令を受けた者が部屋を後にする姿を、シルクは半ば諦め顔で見送っていた。おそらく、大した情報を得ることはできないだろう。
「おまえ、分かるのか?」
部屋の入り口にいたアゼルはシルクに問うた。少なくとも、アゼルの記憶の中には一致するものはなかった。毒にやられた者なら、見飽きるほどに見てきたというのに。
「一度だけ、見たことがある」
シルクはその問いに小さく
思い出すのは父に連れられて、ヴェレリア中央を訪れた時だ。
「テンフート山に自生する花の根から作られる霊薬。尋ねた僧侶はそう言っていた。霊薬って言っても、その時からただの毒だと思ったけどね。飲んで使うものらしいけど、刃に塗って傷をつけるだけで効くことは知らなかった」
テンフート山、と聞いてアゼルが思い出すのは光神教会の存在だ。
光神教会。光の神から加護を受けたとされるヴェレリア王家と深く
アゼルもよく知る星神教会が、庶民相手に信仰が広がっていったのとは対照的だ。
「飲むって。あれを?」
アゼルは己が耳を疑った。あんなのを飲む者の正気を疑ってしまう。
「僧侶
「ああ、あいつらならやりそうだ」
とんだ
アゼルが思い出していたのは、自身が会ったことのなる光神教会の司祭達。彼等はもれなく権威主義の塊だった。神への祈りを
(どうせ入りたての僧侶が信じて苦しんでるのを、指導してるやつらは笑ってんだろうな)
だから、アゼルは彼等に良い印象を持っていない。
「この毒に対しての解毒剤も、その花から作る。耐えられなくなった者が飲むと、たちまち呼吸が楽になり、痒みも治まるとか。でも、その花がテンフート山以外で見つかった記録は、少なくとも僕の記憶にはない」
「それで、打つ手はない、と」
シルクは判断したのだ。アゼルは大きく息を吐く。
「不幸中の幸い、と言うと彼に気の毒だけど。この毒が人を殺す可能性は低い。それでも、毒が抜けるまで彼に耐えてもらうしか無いというのは……」
苦しいね、とシルクは小声で
そう、苦しいのだ。まだ何も分からず、うろたえていた方が気持ちは楽だったろう。もちろん、それは意味のないことではあるが。
「それにしても、死に至らない毒ね」
アゼルはそう言って、眉根を寄せた。ぐるっと、首を回している。考えがまとまらない時に、彼はその仕草をよく見せていた。
「気になることでも?」
「おお。嫌がらせ、ここに
アゼルは今回の事件、直接関わっていない。帰ってきたら騒動になっているのだから。でも、だからこそ、客観的に見ることができている。
「人が歩く場所じゃない山を越えて、疲弊したところで見つかって。そんで、そのまま殺されたか逃げ出したんだろ。結果は、男一人が毒で苦しんでいる。確かに混乱はしたよな。シルクが毒の正体知らなかったら、もう少し慌ててた」
それでも、全体を揺るがすほどではない。
「ほんと、やつらの大将が何を考えてるか分からん」
「色々、探らせては、いるんだけど。ね」
「暗殺目的、でもないしな。だったら、もっと強い毒を持ち込んでる」
「それに目立ちすぎだね。すぐに発見できて制圧も容易だった」
その時に負傷した彼の苦しみを思えば、被害がなかったとは言えない。それでも、相手が払った代償が大きすぎる。
現実的な線でいえば。
「陽動、か」
アゼルの言葉にシルクは小さく頷いた。
おそらく、この機に乗じて何者かが動いている。シルクも警戒を強めていた。
「でも、ここまで何の動きもつかめていない」
不気味だよ、とシルクは不安を素直に吐露した。
「まぁ、俺も見回りの部隊に参加するか。実際に見てみたら、何か分かるかもだしな」
「帰ってきたばかりなのに、苦労をかける」
休暇なら十分だ。シルクの
(あとは、彼の毒を抜く術を考えないと)
腕をぐるぐると回しているアゼルの横で、シルクは天井を見上げた。何か、いい考えがどこかに落ちていないだろうか。思考の中を旅している。
(……そういえば)
テンフート山に自生する花の根を煎じて作る霊薬という名の毒薬。その解毒薬は花の蜜から作られる。
(花の蜜、か)
そう、蜜だ。さすがに知らないが、その花は年中咲いているのだろうか。もし、枯れるのなら根と違って、花が咲いている時にしか採取できない蜜は量が少なくなるはず。十分な解毒薬が用意できなかったとき、彼らはどうするのだろうか。
彼ら、と考えていたら急に思考が明るくなっていた。暗中模索、一点の光を見つける。
(彼らは光神教会の僧侶達。そうか。それなら、あの方法もあるのか)
可能性は少ないが、探す価値はあるかもしれない。
「アゼル、少し聞きたいことが」
シルクが視線を下ろし、アゼルを見る。呼びかければ、すぐに視線が合うはずだ。
「アゼル?」
しかし、それは交わらなかった。アゼルは廊下の奥を見て固まっていた。その先から、足音が近づいてくる。
いったい何が。シルクがアゼルの視線を追ったとき、彼が見ていた者と目が合った。
「君は」
そして固まった。シルクの口から、言うべき言葉が出てこない。
彼女が口を開くまで、シルクはその接近をただただ眺めているだけしかできなかった。
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