借り物

生気ちまた

本編


     × × ×     


 卒業式の思い出が薄れつつある三月の土曜日。

 父と母が引っ越しの用意にてんやわんやしている中で、僕は自分の部屋を片づけながら、時折小さな発見に心をときめかせていた。

 こんな機会でもなければ開けたりしないであろう学習机の一番下の引き出しから出てきたのは、使い古したノートに、小学5年生の音楽の教科書。さらにはボロボロの練り消しまで。

 まあ、どれも思い出だけ心に残して、ゴミ袋に直行なんだけど、たまに判断に困る品物も出てきた。


 例えばカスタネット。

 青と赤の二枚貝をトンと叩けば、愉快な音がする。それだけ。

 もう4月から高校生だし今さら使うことはないだろう。自分の持ち物なら、他の楽器と一緒にゴミ袋に入れている。


 問題は表面に「斉藤」と記されている点だった。

 我が家の姓は遠藤なので僕の持ち物じゃない。


 借り物だろうか。


「母ちゃん」

「なにさ」


 階段を降りてみると、リビングでは母が段ボール箱を抱えていた。

 引越会社のマークが入っており中身は私物でいっぱいだ。昨日はギックリ腰になりかけたそうで危なかったと笑っていた。

 今はまだ余裕がありそうだ。


「母ちゃんは斉藤って知ってる?」

「斉藤? あんたの友達の幸喜くんならタバコ屋でしょ」

「ん。ありがとう」

「なんで私が知っててあんたが忘れてんのよ」


 母から苦笑を向けられているのはさておいて、借りた物は返さないといけない。少なくとも相手の家がわかった以上は勝手に捨てられない。

 僕はカスタネットをポケットに入れつつ、玄関で靴を履いた。

 この格子扉から外に出られるのもあとわずかなんだよね。すでに味わいつくしたはずの寂しさを、僕は舌先のつばで洗い流した。



     × × ×     



 タバコ屋は潰れていた。

 税金が上がり過ぎたせいでお客さんが減ったのかな。タバコを吸わない身としては街からイヤな匂いがなくなってありがたいけど。

 脳内でヘビースモーカーの叔父が「オレは高額納税者だ」と自虐していたのを思い出していると、ふとシャッターの閉まった窓口の向こうに表札があるのに気づいた。


 そういえば斉藤の家って一度も入ったことがなかったんだよね。あいつはよくウチに来ていた気がするのに。

 ポケットのカスタネットがにわかに存在感を醸し出してきたので、僕は表札横のインターホンに人差し指を添わせてみた。

 市バスみたいなブザー音が鳴る。


「はい」


 出てきたのはおばあさんの声だった。

 思えばタバコ屋の窓口にいたのもおばあさんだったっけ。


「あの。幸喜くんいますか」

「幸喜?」

「借りていたカスタネットを返したくて」

「あんたダレよ」

「自分は遠藤祐也といいます」


 インターホンの向こうから「ああ」と呟く声がした。

 すぐ後ろを自動車が通りすぎていく。対向車線には少年が自転車で走っていて、タバコ屋の前で止まると自販機にお金を突っ込んでいた。タバコ屋は潰れているけど外の自販機は現役なのだ。


「……あの子なら2年前に死んだよ」

「えっ」

「祐也くん、お葬式に来てなかったの。そうかい」


 ブツンとインターホンが途切れる。

 まさか死んでいたなんて。

 あまりの事実と申し訳なさからすぐに帰る気にはなれず、近くで呑気にコーラを飲んでいる少年を見つめていると、斉藤家の玄関からおばあさんが出てきた。

 彼女から右手を差し出されたので、僕は急いで斉藤のカスタネットを返す。


「このカスタネットです」

「ウチでお供えしておくから」

「あ、ありがとうございます!」

「またおいで。今度立派なお仏壇を買ってやるんだ。その時は祐也くんも手を合わせてやっておくれ」


 おばあさんはカスタネットを愛おしそうに両手で包んだ。

 こすれるような音がしたのは、カスタネットがカスタネットたる所以だろう。



     × × ×     



 家に帰ると、玄関先で父がゴミをまとめていた。

 明日までに用意しないといけないんだぞと外出を注意されたので、僕は可及的速やかに自分の部屋まで階段を登る。単身赴任に耐えきれなくなったから長崎まで来てくれとお願いされたのはこっちなのに……なんて、悪態は自分の部屋でこぼすのみだ。


 片づけの進捗に目を向ければ、すでに大半の私物は段ボール箱かゴミ袋に入っていた。

 あとは押入を開くのみである。

 布団を変える時くらいしか日光を浴びない空間には、収納ケースとおもちゃ箱が並べられていた。

 当然ながら普段使わないからこそ押入の住人になっているわけで、それらの中身――オモチャやぬいぐるみはほとんどがゴミ袋に引っ越すことになった。


 わずかに残されたのはカスタネットと同じ外国人だ。

 合わせて3つ。我ながら忘れっぽい人間だとは思っていたけど、まさかこれほどまで「借りパク」を行っていたとは……僕は自分自身の蛮行に頭を抱えそうになる。

 ギリギリで頭を抱えずに済んだのは階段を上がってきた父に話しかけられたからだ。


「おい祐也。今日も夕飯は外で食べるぞ」

「フライパンとかみんな箱の中だもんね」

「そんなところだ。……おもちゃで遊んでないで早くまとめろよ」

「遊んでないよ! これみんな借り物なんだ」

「借り物?」


 父は目を丸くする。

 先ほどのカスタネットの件も合わせて説明してみると「せっかくだから返してこい」と背中を叩かれた。


「返すって持ち主に?」

「当たり前だろ。ついでにお別れの挨拶もしてこい。もうそうそう会えないんだからな」

「長崎に行かなきゃいいのに」

「……今さらそれを言わないでくれ」


 父はちょっぴり申し訳なさそうに目をつぶる。そのまま階段を降りようとしたため途中で危うくコケそうになっていた。


 それにしても今から返しに行くのか。

 持ち主の名前があるものから無いものまで様々な借り物だけど、おおむね借りた相手には心当たりがあるので家に行く分には大丈夫そうだった。


 問題は全員が小学校までの友人だということだ。今この時に仲が良いわけではないから連絡先も把握していない。

 そもそも……斉藤は私立の中学に通っていたから別として、他はみんな小学校の高学年から地元の中学校に入るあたりで自然と疎遠になっていった連中だし、改めて顔を合わせるのは少し気が引けた。


 でも父に背中を叩かれたからなあ。

 仕方ない。どうせ最後なんだから恥ずかしさもかき捨てといこう。



     × × ×     



 渡辺の家には庭があった。

 小学校の頃に借りていた旧型ゲーム機のカートリッジを埋める程度には土もあったので、自宅からショベルでも持ってこようかと思案したり、いっそポストに投函しようかと悩んでいると――本人から「遠藤?」と声をかけられる。

 久しぶりに2人きりで会う渡辺はバットを持っていた。

 そういえば地元の少年野球チームに入っていたんだっけ。練習のある日曜日には遊べないものだから渡辺抜きで遊ぶことも多かったなあ。

 今でもバットを持っているのは野球を続けているからか、家の前でうろうろしていた不審者を叩きのめすためなのか。丸刈りを2週間ほど放置したような髪型にヒントがありそうだ。


「おい遠藤。オレの家に何か用でもあるのか?」

「あ、いや。借りたものを返そうかと」

「オレに?」

「ポケモン。なんか家にあったから。ごめん」

「おお……かなり古い奴だな。せめて当時返してほしかったぞ」


 返却されたカートリッジをまじまじと見つめる渡辺。

 ご丁寧に『わたなべりょうま』とマジックで記されているのに、小学校の僕がゲームを返さなかったのは、よほど欲しかったのか、ただ忘れていたのか。

 少なくとも我が家にゲーム機はゲームキューブしかなかった。


「まあ……一応もらっとくわ」

「うん」

「じゃあオレ、今から素振りするから」


 渡辺はカートリッジをポケットに入れて、バットを握りしめる。

 やっぱり今も続けてるのかな。

 別に訊いたところで何にもならないので、僕は「じゃあ」と彼の家がある路地を出た。ほんのり伝わってきた、ビュンとしたスイング音からは鍛練の匂いがした。



     × × ×     



 岡部は不在だった。

 仕方ないので借りていた近鉄の帽子をポストの受け取り口に詰めておく。


 次の加西も同じ方式で済ませようとしたんだけど、残念ながら彼女は在宅だった。

 春休みだからか茶髪に染めていた彼女は「遠藤?」と怪訝そうに目を細める。

 この子と仲良かったのは四年生までだからなあ。五年生でクラスが変わるまではよく遊んでいた。あのゲームキューブだって手に入れたのは彼女からRPGを借りるためだ。

 お年玉のおこぼれと祖父のお小遣いを合わせて、どうにか買えたんだっけ。


「何の用なのよ」


 彼女はジャージの上で腕を組む。

 垢抜けた容姿のわりに服はジャージなんだな。まあ、いきなり来たら誰だってこんな格好になっちゃうか。


「返しに来たんだ。あれを」

「あれって……まさかあれ!?」

「うん。五年生の時に借りた加西の体操服」


 カバンから体操服の入った袋を取り出してみせると、彼女は「ヒッ」と声を上げた。

 五年生の春のことだ。クラスが分かれた彼女とは体育の時間も別になっていた。そこである日、体操服を忘れた遠藤少年は彼女から体操服を借りたのである。

 今の体操服は男女共通だから、胸のワッペンさえ気にしなければ普通に身につけることができた。


 もっともそれから彼女に避けられるようになって、今に至るんだけど。もしかして変態だと思われたのかな。

 現に彼女は怯えたような目をしている。腫れ物に触る感じというか。


「なんで今さらなのよ……」

「引っ越しのついでに荷物をまとめていたら出てきてさ。持っていても仕方ないし本人に返そうかと思って。他にも岡部や渡辺にも返したよ」

「え、あんた引っ越すの? どこに?」


 彼女が喰いついたのはそっちの話だった。

 おおまかに事情を説明すると「長崎……」と彼女はどこか寂しそうに俯いた。


「やっぱり地元の人がどこかに行くと寂しい?」

「別に寂しくないけど、なんか逃げられたような気がしてイヤ。それでいつ?」

「明日の午前中だよ」

「明日!?」


 加西は目を見開いた。

 元々大きい方だから何やらネット上の面白画像みたいになっている。

 つい笑ってしまうと「遠藤は昔からすぐ忘れるばっかり!」と右肩を叩かれた。ごめんなさい。


「あんたね、ちゃんとみんなに教えなよ。だったら色々できたのに」

「色々ってなにさ」

「色々は色々よ! もう……あー…………あんたがあたしの体操服を着たせいでクラスの子たちに冷やかされたのを思い出しちゃったじゃない」

「そんなことあったんだ」

「もういい。じゃあね!」


 バタン。

 マンション特有の鉄扉がお互いの空間を遮断する。

 仮に冷やかしが原因で話しかけても返事してくれなかったのだとしたら、案外あれからも仲良くできた可能性があったかもしれない。

 ゲームキューブのソフトもいっぱい借りられたかも。


 けれどもそんなのは仮定の話であって、明日から長崎に向かう身には関わりのない件だ。

 加西、普通に可愛いし……本当に色々と惜しいなあ。くそっ。忘れっぽいのは絶対に治そう。



     × × ×     



 いらないものをゴミ袋に入れて、ようやく荷造りが完了する。

 あとは明日を待つだけだった。


 ちなみに岡部からは後から家まで電話がかかってきて「早く返せよな。また遊ぼうぜ」と言われている。渡辺からも同じように電話で「また遊ぼうか」と告げられていたので妙な気分になった。


 彼らに引っ越しの件を伝えなかったのは、我ながら何故なんだろう。

 面倒くさいとかではなく、今さら彼らと仲良くしたくないわけでもなく……もう失望されたくなかったのかな。加西の反応からもわかるとおり、あえて伝えたとしても何にもならないと悟っていたからかもしれない。長崎行きがなくなることはありえない。

 せめて「さよなら」くらいは伝えるべきだったか。

 でも、あいつらとは「さよなら」なしに疎遠になったわけだからなあ。

 あの電話が最後のチャンスだったと考えると、とても悩ましい気分になる。今の現役の友人たちとはすでにお別れ会までやったのに。


「おう。みんな返してきたのか」


 荷造りを終えたらしい父が話しかけてきた。

 母との会話を聞いていたかぎりでは夕食は寿司らしい。


「ちゃんと返してきたよ」

「怒られたか」

「色々かな」

「お前には悪いがなかなか会えないだろうからな。お別れはしておけよ」

「まあ、もう済んでるようなもんだし」

「ならいいが」


 父は「そろそろ寿司屋に行くぞ」と階段を降りていった。

 あの店に行けるのも今日で最後だ。



     × × ×     



 地元で見られる最後の太陽が昇っていた。

 引越会社の人たちが家具から段ボール箱に至るまでトラックに運び入れると、今まで住んでいた我が家はもぬけの殻のようになった。

 本棚の裏側なんてこんな機会でもなければ一生見ることもなかったはずだ。


 寒々しい空き家に別れを告げて、僕は父と共にプリウスに乗り込む。

 いつも思うんだけど……後部座席は独りで乗るには広すぎるよね。荷物を足元に降ろしてドサリと横になってみれば「シートベルトをしなさい。危ないから」と母に注意された。

 はいはい。

 身を起こすと窓際に加西が立っていた。


「え……加西?」


 僕は慌てて後部座席の窓を降ろす。

 彼女の後ろには岡部と渡辺の姿もあった。普段着の彼らと比べると加西はいくらか他所行きの服を着ている。


「別に見送りにきたわけじゃないわよ。ただあたしも遠藤に返すものがあったから」

「オレも同じだ」

「こっちもな」


 三人はそれぞれに袋を持っていた。

 加西がそれらをどんどんプリウスの中に入れてくるので、怪訝な顔をしながら取り出してみると……どれもかつて僕が彼らに貸したはずのものだった。


 加西にはボールペン。

 岡部にはマーカーと消しゴム。

 渡辺には虫取り用のかご。


 わざわざ、引っ越すわけでもないのに探してきてくれたんだ。


「三人ともありがとう」

「なんで今さら返してもらって喜んでんのよ」


 加西はニマッと笑みを浮かべて、他の二人と同様にこちらに手を振ってくれる。

 これが見送りでなくて何なんだというのやら。

 ありがとう。


「またね!」


 心からの気持ちを窓の外に吐き出してから、僕は外の子たちにバレないようにティッシュで目元を拭った。


 加西は何も言わずにずっと手を振ってくれている。

 岡部と渡辺はちゃんと「またな」と返事してくれた。


 その間、ずっとこちらを見ていた父に――僕は小さくうなづき返す。今日の夜には長崎に着かないといけないのだ。

 渋滞に巻き込まれたら大変なことになるらしい。


 やがてプリウスが加速を終えるのを感じるまで……自分の目はかつての我が家の近くに向けられていた。


 ほんのりとした充実感と、息を吸うたびに感じる後悔を胸にしまいつつ、加西たちから受け取った品物をまとめていると……住所や連絡先が記されたメモを見つけて、ついに後悔がキャパシティを超えてしまった。


「はぁ……」

「今だけは泣いても許すぞ」

「別に泣いてないけどさ。おかげさまでちょっと辛いだけで」


 父にわずかな意趣返しを試みながら、僕はボールペンとマーカーと消しゴムと虫取りかごの入ったビニール袋を隣の席にくくりつけた。


 プリウスはどんどん我が町内から離れていく。

 左右に懐かしい風景がまるで走馬燈のように駆けていく中で、ふと母が「それはいいの?」と訊ねてきた。


「ん? それって」

「マンガ。それも祐也のなんでしょ」

「自分のマンガはみんな段ボール箱に入れたはずだけど……」


 僕は空き袋に紛れていたマンガを手に取る。

 タイトルは『つらいぜ! ボクちゃん1巻』。大昔に母からもらったマンガであり、たしか誰かに貸していたような……ああ。


 あいつも返してくれたんだ。


 ページを開いてみると、メモのようなものが挟まれていた。


『面白かったよ! また遊ぼう!』


 ボクちゃんを真似た絵に添えられた文面には間違いなく斉藤幸喜の名が記されていて、どうやらお礼のイラストだったらしい。

 そういえば絵が上手だったっけ。

 プリウスが橋を越えたあたりで後ろを振り返れば、中学までを過ごした町が一望できた。


「斉藤は絵が上手いね」


 僕は町のどこかに伝わるように呟いた。

 言の葉は風に乗り、町の中に消えていったが、さて返ってくるのはいつ頃になるか……。

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借り物 生気ちまた @naisyodazo

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