スタジアム

運昇

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 何年ぶりの観戦だろうか。

 二月下旬というわりには暖かく、先週まで厳冬を運んできた北風も本日は和らいでおり、久々に屋外で観るプロ野球は幸先の良いスタートとなった。

 試合感覚を養うためのオープン戦とはいえプロ野球はプロ野球。球春まで待ちきれなかった。

 一塁側内野指定S席一列目、端っこと二番目の席。

 そこで観戦するのが唯一私たち夫婦の合う趣味で、勝った日も負けてしまった日も、一生懸命応援できたことを共に喜び合う特等席。だった。

 私の妻は亡くなった。二十九という短い生涯だった。

 初めて出会ったのは私が社会人となって二年目、プロ野球の開幕戦で私は会社の同僚と、妻はひとりで観戦しに来ていた。

 妻はチームマスコット人形の収集家だった。とりわけホームランを打った選手がスタンドに投げ込む片手サイズの人形に目がなかった。

 その試合の終盤、貴重な勝ち越しツーランが飛び出すと、彼女はフェンスに張りつき奇声をあげて人形の催促をしたのだが、奇しくも下手から放たれた人形がゆったりとした放物線を描いて、ジャンプした彼女の、頭上を越えて、私の手元に収まってしまった。

 私の周りで狂喜乱舞に明け暮れる観客でただひとり、口を尖らせてうらめしそうに私のことを見てくるのだからたまったものじゃない。

 つい言ってしまった「いりますか?」と。

 すると途端に目尻にしわを作って破竹の笑み、とても芯の入った聞き取りやすい声で「ありがとう!」の一言。

 その時は辺鄙で執着するまでもない趣味だと苦笑に似た思いを感じながら渡してしまったが、後になって彼女が一枚の写真を見せてくれた。そこには大小のマスコット人形たちに埋もれ、喜色満面の笑みでVVサインをする幸せそうな彼女が写っていた。

 それを見て初めて、野球との関わり方はただのひとつではないのだと彼女に教えられた。

 ビール片手にヤジ飛ばして社会の不満を昇華している私とは対照的だった。

 彼女は豊かな心を育む術を知っている人だった。

 負けている時ほど楽しく応援。が自論の人で、帰路につきたくなるようなワンサイドゲームでも試合終了まで喉をガラガラにして声援を送っていたり、敗戦で下を向いている選手がいれば顔を上げて美人な自分を見ろと言って周囲の笑いを誘ったり、勝って浮かれる相手チームのファンともみ合いのケンカをしたりと、男勝りな部分があるのはともかく、彼女は自分を楽しませようとする努力をしにスタジアムに足を運んでいたのだった。

 だから私はそんな彼女を尊敬し、心から惹かれていった。どんどん好きになっていった。

 告白は簡素なもので、試合終了後の夏の夜空に浮かんでいるようなバックスクリーンのスコアボードを二人でぼんやりと眺めながらだった。しおらしい二つ返事だったのが妙におかしかった。

 デートは決まってスタジアムで野球観戦。

 一緒に応援するという意味では変わりはないが、今までと違ったのは席が隣同士だということと、マスコット人形を取り合うライバルになったということだった。たまに旅行がてら野球観戦というのもした。景色より美味しいものにも目がない彼女はよく食べてよく笑った。この上ない褒美だった。

 プロポーズはグラウンドで。

 球団の企画で満員御礼の観衆が見守る中、家族になって下さいと結婚指輪を左手薬指にはめると、返事の前に白い喉元を見せてわんわん泣き出してしまった妻のことは昨日のことのように覚えているし、そんな妻がやっぱりおかしかった。

 新婚旅行でメジャーリーグの不満を聞いたのは新緑の頃。

 帰国して景気づけに直行したスタジアムでだった。

 お腹に子供を宿したことを聞いたのは秋。

 応援チームがリーグ優勝してスタジアム内をパレード行進をしている時だった。

 そして。

 ステージ四の胃ガンで余命が半年だと聞かされたのは、娘を出産をした翌年の開幕戦でだった。

 一時退院の許可が出た初夏、子供を妻の親元に預けて久しぶりにふたりきりのデート。

 いつもの席に座って「今日は激しく動いたら内蔵飛び出ちゃいそうね」と弱々しく微笑む妻の、肩にかかるブランケットをかけ直してやると、闘病でやせ細った体から体温が伝わってきた。じんわりと温かい。生を全うする人は温もりを通じて優しさを分け与え、そしてまだまだ生きていたいと訴えかけるのだ。それが、それがどうして奪われなければならないのだ!

「こらこら泣かないの。せっかく応援しに来たんだから楽しく!賑やかに!応援しましょ?もちろん今日もわたしの勝ちだからね。だって貴方とろいんだもん」

「……君がはやすぎるんだ」

「そうね。それがわたしの取り柄だもの、全力疾走はわたしの好きな言葉ナンバーワン!」

「当分追いつけそうにもないや」

「うん。貴方はゆっくりいらっしゃい。待ってるから」

 この年の秋、日本シリーズが始まった日。妻は安らかに息を引き取った。


 さて蛙の子は蛙と言うが、まさか娘までフェンスにかじりついて、選手の名を奇声をあげて連呼する母親の奇行まで似るとは思いもしなかった。その母親と観戦に来たことはないはずだが一体どこで覚えたのだろうか。遺品のブランケットを小さい肩に巻きつけた影響なのかもしれない。

「たちかわ!たちかわ!たちかわ!がんばって!」

 娘よ、その人は打撃コーチだ。

 お前の真下にいるダグアウトにて今頃、腕組んで眉をしかめているぞ。多分。

「結愛、そろそろプレイボールだこっちに来なさい。パパと一緒に楽しく、賑やかに、応援しような?」

 ああそうだとも。当分は君の元へは行けないよ。


 スタジアムが私たち家族を見守っている限りは。

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