百結先生(海東音楽人列伝2)

高麗楼*鶏林書笈

第1話

 “才能”と“富”は、往々にして結びつかないもののようです。人一倍音楽を愛し、素晴らしい作品を作り出して人々から評価されても、経済的には大変困難であるというミュ-ジシャンの話はよく耳にするものです。 

 今から1000年以上前の新羅の国にも、そのようなミュ-ジシャンがいました。 

 都である慶州の狼山のふもとに住んでいた百結先生がその人です。“百結”というのはもちろん本名ではありません。家がとても貧しく百ヶ所も継ぎ接ぎのある衣服を身につけていたため、このように呼ばれていたのです。百結先生も、こう呼ばれることに抵抗はありませんでした。彼の尊敬する中国の春秋時代の音楽家・栄啓期も鹿の革の衣に帯の代わりに縄を締めるという身なりをしていたためです。

 栄啓期は琴の名人でしたが、百結先生も玄琴(コムンゴ)が大変上手でした。いつも玄琴を抱えていて、嬉しいこと、悲しいこと、辛いこと等、すべての思いを玄琴の調べで奏で出しました。 

 ある年の暮のことです。人々は、新年の準備をするために忙しくあちこちの家から碓(うす)を碾(ひ)く音が聞こえてきました。 賑やかな碓の音を聞きながら、普段は愚痴一つ言わない百結先生の妻はふとこう漏らしました。

「世間人々は、お正月のご馳走を作るために忙しく碓を碾いているというのに、我が家には粟一粒すらもありません。一体どうやって過ごせばいいのでしょう」

 すると百結先生は天を仰いで次のようにいいました。

「およそ生死は運命によって定まり、富貴は天によって決められるものだ。それゆえ、拒むことも追い求めることも出来はしない。なのに、お前は何故そんなに悲しむのか。ひとつ、この儂がお前のために玄琴で碓を碾いてやろう。」

 さっそく玄琴を引き寄せると、その弦から賑やかな碓を碾く音が鳴りだしました。

 やがて、賑やかで楽しげだけど、どこか哀愁の漂うこのメロディ-が世間に広まっていくと、人々はこの曲を“碓楽”と呼ぶようになりました。

 このように貧しいながらも、風流な心を失わず暮らしていた百結先生ですが、もともとは実聖王(402~17)の時の忠臣・朴堤上<パクチェサン>の息子で名前を文良<ムルリャン>といいました。政府高官の娘と結婚し、宮仕えもしていましたが、ある日、すべての官職を辞して故郷に帰ってしまいました。その後、朝廷からの援助をすべて断り、貧しいながらも心安らかな人生を送ったそうです。 

 生粋のミュ-ジシャンである百結先生にとっては、富や権力などは煩わしく、生きて行く上で妨げにしかならないものだったのかも知れません。こうした百結先生の生き方は、やはり人々の心を打つものでした。それゆえ、官選の歴史書にも取り上げられ、後世にも伝えられていったのでしょう。

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百結先生(海東音楽人列伝2) 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu

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