第14話 箱根温泉に入りたい!
冬の朝は、勝手に涙が出るほどの辛さがありました。
制服の上に黒いダッフルコートを着て、鼻先まで隠すマフラーを巻き、頭にはフードを被っている、まるで黒魔術師みたいな格好の茨城ちゃんが、身を裂くような冷たい風を浴びながら、学校へと続く道を歩いています。
「うう、寒いべ」
「あら、茨城さん?」
「ん?」
呼ばれて振り返ると、埼玉ちゃんが小さく手を振りながら歩いてきました。高級そうな毛皮のコートを着ています。
「おはよう、寒いわね」
「おはようです、埼玉ちゃん」
吐く息を白くさせながら、二人は並んで学校に向かいます。同じ関東部ですが、なかなか珍しい組み合わせです。
「ふう。なんだか十二月に入ってから急に寒くなった気がしますわね」
「冬は苦手だべ。寒いから」
「わたくしも、あんまり得意な方ではないわね」
びゅうと風が吹いて、二人は寒そうに身を縮めました。
「うう、寒い日は学校を休みにしてほしいべ」
「それじゃ冬は毎日休みになっちゃうでしょ?」
埼玉ちゃんはクスッと微笑みました。
「でも、こういう寒い日には温泉に入りたくなるわね」
「温泉かー。埼玉ちゃんは入った事あるの?」
「ええ。日本に降りた時に、秩父にある温泉に入ったわ。でも今年に入ってからは、まだ行ってないわね」
「いいなー」
「茨城さんはないの?」
「うん。まだ温泉経験がないの」
「茨城にだって温泉はあるでしょうに。暇な時にでも行ってみたら? 茨城の妖精として、地元の温泉を経験しておくのも大事な事だと思いますわよ」
「でも……」
「でも?」
茨城ちゃんは俯きます。
「初めての温泉は有名な所がいい」
「なるほどね。――有名な所と言うと箱根温泉あたりかしら?」
「はこね?」
「神奈川さんの所よ。たぶん日本でもトップクラスの温泉だと思うわよ。美容にも健康にもいいし、しかも料理も美味しい」
「箱根って、そんなにすごいんだべか?」
「ふふ。そりゃもう。あそこを経験せずに温泉は語れませんわ」
「わー。行ってみたい!」
興奮したように飛び跳ねる茨城ちゃん。
「それじゃ学校についたら、神奈川さんに頼んでみましょうか?」
「うん!」
「おはよーだべ!」
茨城ちゃんが教室に入ると、いつもは賑やかなはずの室内が、今日はガランとしていました。数えるほどしか生徒がおらず、またマスクをしている人が多いです。
「神奈川ちゃん、どこー?」
キョロキョロと見回しますが、神奈川ちゃんの姿がありません。代わりにマスクを付けた東京ちゃんがやってきました。
「神奈川ちゃんなら休みよ。あとさっき先生が来て、今日は休みの生徒が多いから、家で自習だってさ」
黒板を見ると、学級閉鎖の旨が書かれた張り紙が貼ってありました。
「ええー、神奈川ちゃんいないのー」
ガックリ肩を落とす茨城ちゃん。
「仕方ないですわ。最近風邪が流行ってますから」
「あーあ、温泉入りたかったなー」
「温泉?」
埼玉ちゃんは、東京ちゃんに事情を説明しました。
「そっか、それは残念だったね」
「……ねえねえ埼玉ちゃん。神奈川ちゃんのお家知ってるべか?」
「ええ、知ってますけど……どうして?」
「一応訊いてみるべよ。箱根まで連れてってくれるか」
「む、無理に決まってるでしょ! 風邪ひいてるのよ!?」
「無理かどうかは訊いてみなきゃ分からないべ! わたしは温泉に行きたいの!」
埼玉ちゃんは呆れ果ててますが、茨城ちゃんの顔は真剣です。
「さ、行ってみよう!」
「ちょっと!?」
戸惑う埼玉ちゃんの手を引いて、茨城ちゃんは教室から出ていってしまいました。
二人を見送る東京ちゃんに、大阪ちゃんが近づいてきました。
「なんや、止めんでええんか?」
「茨城ちゃんも怒られるって経験が必要でしょ」
森を進んでいき、湖に囲まれた立派な一軒家が神奈川ちゃんのお家です。その玄関の前に立つ茨城ちゃんと埼玉ちゃん。
埼玉ちゃんが困ったような顔で言いました。
「茨城さん、やっぱ止めましょうよ。すごく迷惑な行為よ、これ」
「だって温泉に入りたいんだもん」
「だからそれは神奈川さんの体調がよくなってから――」
「待てない!」
茨城ちゃんはドアをノックします。
「…………」
しかし応答はありません。
今度は強めにドアをノックすると、家の中から「はーい……」と弱々しい返事が返ってきました。
そしてドアが開くと、パジャマ姿でマスクを付けた神奈川ちゃんが現れます。ずっと寝ていたのでしょう、いつもの凛々しい顔とは違い、目は半開きで髪はぼさぼさです。
「……茨城と埼玉じゃん。どうしたの?」
神奈川の声は風邪のせいでカスれてました。
「神奈川さん、ご機嫌はいかが?」
埼玉ちゃんは額に汗を垂らしながら、必死で笑顔を作ります。
「見ての通り最悪よ」
ゴホッゴホッと咳をする神奈川のパジャマの裾を、茨城ちゃんが引っ張りました。
「ねえねえ神奈川ちゃん。あたしね、温泉に行きたいの」
「……は?」
「温泉に行きたいの」
「……いや、行きなさいよ、勝手に」
「じゃあ箱根に連れてって」
「……なんで?」
「温泉に行きたいから」
「…………埼玉?」
神奈川ちゃんにギロッと睨まれて、さすがの埼玉ちゃんもタジタジです。
「あの神奈川さん、実は――」
埼玉ちゃんの説明を聞き終えると、神奈川ちゃんは大きく溜め息を吐きながら言いました。
「あのね、私はこんな状態で温泉に行けると思う? 日本に瞬間移動するだけでも相当な体力が必要なの、茨城だって知ってるでしょ?」
「でも温泉行きたい。入った事ないんだもん」
「あー、はいはい。治ったら連れてってあげるから。――またね」
面倒くさそうに話を切り上げて、ドアを閉めようとした所を、茨城ちゃんは身を乗り出して阻止します。
「どーしてもダメ?」
「どーしてもダメ」
「こんなにお願いしてるのに?」
「だから体力的に無理なんだって。あんた、私に死んでほしいの?」
「じゃあさ、神奈川ちゃんいつ治るの?」
「んなの、ウイルスに訊いてくれ」
「……分かった。温泉は諦めるべ」
その言葉を聞いて、神奈川ちゃんはホッとしたようです。
「箱根なんて、元気になったらいつでも連れてってあげるからさ」
「……じゃあさ、温泉じゃなくて、神奈川ちゃんちのお風呂はダメ?」
「ウチの風呂? なんで?」
「だって、神奈川の妖精の家にあるお風呂に入ったら、箱根の温泉と同じくらい気持ちよさそうな気がするから」
「…………それ、マジで言ってんの?」
「もちろん!」
しばらくジッと見つめたあと、観念したように大きく溜め息を吐きました。
「それで満足してくれるのね?」
「いいのッ!?」
パアッと顔が明るくなる茨城ちゃん。
「神奈川さん、そんな、無理しなくても」
「あー、いいのいいの。二人とも上がって」
「わーい!」
神奈川ちゃんの家の浴室は大きな岩風呂になっていて、茨城ちゃんのお風呂とは比べ物にならないぐらい立派なものでした。
「コラッ、動くんじゃない!」
「目が、目がぁ~!」
湯気でけむる浴室、青い床タイルの上で、神奈川ちゃんに頭を洗ってもらっている茨城ちゃんは、目にシャンプーが入ってしまい手足をジタバタ動かしています。
「ふう~、いい湯ですわ」
頭に折りたたんだタオルを乗せ、肩まで湯船に浸かっている埼玉ちゃんは、恍惚な表情を浮かべました。
「ほら、シャワーかけるよ。目をギュッとして」
「うう……」
茨城ちゃんの頭に滝のようなシャワーが降り注ぎ、髪の毛の泡々が体を伝って、排水口へと飲み込まれていきます。
「はい、オッケー。お風呂に入ろ」
「うん」
髪を洗い終えた茨城ちゃんと神奈川ちゃんは、湯船へと体を沈めました。
「はうーん♪」
気持ちよさそうな茨城ちゃん。
「ホント、いきなりごめんなさいね、神奈川さん」
「いいって。たまにはこうして誰かと入るのも悪くないしね」
「それにしても埼玉ちゃん、相変わらずオッパイ小さいべ」
「クッ、人が気にしてる事を」
全国で一番女性のバストが小さいのが埼玉であり、そこの妖精の埼玉ちゃんもやはり小さいのです。
「ねえねえ、神奈川ちゃん。風邪よくなったべか?」
「ん? んー、まあ少し収まってきたかな?」
湯船でパシャパシャと顔を洗う神奈川ちゃん。
「やった。それじゃ今から箱根行ける?」
「…………」
「…………」
「……埼玉?」
「はい。お風呂から出たら、すぐに連れて帰ります……」
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