第4話 岩手ちゃんは泳げない
じめじめした梅雨もようやく終わり、新緑の香り漂う初夏の日。
大きな入道雲がぷかぷか浮かぶ青空のもと、水泳帽とスクール水着に着替えた四十七柱の生徒たちは、プールに入る前の準備運動をしていました。
「いち、にー、さん、し!」
生徒の前に立つ、Tシャツにショートパンツを履いた男性教師、ワタツミ先生の掛け声に合わせて屈伸運動をする生徒たち。茨城ちゃんも、その小さな身体を一生懸命に動かしています。
最後に胸いっぱいに深呼吸をして、準備運動が終わりました。
「夏になって最初の水泳の授業だからな、今日の体育は自由時間にする。皆、ちゃんと水に慣れるように」
ワタツミ先生の言葉に、ワッと沸き立つ生徒たち。
「ただし飛び込みは禁止だからな」
「はーい!」
元気よく返事をして、生徒たちは小走りにプールへと向かいました。
「沖縄ちゃん、一緒に泳ご!」
「オッケー、長野ちゃん」
「ビート板いる人ー?」
「千葉さん、二十五メートルで勝負しませんこと?」
「……止めとく。水の抵抗が少ない分、埼玉の方が有利だもん」
「どういう意味かしら?」
「あー、あたし家からビーチボール持ってきたの。みんなでバレーしない?」
それぞれが楽しそうにプールに入っていくなか、茨城ちゃんはその場に座ってプープーと浮き輪を膨らませています。
丸い浮き輪を膨らませている栃木ちゃんの隣で、納豆を入れる四角い容器の形をした浮き輪『納豆丸』を膨らまし終えた茨城ちゃんは、それを持ってプールへと走りました。
「栃木ちゃん、お先!」
「あーん、待ってよー」
茨城ちゃんがプールの前まで来ると、ふちに座って、つまらなさそうに足をぱしゃぱしゃしている子がいました。銀色の髪が水泳帽からハミ出し、プールではしゃぐ皆を羨ましそうに見つめる彼女は岩手ちゃんです。
「岩手ちゃん、プールに入らないんけ?」
茨城ちゃんが訊ねると、彼女は小さく溜め息を吐きました。
「だってあたし、泳げないもん」
「あらら」
納豆丸を手前に浮かべ、岩手ちゃんの隣に腰を掛ける茨城ちゃん。
「岩手ちゃんが泳げないなんて意外だっぺ。海女ちゃんの県の妖精なのに」
「それ、去年も言ったよ?」
ジトッと見つめる岩手ちゃん。
実は都道府県の中で一番泳げない人が多いのが岩手県なのです。
「昔から苦手なんだよね、水泳って。どうしてみんな水に浮かんでいられるんだろ。水に入ったら沈むのが普通じゃん」
「それはね、身体の中で唯一水よりも軽い物質が脂肪で、それが少ないと水に浮かばなくて、だから一般的に太っている人の方が水に沈みやすいって思われがちだけど、実はこれはまったくの逆で、肥満の人にカナヅチはいないんだべよ。つまり、いわてちゃんもお肉を食べて脂肪をつければ水に受けるってことだべ」
「そ、そうなんだ。物知りだね?」
えっへん、と胸を張る茨城ちゃん。変な知識だけはあります。
「でも安心して、岩手ちゃん。カナヅチでも特訓すれば泳げるようになるから。一緒に特訓するべ!」
「うーん……」
膝に顔をうずめる岩手ちゃん。あんま乗り気じゃなさそうです。
「泳げるようになりたくないべか?」
「気持ちは嬉しいけど――」
ちらりと茨城ちゃんの浮き輪に目をやる岩手ちゃん。確かに、浮き輪が必要な人に教えられるのは抵抗があるでしょう。その気持ちを察した茨城ちゃんは、
「よっしゃ、それじゃ別の子を呼んでくるから待ってて!」
プールに浮かべた納豆丸の中央にちゃぽんと入り、水しぶきをあげながら足をバタつかせて、遊んでいる生徒たちの群れへと向かました。
「おーい」
茨城ちゃんは大きくてを振りながら、プールの中央でビーチボールで遊んでいる沖縄ちゃん達の所までやってきました。弾ける笑顔に日焼けした肌がセクシーな、いかにもスポーツ万能そうな女の子です。
「沖縄ちゃーん」
「おう、茨城か。俺と一緒に遊ぼーぜ!」
沖縄ちゃんは、飛んできたボールをキャッチして、屈託のない笑顔で歓迎しました。茨城ちゃんは納豆丸を彼女の隣につけます。
「ねーねー、たしか沖縄ちゃんって泳ぎ得意だったよね?」
「そんな愚問を――」
沖縄ちゃんは親指で自分の顔を指しながら、胸を張りました。
「日本で一番海と身近な生活を送っている沖縄の妖精に向かって、その質問は無いんじゃないか?」
「じゃじゃ、その得意な水泳を岩手ちゃんに教えてほしいの」
茨城ちゃんは沖縄ちゃんの手を掴むと、グイグイと引っ張ります。
「岩手ちゃん? あの子、泳げないんだっけ?」
「うん。あの子、泳げないんだって」
「海女ちゃんの県なのに?」
「海女ちゃんの県なのに」
「そっかそっか。――んじゃ、いっちょ揉んだるか」
沖縄ちゃんは手に持っていたビーチボールを、一緒に遊んでいた長野ちゃんに投げ渡すと、大きな声で謝ります。
「ごめーん長野ちゃん、ちょっと俺の助けが必要みたいなんだ」
「うん、いいよー」
「それじゃ、岩手ちゃんの所に向かうべ!」
茨城ちゃんは沖縄ちゃんの手を引くと、再び足をぱしゃぱしゃバタつかせて納豆丸を進行させました。
「岩手ちゃーん! 水泳が得意な沖縄ちゃんを連れてきたよー!」
「やっほー」
相変わらずプールの縁に座り、つまんなさそうに足を動かしていた岩手ちゃんは、沖縄ちゃんの顔を見ると申し訳なさそうに言います。
「ごめんね沖縄さん。せっかく遊んでたのに」
「いいって、いいって。気にしないで」
ニコッと笑う沖縄ちゃん。
「んじゃ、あとは任せたべ!」
納豆丸を方向転換させると、茨城ちゃんは中央で遊んでいる皆の輪に向かいました。
「???」
茨城ちゃんはぱしゃぱしゃと必死に足を動かしてますが、ちっとも前に進みません。そして不思議そうに振り返り、ハッとしました。沖縄ちゃんが納豆丸の端を掴んでいたのです。
「なにするだ、沖縄ちゃん!」
「お前も協力しろ!」
沖縄ちゃんに手を引かれながら、ゆっくりとプールに入る岩手ちゃん。水深は浅く、腰の位置までしか水はありませんが、それでも彼女は不安そうです。
「つか、岩手ちゃんってどれぐらい泳げるの?」
「それが……まったくぜんぜん」
岩手ちゃんは恥ずかしそうに俯きました。
「ふむ。じゃあまず簡単なバタ足から練習するか。岩手ちゃん、茨城の浮き輪に捕まって
「浮き輪じゃなくて納豆丸!」
茨城ちゃんはプンプン怒ります。
プールにぷかぷかと浮かぶ納豆丸に捕まる岩手ちゃん。
「次に、水面にうつ伏せるイメージで、力を抜いて身体を伸ばしてみて」
「う、うん」
岩手ちゃんは言われた通りにしますが、それでも足は床についたままです。
「よし、それじゃ茨城、その納豆丸? を発進させて」
「あい!」
ビシッと敬礼すると、茨城ちゃんは必死に足をバタつかせ、岩手ちゃんが捕まっている納豆丸を発進させました。
前に引っ張られる勢いで、自然と身体が水に浮かぶ岩手ちゃん。
「岩手ちゃん、ゆっくりでいいから足を動かしてみよう。コツとしては、太ももでウチワを扇ぐイメージで」
「う、うん!」
時間はあっという間に過ぎていき、授業の終了を知らせるチャイムの音が聞こえてきました。そしてすぐに、ピピーッ、と笛の音が鳴り、スタート台に座るワタツミ先生が生徒達に、プールから上がるよう呼びかけます。
茨城ちゃんたちもプールから上がりました。
「――ふう。まあ今日はこんな所かな」
沖縄ちゃんがタオルで顔を拭きながら、疲れたように言います。
「ごめんね、せっかく教えてくれたのに、あまり上達できなくて」
「ううん、そんな事ないよ。飲み込み早くて助かるわ」
「そうかな?」
照れたように頬を掻く岩手ちゃん。
「この分だと、すぐに泳げるようになるよ。さすが海女ちゃんの県の妖精って所かな?」
沖縄ちゃんは、ニコッと気持ちのいい笑顔を振りまきました。自然と岩手ちゃんの顔も笑顔になります。
「そうだ、夏休みに入ったら一緒に沖縄に行ってみない?」
「沖縄ちゃんの所へ?」
「うん。海が青くてキレイなんだ。気に入ってくれると思うんだ」
岩手ちゃんは手を叩いて喜びました。
「わー、楽しみ! それまでにもっと泳げるようにならなくちゃ!」
その会話を隣で聞いてた茨城ちゃんが、二人の間に入って大きく手を広げます。
「はいはーい、あたしの県にも海あるよ! 海岸はサーファーたちのゴミだらけで、テトラポットにゴキブリに似てるフナムシがウジャウジャいて、年中堤防の釣り人が死んでる鹿島灘が!」
「…………」
「今年の夏は三人でそこに行くべ! あたしが五円玉でサワガニ釣る方法教えてあげる!」
「…………」
沖縄ちゃんと岩手ちゃんは顔を見合わせ、
「そうだ岩手ちゃん、スキューバーに興味ない? 沖縄に良いスポットあるんだよね」
「あ、やってみたーい」
茨城ちゃんを残して、二人はスタスタを歩いていってしまいました。
「待ってー。三人で夜のキャンピングカー覗きやっぺよー!」
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