第2話 衝突

高峠劾(がい)が最後に覚えている父の記憶は、窓から叫ぶ自分に対して手を振る小さな姿だった。結局そのまま父は帰ってこず何年も経ってある程度物事の判断が付くようになってから母に、父は他の女の所へ行き自分たちは捨てられたのだという事を教えられた。


 女手一つで自分を育ててくれた母がとても苦労していたのを知っていた為いつでも父は恨みの対象でしかなかったし、高校を卒業し職を得て母に楽をさせてあげられるようになってからも父に対する思いは子供の頃と変わらず、今どこで何をしているかなんて事には興味もなかった。

 だから先週末に突然警察から連絡があって、死んだ父の亡骸を引受けてくれと言われた時にも劾はすなおに従うつもりはなかった。

 母は3年前に肺の病で他界していたし、自分たちを捨てて好き勝手していた父など今更知ったことかというのが本音であった。しかし、思い出す最後の手を振る父の姿に負の思いを重ねた事は一度もなく、恨んだ父と思い出の中の手を振る父が、自分の中で乖離されたものである事に気づいた劾は、その自分の中の思いのズレがなぜ生じているのか分からないまま気づけば承諾書に判を押していた。

 安置所で対面した父は記憶の中で手を振る父とは似ても似つかぬ様な顔をしていて、幼少期の記憶とはこうも当てにならない物なのだと、父の亡骸を前にして奇妙な納得感を覚えた。こうして、恨んだ父、記憶の中の手を振る父、自分の目の前の見知らぬ父という3人が自分の中に存在し、その奇妙な感覚の中に劾は久しぶりに家族という存在を意識する事となった。

 3人目の父はその後すぐ真っ白な灰となってしまい、されとて自分たちを苦しめた存在だけに母と同じ墓の中に入れるのも母が不憫だと思い、かといって捨てることも出来ず、未だに骨壺は劾の住んでいる賃貸アパートの部屋の隅に鎮座している。

 女の元に走った父が最終的に無縁仏に近い形で自分の元に戻ってきた事を滑稽、まぬけだと思わなくもなかったが、狭いアパートの一室で根暗に暮らしている自分の今を考えると父と対して変わらない事に気づいた。

 ただ、こうして突然父の事を意識せずにいられない状況が自分の目の前に現れ、劾はだんだんと当時の父の事を考える事が多くなったが、思い出せる父の姿はやはり手を振る例の姿だけであり、まだ父と母が一緒にいた頃に暮らしていたこの力町商店街を再び訪ねてみようなんて思ったのも、何かの拍子に父の事を思い出すかもという理由からであった。



 商店街の父とよく行ったラーメン屋はまだやっており、そのころは珍しいドカ飯スタイルも最近注目されているらしく店は行列ができていた。ちょうど小腹も減ったことだし入ってみようか、そんな軽い気持ちで行列に並んだそのときだった。

「にいちゃん、ここの店初めてかい?」

 声のした方をふりむくと、大柄の熊みたいな男がポケットに手を突っ込んで立っていた。

 劾はコミュ障であり、知らない人にいきなり話しかけられて返答するなんて芸当は持ち合わせていなかった。無視してそのまま列に並び続ける。男はどうやらこの店の常連らしく、たった今食べ終えて店を出てきたところのようだ。

「列に並ぶ前に先に店に入って食券を買うんだよ。初めての客にはわかりづれえよなあ」

 それを聞いたとき、まるで走馬燈のように劾の脳裏に父との思い出がよみがえってきた。確かに父は、自分をさきに列にならばせて食券を買っていた様な気がする。

 劾はいったん店に入ると、券売機の前で立ち止まり1000円札をすべりこませた。小や大といったシンプルなメニューだけが書かれており、味の選択肢はなかった。

 劾は自分の腹具合としばし相談した後、小では少し足りないと思い大を選択した。

 カランという音がして味気ない水色のプラスチックが落ちてくる。劾はそれをひろうと元の列に並び直した。

 昼時をややずらした時間とはいえかなりの人気店なのだろうか。いつの間にか劾の後ろにも10人程度の列が形成されていた。並んでいる人たちは皆何度もここに来ているのだろうか、先に食券を購入すると列に並び、各々文庫本を読んだりスマホに目をやったりして時間を潰している。それにしてもこの店はやけに待たせる。さっきから自分の前の客が動く気配はない。

「はは、待ち時間長えだろ。でもな、もうちょっとすれば……」

 さっきから何度も自分に話しかけてくる熊が口を開いたのとほぼ同じくらいのタイミングで、止まっていた待機列が動き出した。ちょうど自分までは空いた席に座れるようだ。

 劾は鬱陶しさの限界が自分に来るのを感じ、コミュ障であることを忘れて口を開いた。

「あんた、さっきから何なんだ。俺のことなんて放っといてくれないか」

「ああ、すまなかった。俺は西山ってんだ。ここの常連でな、アンタみたいな新顔が来るとどうしてもおせっかいが出ちまってな」

 そういえば列の客が何人か西山と名乗る男に挨拶をしていた。西山はこの店では有名人なのかもしれない。

「とはいえ、アンタの気を悪くしちまったのは申し訳ない。謝るぜ」

 ここまで素直に謝られるとは思っていなかった。劾もちょっと鬱陶しいと思っただけなのだ。

「いや、わかってくれたなら良い。あと、さっきは券の買い方……ありがとう」

 コミュ障最大限のがんばりで西山にお礼を言うと、劾は店の中に入った。劾の持つ食券の色を見た西山の顔が一瞬曇ったのを劾は見逃さなかった。


 外からは聞こえなかったが店内はFMのラジオがかかっていて、その雰囲気は劾がよく知る中華料理屋とおなじものであった。しかし。

 テーブルに付いた劾は、店内の奴らが啜っているラーメンの盛りを見て戦慄した。

 でかすぎる。

 なんだここは、本当にラーメン屋なのだろうか。彼らが食している麺は、通常のラーメンの2倍はある代物だった。そんな大きな物体を、皆口も聞かずに黙々と胃の中に流し込み続けている。

 劾は先程の西山の表情を思い出して頭を抱えた。そうか、あれは大を選んだ俺へのリアクションだったのだ。たしかに腹は減ってはいたが、皆が食べているのと同じ大きさの大ラーメンを完食する自信など劾にはなかった。

 そうこうしているうちに提供のタイミングは刻一刻と迫ってきていた。これはもう心を決めて大量の麺と向き合うしかない。劾がそう思い静かに息を吸い込んだとき、隣で妙な言葉を聞いた気がした。それは、麺の啜る音だけが響き渡る店内では唯一の人語であり、聞き間違えなのではなかったと思う。

 しかし、それをコミュニケーションと理解するのは劾には無理だった。前後のセリフが明らかに噛み合わない。

 ……まただ! 今度ははっきりと聞こえた。店主が自分の隣の客に対して、なにか注文を聞いたようだった。客の口からは何か呪文のような言葉が聞こえ、主人はそれを聞くとすぐにその客の目の前に大きな丼を差し出した。劾は自分が店内の熱さからとはまた違う汗をかいているのに気づいた。まるで自分が文化の異なる外国に迷い込んでしまったような気分だったからなのだろうか。そして、ついに自分の番がきた。


「ニンニク、入れますか」


 たしかにそう聞こえた。劾は自分の胸の高鳴りが少し収まるのを感じていた。これなら自分でも対処可能だ、と。

 答えはイエスだ。

「はい」

 劾がしっかりとした声で答えたその刹那。店中の麺を類っていた客が一斉に食べるのをやめ、全員が劾の顔をまじまじと見つめてきた。劾はぎょっとして、毛穴という毛穴から汗が吹き出すのを感じた。

 しばらくして、店内には小さな笑い声があちらこちらでまきおこる。

 劾はもう、何が何なのかわからないまま、恥ずかしくて自分の心臓の音が段々と大きく聞こえてくるのを聞いていた。ああ、ここはどこなのだ。俺はただ、ラーメンを食べたかっただけなのだ。ニンニク入れますか、はい。この受け答えのどこに、自分が辱めを受けるような部分があったというのだ。わからない、わからない。自分の視界がぐにゃりと曲がった。


 『ニンニク入れますか?』 に対する正着が『はい』ではなく『ニンニク』であるという事がわかるのは、劾がこの店に足繁く通うようになってからの事になるのだが、この時の劾にはその事に気づくはずもなかったし、それを知った今でもホント訳が分からない。


 ただ、店内の笑い声はこの後すぐにある男の一喝によって止ることになる。

「笑うんじゃねえ!」

 その声に劾はハッと自分を取り戻し、声のする方に目をやる。

 叫んだのはさっきの西山だった。あいつまだいたのか。

 しかし、西山の怒号に助けられたのは事実だ。こんな雰囲気ではラーメンどころではない。一口もつけずに退店もやむなしといったところであったのだ。

 ラーメン屋の店主が西山のことをジロリと睨む。だが、すぐにまな板の上に視線を落とすと、店主は劾のラーメンを仕上げて提供棚の上にどんと置いた。

 ここでまた劾は驚愕の事実を目の当りにすることとなる。

 ラーメンが、でかい。

 もちろん、この店の提供するラーメンが常軌を逸しているということは先程学習したところだ。これについてはもう異論はない。

 だが、劾の前に置かれたそれは他の皆が食べているものよりも二回りほど大きかった。劾はここに来てようやく理解した。皆の食べていた麺は大ではなく、小のサイズであったのだと。

 見たこともないような盛りの麺を前に身動き一つ出来ていない劾を、店の外から西山だけが心配そうな眼差しで見守っていた。

 こうして今回のロットがそろい、時計の針は静かに動き始めた。

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豚喰麺闘記 凡木 凡 @namiki-bon

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