第八章 紬啓太の決意

1

 白状するが、僕は高所恐怖の気味がある。落下の恐怖に、僕は凍りついた。

 事実、僕の身体は落ちていた。見下ろすと、地面が近づいていた。が、落下の速度は、思ったより小さかった。ふわふわと、シャボン玉が落ちるような、速度だった。

 すとん、とほとんど落下の衝撃すら感じないほど、ふんわりと僕は地面に足を着いていた。

 汗がどっと、噴き出した。

「な、何を……」

 僕はあたふたと、周囲を見回した。

 何か妙だ。

 確かに僕のいるところは、真兼病院の中庭だ。病院の建物は何の変哲もなく、見上げると青空が広がっていた。が、僕は何か、違和感を感じていた。

 あっ、と僕は気づいた。

 絵里香の研究室がない!

 研究室のプレハブが建っていたところは空き地になっていて、中庭の芝生が青々と茂っていた。

 気配に視線を動かすと、アニマが立っていた。今度は地面に直接、両足を着けている。ふわふわと漂っていた衣装は、今はだらりと垂れ下がり、髪の毛もすとんと地面を指して、下ろしていた。

「今は十二年前の真兼町よ」

 アニマは口を動かして話した。アニマの言葉は、僕の耳にはっきりと届いた。

 十二年前──それなら僕が五歳の頃だ。まだ小学校に上がる前、幼稚園の年長組。もしアニマの言葉が本当なら、研究室がないのも、頷ける。研究室は、僕の記憶では絵里香が中学入学とともに、建てられたのだから。

 アニマは時空すら、支配できる……。

 絵里香の言葉が思い起こされた。

 それなら、時間旅行も出来るだろう。僕はもう、疑問すら抱かなかった。一々疑っていたら、疲れきってしまう──。

「なぜ、僕を連れてきたんだ」

 アニマは僕の問い掛けに答えず、軽く顎を上げて、中庭の一角を指し示した。何があるんだろうと、アニマが指し示した方向に視線をやると、何とそこには、五歳の頃の僕と、絵里香が地面にしゃがみ込んでいた。

 確かに僕と、絵里香だった。

 幼い頃の写真にあった同じ顔つきで、身につけているのは、幼稚園のお仕着せだ。幼い僕の目の前に、同じ年頃の絵里香がいて、地面にしゃがみ込んで、何か熱心に作業している。五歳の頃の絵里香は、あのピンク色の縁をした眼鏡を架けていなかった。

 幼い絵里香は、僕と比べても大柄で、丸々と太っていた。むっちりとした指先に、木の枝先を掴み、砂に絵のようなものを描いていた。

「おいらは、大きくなったらロボットを作るぞ! 何でもおいらの言うことを聞く、忠実な奴隷だ!」

 砂に描いていたのは、ロボットの設計図だった。絵里香の言葉に、幼い僕は顔を上げた。幼い僕は、なぜか悲しそうな顔になっていた。

「絵里香ちゃん、ロボットがお友達になるの?」

 絵里香は「ふん」と鼻を鳴らした。

「友達じゃ、ねえ! おいらの奴隷だ」

 幼い僕は「ふうん」と頷いて、また地面に目を落とした。地面に目を落としたまま、ぼそぼそと呟いた。

「それじゃあ、絵里香ちゃん、お友達はいらないの?」

 幼い僕の呟きに、絵里香は首を傾げた。

「助手なら、ほしいな。おいらの言いつけに何でも従う、助手だ!」

「どうして、助手がほしいの?」

 幼い僕の問い掛けに、絵里香はニッタリと笑みを広げた。

「なぜなら、おいらは将来、天才科学者になるからだ! そのためには、おいらの研究を手伝う、助手がいる!」

 絵里香の言葉に、幼い僕は晴れ晴れとした笑みを浮かべた。

「そうか! それじゃ、僕が絵里香ちゃんの助手になるよ!」

 絵里香はまじまじと、幼い僕を見詰めた。

「本当か? おいらの命令を何でもきいて、おいらがやれ、と言ったら、何でもやるか?」

 幼い僕は力強く「うん!」と答えた。

 絵里香はむっちりとした腕を挙げ、小指を立てた。

「そんなら、指きりげんまんだ!」

「いいよ。指きり」

 幼い僕と、絵里香の小指が絡み合った。幼い声で、二人は「指きりげんまん!」と唱和した。

 その場面を目にして、僕はクラクラとなった。

 そうか、この頃から、僕は絵里香の助手となっていたのか……。

 足音に振り返ると、十二年前の絵里香の父親、すなわち真兼剛三氏が、近づいて来た。剛三氏は、まるっきり僕らを無視し、砂遊びをしている幼い僕と、絵里香に近づいた。どうやら剛三氏は、僕の姿を目にすることは、出来ないようだった。

 剛三氏は、目尻を下げ、絵里香に話し掛けた。

「絵里香、啓太君とお友達になったのか」

 絵里香は大人っぽく、肩を竦めた。

「違う! 啓太は、おいらの助手になった。将来、科学者になるため、おいらの研究を助ける、助手だ! 啓太は、おいらの命令を、何でもきくと、約束したぞ」

 剛三氏は「ほほお」と感心したような表情を見せた。

「でも助手じゃ、気の毒だな。啓太君、それじゃ将来、絵里香のお婿さんにならないか?」

 僕は凝然となった。

 やめろ! 断れっ!

 幼い僕を見詰め、僕は祈った。

 が、幼い僕は、ニッコリと剛三氏に笑い返した。

「うん! 僕、絵里香ちゃんのお婿さんになる!」

 僕はアニマに振り返った。

「おい、こんなものを見せて、目的は何だ」

 アニマは頷いた。

「これは十二年前の出来事です。でも、啓太さんが望めば、この出来事を変えることができるんですよ」

 僕の口の中は、カラカラに乾いていた。言葉を発するためには、必死に唾をためて、飲み込む必要があった。

「ほ、本当かい……。この遣り取りを、ないことに出来るのか……?」

「はい。もし、五歳の頃の啓太さんが、絵里香さんとの約束をしなかった場合……」

 アニマはさっと手を閃かせた。

 一瞬で、僕は別の場所へ移動していた。

 僕は自分の部屋にいた。

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