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「紬様のお宅で御座いましょうか? はあはあ、わたくし、真兼家の亀山と申します。夜半、失礼申し上げます。はい、ご子息の啓太様で御座いますが、御嬢様の御言いつけで、今晩、真兼家にお泊り願うことにあいなりまして、それでこうして、お電話を差し上げることになりました……はいはい、明日には啓太様にあられましては、ご帰宅になられますので……はい、御無礼申し上げます……」

 リムジンの車載電話で、亀山老人は僕の自宅に電話を掛けた。僕は両親に言うこともないので、黙って老人の言い訳を聞いていた。

 車内は広々として、運転席と後部席とは、タクシーのようにガラスで仕切られている。後部席に座っているのは、僕と絵里香、亀山老人の三人だが、多分、十人だって楽々と収容できそうだ。

 絵里香は後部車内の、運転席との通話スイッチを入れた。ガラス越しなので後部席の会話は普通、運転席に聞こえないようになっている。運転手と会話するためには、こうするしかないのだ。

「おい、お前。おいらが、今まで見たことない顔だな」

 絵里香の横柄な口調は生まれつきだ。絵里香から見て、いい大人を相手に「おい、お前」などと呼び掛けるのは、絵里香しかいない。

「はい、伊藤と申します。昨日、お父様に面会し、運転手の仕事を承りました」

 伊藤と名乗った運転手は、絵里香の口調に怒りも見せず、丁寧に答えた。

 絵里香は薄笑いを浮かべ、伊藤運転手に、質問を続けた。

「格闘技をやっているのか?」

「柔道と、空手を少々」

 伊藤は平静な口調を崩さず、淡々と答えた。

 絵里香は「ふうん」と頷くと、腕組みをして、どっかりと、背中を座席に預けた。

 僕は絵里香に注目した。

 絵里香の眉間には、深い縦皺が刻まれ、何事か一心不乱に考え込んでいるようだ。

「どうした?」

 僕が口を開こうとすると、絵里香はなぜか唇の前に指を一本立て「しっ!」と注意した。

 黙ってろ、という意味だ。

 どういうわけか、絵里香はひどく緊張している。絵里香はちらっと亀山老人を見た。老人はリムジンの揺れに身体を預け、こっくりこっくり、舟を漕いでいる。亀山老人の様子を確認して、絵里香は僕に向かって、微かに頭を揺すって合図した。

 耳を貸せ、という意味だろう。僕はリムジンの広々とした車内で、そろそろと絵里香の近くに寄った。

「なんだよ?」

「あの運転手、おいらが初めて見る顔だと、さっき言ったな?」

「ああ。僕だって、初めて見る」

「何で今頃、親父は新しい運転手を雇ったのか……。どう考えても怪しい。何か、キナ臭いものを感じるぞ」

「裏がある、って言うのか? 院長が絵里香に内緒に、何か動いているとでも?」

 絵里香は薄く笑った。

「まさか! パパは多分、何も知っちゃいない。パパに雇われた、なんて言っているが、あれはきっと、嘘だ! 伊藤って名前も、本名かどうか、判らねえ」

 口早に、僕に囁く絵里香の顔には、なぜか楽しげな薄ら笑いが浮かんでいた。

「何だか、楽しそうだな」

 僕が感想を述べると、絵里香は小さく頷いた。

「当たり前だ! 陰謀だ! 企みだ! 何が進行しているか、判らねえが、堪えられないほど、面白え! へへっ、ウズウズしやがるぜ!」

 絵里香は両拳をぎゅっと握り締めた。

「おいらを誤魔化せると思ったら、大間違いだって教えてやるさ!」

 絵里香はジロッと、僕を睨んだ。

「啓太がおいらの薬で変化して、次々と妙な出来事が続きやがる。もしかして、これもその一つかもしれねえな……」

 僕の背筋が、ひやりと寒くなった。なぜなら、僕もまた、絵里香と同じく、あの薬で変化してから、次々と驚くべき出来事が頻発すると思っていたからだ。絵里香の言葉によれば、僕を中心にして、何事かが進行しているのだそうだ。

 これは僕にとって災厄でもある。なぜなら、僕の信条は〝平穏無事で退屈な人生〟。これに尽きるからだ。様々に僕に降りかかる、奇妙な出来事は、僕の信条からはまったく、かけ離れていた。

 最初の出来事──天宮奈々が登場したあの日──を思い返していると、重大な論理の破綻に気づいた。

 僕は絵里香に向き直った。

「なあ、絵里香。ちょっと気になるんだが」

「何だ」

 絵里香はぶっきら棒に答えた。僕の方を、見もしない。挫けそうになる気持ちを奮い立て、僕は言葉を続けた。

「もし薬の影響で、色々な出来事が起きたなら、判らないことが一つある。天宮奈々ちゃんが、真兼高校に転校する決心をしたのは、薬を注射する前だぞ」

 絵里香は僕の言葉に、ギクリと凍り付いた。

「アイドルを引退するという宣言をしたのは、絵里香の研究室へ僕が来る、前日だ。僕の変化で色々な出来事が起きたとすると、日時が合わないじゃないか!」

「う~~~う、ううう、うっ、うっ、ううううう~~~むむむむむ!」

 絵里香は顔を真っ赤に染めて、奇妙な唸り声を上げた。僕の指摘に、絵里香はいたくプライドを傷つけられたらしい。

 こんな時、絵里香のとる戦略は一つ。それは、話題を変えることだ。

「ところで啓太、お前に聞きたいことがある……」

 絵里香の口調が、急に変わった。今までの断定的な口振りが影を潜め、どういうわけか、あやふやな、自信喪失したような口調に変わっていた。

「天宮奈々と、月影留美って二人に無理矢理、キスされたけど、どんな感じだ?」

 僕は、頬に、かーっと血が昇るのを感じていた。今の僕は、両耳まで真っ赤に違いない。絵里香の質問で、僕の舌は縺れ、言葉は途切れ途切れにしか、発せられなかった。

「なっ……、何でそんなこと、きっ……、聞くんだ? ぼっ、僕が……無理矢理キスされたからって、どうして……絵里香が気にする必要があるんだっ?」

 絵里香は、プイッと顔を背けた。

「ただの学問的興味ってやつさ! 啓太が女の子にキスされて、どのような精神的、身体的な変化が起きたか、知りたかっただけだ」

 再び絵里香は僕に顔を向け、真剣に言い添えた。

「誤解するなよ!」

 僕はちょっと、仰け反って答えた。

「何を誤解するって?」

「これだっ!」

 絵里香は一声、小さく叫ぶと、出し抜けに僕に近づき、唇を僕の唇に押し付けた。

 絵里香のキスは、一瞬に終了した。

 気がつくと、絵里香は座席に背を真っ直ぐにさせて座っていて、目は真正面を見据えていた。ちらっと、絵里香は横目で僕を見た。

「啓太が体験した突然のキス、それをおいらも体験したかっただけさ。一度くらい、体験して、自分の反応を調べるのも悪くない」

 絵里香はゴシゴシと、手の甲で自分の口許を拭うと、ぽつりと呟いた。

「ふん! 大したことねえな! こんな行為一つで、何で皆騒ぐのか、判らねえ……」

 だが絵里香の顔は、僕が今まで一度も見たことのないほど、真っ赤に染まっていた。

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