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 天宮奈々を「奈々ちゃん」と気安く呼び掛けるこの女は、何者だろう?

 僕の疑問を、表情で、素早く見て取ったのだろう。女は真っ赤なルージュを引いた唇をにやっと笑いの形に歪め、答えた。

「自己紹介がまだだったわね! あたしは天宮奈々のマネージャーを勤めさせていただいてます」

 天宮奈々のマネージャーと自己紹介した女は、僕と絵里香に名刺を差し出した。

 名刺には〝月影留美つきかげるみ〟と印刷されていた。名前の下に、事務所の連絡先があった。僕と絵里香は、顔を見合わせた。

「本名ですのよ。月影留美、なんて名前で芸能界で生活しているから、芸名なんじゃないかと思われることが多いけど」

 月影マネージャーは、僕の機先を制して如才なく喋った。

 ちぇっ、誰でも同じことを考えるんだろう。マネージャーの言葉は滑らかで、同じ内容を何度も喋っているらしかった。

 奈々はやや憤然とした様子で、月影マネージャーに話し掛けた。

「留美さん、何しに来たの? あたしは、もう芸能界には未練がないと、はっきりと言ったはずよね!」

 マネージャーは、ちらっと奈々に視線をやって、微笑した。

「そうは言っても、このマンションの手配や、真兼高校への転校手続きは、あたしがやったのよ。あたしは今でも、天宮奈々のマネージャーと思っています。奈々ちゃんを心配するのは、当たり前でしょう? だから何でも相談してもらって、構わないのよ」

 月影マネージャーの口調は滑らかで、宥めるようだった。奈々はぷうーっ、と頬を膨らませ、不満顔になった。

 月影留美は、僕と絵里香に視線を当てた。

「さて、今まで聞き耳を立てていたんだけど、中々ややこしい事態になっているみたいね。あなたは真兼絵里香さん?」

 絵里香に向かって名前を確かめた。絵里香は重々しく頷いた。

「それで、絵里香さんは、啓太さんの婚約者って話だけど……」

 絵里香はぶんぶんと、月影マネージャーに向かって、何度も首を左右に振った。

「違う! 啓太がおいらの婚約者だ!」

 マネージャーは肩を竦めた。

「ははん、言い方なんか、どうでもいいわ! それより、奈々ちゃんが啓太さんと、どうしても結婚したいと言っている今、この縺れをどうしたものかしらね? さっきも奈々ちゃんが質問したけど、同じ質問をあたしもさせてもらうわ」

 言葉を切ると、マネージャーは僕を真っ直ぐに見詰めた。笑顔は消え、真面目な表情になった。

「あなたはどうするの?」

 僕は言葉が出なかった。

 マネージャーは再び笑顔になって、口を開いた。

「選択肢は三つ。一つは奈々ちゃんと結婚して、絵里香さんとは婚約解消する。二つ目は、絵里香さんと結婚して、奈々ちゃんを諦める。三つ目は……」

 月影マネージャーの瞳が煌いた。

「三つ目は、あたしと結婚する!」

 マネージャーは大声で宣言すると、大手を広げ、僕に向かって突進した。そのままぎゅーっ、と僕の身体に腕を巻きつけ、あらん限りの力で、僕を抱きしめた。

 月影マネージャーは僕に顔を押し付け、真っ赤なルージュの唇を、僕の唇に押し付けた。僕は驚きに、身動きも出来なかった。

 何より月影マネージャーの巨大な胸が、僕の身体に押し付けられ、柔らかな感触が僕の身体を硬直させた。

 こんなの初めてだ……。

 僕は陶然となっていた。

「留美さん!」

「啓太!」

 絵里香と奈々が、同時に叫んだ。

 僕とはいえば、足はガクガク、頭はポーッ、心臓はバクバクと、全身が震えていた。それほど、留美マネージャーのキスは熱烈で、強烈だったのだ。

 唇が離れ、マネージャーの抱擁から逃れると、僕はクタクタと全身の力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。

 僕らが離れると、その瞬間、奈々がマネージャーに向かって突進した。

「留美さん! 何を考えているのっ? あまりといえば、あまりじゃないのっ!」

 マネージャーは腰に手を当て、ぐいっと頭を振った。

「いいじゃないの! 恋愛感情は、自由よ。あたし、啓太さんを一目見て、恋に堕ちたのよ! あんただって、教室で啓太さんを一目惚れしたんでしょ?」

 奈々は言い返せず、ただ口をパクパクと、酸欠の金魚のように開閉させるだけだった。

 が、奈々の顔が徐々に上気し、次第に怒りに真紅に染まった。眉がきりっと上がり、唇が噛み締められ、怒りの表情を形作った。

「あんたって人はっ!」

 一声喚くと、奈々は留美に飛び掛って行った。

 留美もまた、奈々に向かって両手を広げた。

 今度は奈々と、マネージャーの取っ組み合いになった。お互い真剣な表情で、噛み付き、引っ掻き、蹴飛ばしあってドタンバタンと騒々しい音を立てていた。

 ふと気づくと、僕の袖を、絵里香が引っ張っていた。

「おい、啓太。逃げ出すぞ」

 絵里香は僕に囁いた。

 僕は頷いた。

 面倒事は、御免だ。平穏無事な生活だけが、僕の関心事だ。

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