5
天宮奈々を「奈々ちゃん」と気安く呼び掛けるこの女は、何者だろう?
僕の疑問を、表情で、素早く見て取ったのだろう。女は真っ赤なルージュを引いた唇をにやっと笑いの形に歪め、答えた。
「自己紹介がまだだったわね! あたしは天宮奈々のマネージャーを勤めさせていただいてます」
天宮奈々のマネージャーと自己紹介した女は、僕と絵里香に名刺を差し出した。
名刺には〝
「本名ですのよ。月影留美、なんて名前で芸能界で生活しているから、芸名なんじゃないかと思われることが多いけど」
月影マネージャーは、僕の機先を制して如才なく喋った。
ちぇっ、誰でも同じことを考えるんだろう。マネージャーの言葉は滑らかで、同じ内容を何度も喋っているらしかった。
奈々はやや憤然とした様子で、月影マネージャーに話し掛けた。
「留美さん、何しに来たの? あたしは、もう芸能界には未練がないと、はっきりと言ったはずよね!」
マネージャーは、ちらっと奈々に視線をやって、微笑した。
「そうは言っても、このマンションの手配や、真兼高校への転校手続きは、あたしがやったのよ。あたしは今でも、天宮奈々のマネージャーと思っています。奈々ちゃんを心配するのは、当たり前でしょう? だから何でも相談してもらって、構わないのよ」
月影マネージャーの口調は滑らかで、宥めるようだった。奈々はぷうーっ、と頬を膨らませ、不満顔になった。
月影留美は、僕と絵里香に視線を当てた。
「さて、今まで聞き耳を立てていたんだけど、中々ややこしい事態になっているみたいね。あなたは真兼絵里香さん?」
絵里香に向かって名前を確かめた。絵里香は重々しく頷いた。
「それで、絵里香さんは、啓太さんの婚約者って話だけど……」
絵里香はぶんぶんと、月影マネージャーに向かって、何度も首を左右に振った。
「違う! 啓太がおいらの婚約者だ!」
マネージャーは肩を竦めた。
「ははん、言い方なんか、どうでもいいわ! それより、奈々ちゃんが啓太さんと、どうしても結婚したいと言っている今、この縺れをどうしたものかしらね? さっきも奈々ちゃんが質問したけど、同じ質問をあたしもさせてもらうわ」
言葉を切ると、マネージャーは僕を真っ直ぐに見詰めた。笑顔は消え、真面目な表情になった。
「あなたはどうするの?」
僕は言葉が出なかった。
マネージャーは再び笑顔になって、口を開いた。
「選択肢は三つ。一つは奈々ちゃんと結婚して、絵里香さんとは婚約解消する。二つ目は、絵里香さんと結婚して、奈々ちゃんを諦める。三つ目は……」
月影マネージャーの瞳が煌いた。
「三つ目は、あたしと結婚する!」
マネージャーは大声で宣言すると、大手を広げ、僕に向かって突進した。そのままぎゅーっ、と僕の身体に腕を巻きつけ、あらん限りの力で、僕を抱きしめた。
月影マネージャーは僕に顔を押し付け、真っ赤なルージュの唇を、僕の唇に押し付けた。僕は驚きに、身動きも出来なかった。
何より月影マネージャーの巨大な胸が、僕の身体に押し付けられ、柔らかな感触が僕の身体を硬直させた。
こんなの初めてだ……。
僕は陶然となっていた。
「留美さん!」
「啓太!」
絵里香と奈々が、同時に叫んだ。
僕とはいえば、足はガクガク、頭はポーッ、心臓はバクバクと、全身が震えていた。それほど、留美マネージャーのキスは熱烈で、強烈だったのだ。
唇が離れ、マネージャーの抱擁から逃れると、僕はクタクタと全身の力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
僕らが離れると、その瞬間、奈々がマネージャーに向かって突進した。
「留美さん! 何を考えているのっ? あまりといえば、あまりじゃないのっ!」
マネージャーは腰に手を当て、ぐいっと頭を振った。
「いいじゃないの! 恋愛感情は、自由よ。あたし、啓太さんを一目見て、恋に堕ちたのよ! あんただって、教室で啓太さんを一目惚れしたんでしょ?」
奈々は言い返せず、ただ口をパクパクと、酸欠の金魚のように開閉させるだけだった。
が、奈々の顔が徐々に上気し、次第に怒りに真紅に染まった。眉がきりっと上がり、唇が噛み締められ、怒りの表情を形作った。
「あんたって人はっ!」
一声喚くと、奈々は留美に飛び掛って行った。
留美もまた、奈々に向かって両手を広げた。
今度は奈々と、マネージャーの取っ組み合いになった。お互い真剣な表情で、噛み付き、引っ掻き、蹴飛ばしあってドタンバタンと騒々しい音を立てていた。
ふと気づくと、僕の袖を、絵里香が引っ張っていた。
「おい、啓太。逃げ出すぞ」
絵里香は僕に囁いた。
僕は頷いた。
面倒事は、御免だ。平穏無事な生活だけが、僕の関心事だ。
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