4
僕は奈々に視線を向けた。
奈々はさっきから、ずっと僕を見詰めていた。
僕と奈々の視線が、絡み合った。
ぽーっ、と奈々の頬が、ピンクに染まった。
そうだ、この際、奈々に質問しなければ……。
「奈々さん」
僕は立ち上がると、奈々に向かって話し掛けた。
「どうして、僕と結婚したい、なんて言い出したんだ? 君が真兼高校へ転校するまで、お互い、一面識もなかったんだぜ」
ぴくっ、と絵里香が緊張した表情を見せた。横目で、こちらを窺っている気配を、僕はありありと感じた。
奈々の唇が、ぴくぴくと痙攣したように、震えた。
がく、がく、と絡繰人形のような動きで、奈々は僕に向き直った。
「わ、判らない……、なぜ、啓太さんと結婚したいと思ったのか、あたしには判らない……! ほ、本当よ! ただ、四日前、とにかく真兼町へ行かなきゃ、と思ったの。その時は、あなたのこと、知らなかった。真兼町へ引っ越して……このマンション、芸能事務所を使って手に入れたの……真兼高校に転入手続きをしたときも、まだ啓太さんのこと、知らなかった……」
奈々は苦しそうに、顔をゆっくりと、左右に振った。長い髪の毛が、ふわりと揺れた。
「それであのクラスに連れられて、初めて啓太さんを見た瞬間、判ったの! ああ、あたしは、啓太さんと結婚しなければならないんだ……って! こ、これは運命なんだわ!」
最後の言葉は、甲高い叫び声だった。
たっ! と、奈々は僕の方へ歩み寄った。唇だけが「啓太さん」と動き、奈々は僕に武者ぶりついた。
「あたしは、啓太さんのもの! 愛しているわ!」
奈々の長い腕が、僕の身体をぐわしっ! とばかりに抱きしめた。奈々の熱い身体が、僕の胸に押し付けられた。
今まで僕は、女の子に抱きしめられる、などという経験は、一度もなかった。たいていの高校生がそうだろう。僕にとっては、驚天動地の体験だった。
熱い奈々の身体は柔らかく、胸の膨らみがはっきりと判った。さらに奈々の長い髪の毛からは、微かな良い香りが僕の鼻腔をくすぐっていた。
いつまでもこうしていたい……と思った僕だったが、出し抜けに、僕の甘い体験は中断させられることとなった。
「勝手な真似はさせねえぞっ!」
絵里香が喚いて、奈々の長い髪の毛を掴んだ。
「おいらの目の前で、何しやがるっ!」
絵里香は思い切り、奈々の髪の毛を引っ張った。奈々は痛みに悲鳴をあげ、仰け反った。
だだっ、と奈々は僕から離れ、踏鞴を踏んだ。そのまま、くるっと身を巡らし、絵里香に向き直った。
きっ、と奈々は絵里香を睨みすえた。
「あんたこそ!」
一声叫ぶと、奈々は絵里香に突進した。ひゅっ、と奈々の腕が一閃し、絵里香の頬を撃った。
ぱあんっ! と絵里香の頬が鳴った。奈々のビンタが炸裂したのだ。
「あの時のお返しよっ!」
奈々の顔は上気し、生き生きしていた。御嬢様、御嬢様している天宮奈々だったが、これがもしかして、奈々の本性なのかも、知れなかった。
「こっちこそ!」
絵里香も叫んで、奈々に飛び掛った。身長百五十センチそこそこの、小柄な絵里香が百七十センチの奈々に飛び掛る図は、何とも滑稽だが、絵里香の勢いに、奈々はばったりと仰向けに倒れてしまった。
きーっ、きゃーっ、と悲鳴をあげ、二人の美少女はマンションの床を組み合いながら、転げ回った。
髪の毛を引っ張り、首筋を締め上げ、足を絡め、お互い噛み付き、引っ掻き、見ている僕がハラハラするほどの勢いだった。
絵里香はもともと、僕の身体を腕一本で吊り上げるほどの怪力だが、今は空腹で力は半減している。だから奈々との格闘も、中々勝負がつかなかった。
ドタン、バタンと大袈裟な音を立てて二人は格闘を続けたが、やがてお互い、体力が尽きたのか、荒い息を吐きながら動きが止まった。
「絵里香さん……さっきから、あたしが啓太さんと結婚することを……許さないみたいだけど……彼を愛しているの?」
両膝を床につき、髪を振り乱した奈々は、絵里香を問い詰めた。格闘の後で、奈々の服はあちこち、擦り切れ、綻びが目立った。
絵里香もまた、同じような状態だった。制服は型崩れして、引っ張られたところが大きく裂けていた。奈々の言葉に、絵里香は噛み付くような勢いで答えた。
「愛しているだと? 何、馬鹿言ってやがる! おいらはただ、自分の持ち物を他人に盗まれるのが、嫌なだけだ! 啓太はおいらの実験材料で、言いなりになる助手でもある……誰にも渡すものか!」
絵里香の答えを耳にして、奈々は一瞬、呆然となった。が、すぐ立ち直り、きりりと眉を上げて反撃した。
「それは単なる所有欲よ! 子供が、自分の玩具を取り上げられようとして、怒る様子にそっくりじゃない! 絵里香さん、あなたには愛情というものが、ないの?」
絵里香は肩を竦めた。
「愛情? へっ! 愛情で、腹が膨れるか? 実験がうまくいくか?」
奈々は僕に向き直った。表情には、怒りの色があった。
「啓太さん、あなたはどうなの? あなたは絵里香さんを、愛しているの?」
詰問口調だった。
僕は口篭った。
どう、答えればいいのだろう?
僕は、絵里香を愛しているのか?
今まで、一度だって、考えたことはなかった。
何しろ、絵里香の身近に(半ば強制的に)暮らすようになって、僕の考えることといえば、どうすれば絵里香の災難から逃れられるかであって、災厄の元凶である絵里香に対する自分の気持ちなど、顧みる余地はなかったからだ。
絵里香は薄笑いを浮かべていた。
「啓太、答える必要はないぞ! お前がどう思うと、おいらの奴隷であることには、丸っきり変わりはないんだからな!」
僕は絵里香の暴言に、言い返そうと思った。いつまでも、こんな状態に甘んじるわけにはいかない。一言でもいいんだ……。何か痛烈な反撃が……。
その時、部屋の外から、大きな声が響いた。
「それまで! そろそろ、手打ちの時間よ!」
聞こえてきたのは、女の声だった。落ち着いた、知性を感じさせる声音で、天宮奈々は声の方向に身体を向け、硬直した。
ゆっくりとした足音とともに、一人の女が室内に入ってきた。
背は中ぐらいで、僕よりも低いが、絵里香よりは高かった。身につけているのは、きりっとした女性用のスーツで、薄紫色の、落ち着いたデザインであったが、華やかな印象を与えるものだった。
スカートは膝丈で、室内であるから室内履きを履いていたが、本来はハイヒールが似合いそうな物腰だった。女性の年齢を見積もるのは、僕は苦手だが、多分四、五歳年上──おそらく、二十歳を越えていると思えた。
足元から顔に視線を移すと、やや四角い顔立ちに、大きめの口許。狭い幅の鼻梁が顔を真ん中から分けている。大きな両目が印象的で、やや薄茶色の瞳が素早く室内を一瞥した。幅広い唇は、鮮やかなルージュで染められ、ともかく人目を惹く顔立ちだった。
いや。
人目を惹くのは、確かに目鼻立ちもそうだが、それ以上に、彼女の胸だった。
つまりバストだ。
僕は、こんなにでっかい、胸をした女の人など、見たこともなかった。
何しろ、顔よりもでかく、多分、体重の四分の一……ちょっと大袈裟だが、それ位大きな胸をしていた。
「ふうん、あなたが紬啓太さんね」
女は立ち止まり、僕の顔をじっくりと見詰めて口を開いた。口調は平静で、何の感情も声音には含まれていないが、僕は一瞬で自分の総てを見通されたような、感触を覚えた。
僕は無理矢理、彼女の胸から自分の視線を引き剥がした。
「それで、奈々ちゃん。あなた、この坊やと結婚したいと言っているの?」
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