第五章 求婚者

1

 目覚めた僕の気分は、最悪だった。

 きりきりと後頭部が痛み、喉が渇いて、舌が膨れ上がったスポンジのようだった。さらに、全身には微かに痺れが残っていた。

 これで気を失ったのは、三度目だ。

 人間、一生のうち、気を失うなど滅多に無い出来事だろうが、僕はこの数日間で立て続けに、三回も意識を失っている。

 僕はハードボイルドの主役、なんて柄じゃない。冒険物の主人公なら、気を失う場面なんてしょっちゅうだろうが、僕はただの高校生にすぎない。

 もう、勘弁して欲しいよ。

「れいた……れあ、あめらうら?」

「ふあ?」

 僕のすぐ傍で、奇妙な音声が発せられ、僕は目蓋を開いた。

 見知らぬ部屋だった。

 天井は低く、無愛想な白壁で、天井からは古い蛍光灯が下がっている。時間は夕方近くらしく、右手の窓からは、オレンジ色の夕日が、白壁を染めていた。

 家具らしいものは見当たらず、窓にカーテンも架かっていなかった。

 僕に意味不明な言葉を投げ掛けたのは、絵里香だった。

 僕は部屋の真ん中辺りに、大の字に横たわり、窓と反対の壁際に、絵里香がおおいに不満そうな顔つきで、胡坐を掻いていた。

「うわん、わん、れやられろうろ……!」

 相変わらず、絵里香の喋りは意味不明だ。何かを伝えようとしているのは判るが、絵里香の口から発せられるのは、無意味な音声のみだ。

 僕は起き上がろうと、身動きをした。

 どて! と、僕は横向きになって、転がった。

 身体に力が入らない。

「うえいわあ……!」

 絵里香、と呼び掛けようとしたが、舌がもつれ、まともな言葉にならない。

 そうか、絵里香も同じ状態なのか。それで、さっきから、何を喋っているのか、僕にも理解できなかったのだ。

 絵里香はもぐもぐと、口を動かした。

「け……い……たぁ……」

 ようやく「啓太」と僕の名前をゆっくりとだが、発音できたようだ。絵里香はコツが掴めたのか、一語、一語を区切るように、言葉を紡ぎだした。

 以下、普通の会話で記す。

「啓太、身体が痺れているんだろ?」

「ああ、絵里香も同じみたいだな」

「あいつら、スタン・ガンを使いやがった!」

「スタン・ガン? それで身体が痺れているのか……!」

 絵里香は頷くと、精一杯顔の筋肉を動かして、怒りの表情を浮かべた。

「普通、スタン・ガンで気絶なんてしねえ。どうやら、奴らが使ったのは、改造して電圧を高くしたシロモノらしいな。そんなもんで他人を攻撃した場合、悪くすると相手を殺してしまうことだって、あるんだぞ! おいらは絶対、許さねえからな!」

 喋っているうち、絵里香の口調は滑らかになって、普通の言葉になってきた。

 僕の体の痺れも、収まってきた。

 絵里香の言葉を聞いて、僕は恐怖に、寒気を感じた。

 何が目的か、判らないが、大賀は、他人に対し、死亡の危険すらありそうな器具を使うことに、躊躇いを持たないらしい。

 ふらふらしながらも、僕は立ち上がった。

 窓へ近づき、ガラス戸を引いて、外を眺め渡した。僕らがいるのは、かなり上階の位置で、地上は遥か、下方に見えた。大体、十階くらいか。窓から見た建物の形から、部屋はマンションの一部屋らしい。ベランダらしきものは見当たらず、真っ平らな壁面が、一直線に地面に達している。

 従って、この窓から脱出は不可能だ。

 ドアに近づき、ノブを試したが、案の定、外から鍵が掛かっていて開かない。何度かガチャガチャやったが、諦めて、僕はまた、床に座り込んだ。

 スタン・ガンの影響か、身体中から力が抜けて、ただそれだけの運動で、僕はガックリと疲れ果ててしまった。まるで八十歳の老人になったみたいだ。

 絵里香は唸りながら立ち上がると、僕と同じようにドアに向かい、どん! と体当たりを試した。

「畜生! おいらの身体、変だぞ! どうしてこんなに、力が入らねえんだ!」

 絵里香は悔しそうに首を振り、頭を抱えた。

 その時「くうううう~~」と、奇妙な音が僕の耳に聞こえてきた。

 絵里香はぎょっとしたように立ち止まり、ぎょろぎょろと両目を激しく動かした。

「何だ、今の音は?」

 再び「くうううう~~~」と、音がした。絵里香は、ハッと自分の腹部を見下ろした。

 僕は気づいた。

 奇妙な音は、絵里香の腹部から発している。

 絵里香は立ち竦み、顔色を青ざめた。

「なっ、何だ、この音は?」

 突然、音の正体に僕は思い当たった。

 こんな状況にかかわらず、僕はゲラゲラと笑い出してしまった。絵里香は顔を真っ赤にさせ、怒鳴った。

「啓太っ! 何が可笑しいんだっ?」

「だっ、だって……」

 僕は笑いに涙を拭いながら、絵里香に顔を向け話し掛けた。

「そりゃ、絵里香の腹の虫さ! 空腹になれば、誰だってお腹が鳴るだろう?」

 絵里香は凝然と、身体を硬くさせた。

「おいらが……腹が減って……それで、腹の虫が鳴っている……!」

 納得したらしく、何度も頷いた。

 思い返せば、絵里香は起きている間、常に何かを食べていた。身の回りには、いつも食べ物が用意されていた。だから絵里香は、今まで、空腹感を経験したことがなかったのだ。

 絵里香の表情が、不意に明るく輝いた。

「そうか! おいらは腹が減っているのか! それで力が抜けてしまったんだ! そうかあ……それで判った……」

 ぎらりっ、と物凄い目の光で、僕を睨み付けた。

「啓太っ! すぐ、おいらに何か食わせろっ! おいらは腹が減っている! 力を取り戻すためには、今すぐ、腹一杯、食べ物を食わなければならねえっ!」

 僕は絵里香に向かって、激しく首を左右に振ってみせた。

「駄目だよ、そんな、無理だよ! 二人とも、この部屋から出られないじゃないか。それなのに、どうやって絵里香に食べ物を運べるって、言うんだ?」

 絵里香はじりっ、と僕に向かって歩き出した。

「非常事態だっ! この際、人肉だって、構わねえ……。啓太、お前の犠牲は、有難く思うぞ……」

 僕はゾクゾクッと恐怖を感じた。

「ば、馬鹿な……! 僕を食べるって、本気で言っているのか?」

 絵里香は答えなかったが、無論、本気に違いない。考えてみれば、絵里香は今まで一度たりとも、冗談とか、曖昧な言葉を口にしたことはなかった。

 絵里香の言葉は、常に本気で嘘偽りのないものだ。だから、僕を食う、という絵里香の言葉は、本当にそうするつもりなんだ!

 ぐるるるる……っ! と、飢えた獣のような唸り声を上げ(実際、絵里香は飢えている)、絵里香は僕に向かって飛び掛ってきた。

 食い縛った口許から、泡のような白い涎を溢れさせ、絵里香は僕に圧し掛かってきた。両目には、狂気の色がある。

「よせっ、絵里香っ! やめてくれっ!」

 圧し掛かられた僕は、悲鳴を上げた。絵里香は僕に向かって、喚いた。

「腕一本くらい、平気だろ? 失った腕は、後でおいらが、高性能の義手を開発してやるから、有難く思え!」

 その時、ガチャリと鍵が開く音がして、今まで固く閉ざされていたドアが、突然開いた。

 すらりとしたスタイルの、美女が登場した。

 長い髪、卵形の顔。大きな二つの瞳が、僕らを見詰めていた。

「啓太さん……」

 部屋に姿を現したのは、天宮奈々だった!

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