3
研究室に入ると、絵里香はおもむろにエアコンのパネルに近寄り、温度を最低レベルに設定した。たちまち、エアコンの送風口から、勢いよく、冷風が噴き出し、僕は寒さに震え上がった。
「絵里香……ど、どうした。やっぱり、暑いのか?」
あの時、自分の薬を注射した絵里香は、しきりと暑がり、今の姿に変身した。もう一度、あんな異変が起きるのかと、僕は不安に駆られていた。
「いいや。おいらは別に暑くはない。実験のためだ」
「実験? 何の実験だい?」
絵里香はじろっと、僕を睨んだ。
「啓太、もう一度裸になれ!」
「ひえっ?」
僕は驚き、絵里香から一歩、引き下がった。絵里香はずいっと僕に近づき、再び命令した。
「聞こえなかったのか? 裸になれと、言っているんだ! 今度はズボンも脱げ! パンツだけは許してやる!」
「ええっ? ど、どうしてっ?」
「さっきも言ったが、お前の風邪が、今回の謎の鍵だ! だから、もう一度、啓太が風邪を引けば、問題のウィルスが見つけ出せる」
「僕に、わざと風邪を引けと言うのか?」
「そうだ!」
絵里香は叫ぶと、研究室にいくつかある蛇口に繋がっているホースを手に取り、じゃあじゃあと、水流を迸らせた。
「さあ、脱げ! さっさと脱がないと、服の上から水を掛けてやるぞ! 濡れた服のまま、帰宅したくはないだろう?」
絵里香は、僕に向かって高々と命じた。顔には、邪悪そうなニヤニヤ笑いが浮かんでいた。
美少女に変身しても、絵里香はやっぱり、絵里香だ。水を浴びせ掛けられ、僕が悲鳴を上げる場面をとっくりと眺めようという魂胆だ!
「冗談じゃないよ! もし肺炎になったらどうするんだ?」
僕の抗議は、絵里香にはまったく通じなかった。
「そうなったら、もう一度、あの薬を使えばいいじゃないか! 一度、啓太の風邪をすっかり治したんだから、また効くに違いない」
絵里香は平然と応じながら、僕に向かってホースの水流を向けた。
「さあさあ、すぐに服を脱げ! おいらは待っていないぞ!」
「や、やめろっ!」
僕は水流から逃れようと、狭い研究室の内部をどたばたと走り回った。以前にも述べたが、絵里香の研究室は、あらゆる物が散乱して足の踏み場もない。
とうとう、僕は何かに蹴躓いて、ずっでんどう! とばかりに、床に腹這いになってしまった。
ぎゃははは……! と絵里香が高笑いをして、ホースの水を、僕の頭に浴びせ掛けた。
「うわっ、うわっ! やめてくれっ!」
僕は悲鳴を上げながら、床をごろごろと転がった。しかし絵里香は、執拗に、僕に向けてホースの水を浴びせてきた。あっという間に、僕の全身はぐしょ濡れになった。
本当に肺炎になるかもしれない……!
僕は恐怖に震えていた。
その時──!
──大丈夫、安心して!──。
突然聞こえてきた〝声〟に、僕は寒さも忘れ、凝然となった。
聞こえてきた〝声〟は、どことなく幼女のような、あどけない口調だった。
「だ、誰だい?」
僕はキョロキョロと、絵里香の研究室の中を見回した。今の〝声〟は、どこから聞こえてきたのだろう?
「啓太、どうした?」
絵里香が顔一杯に不審の表情を浮かべ、僕に問い掛けてきた。すると、絵里香には今の〝声〟は、聞こえなかったのか?
──総てうまく行くから、心配しなくても良いよ!──
聞こえてきた〝声〟に、不思議な温かみを感じ、僕は不意に落ち着きを取り戻した。
僕はゆっくりと立ち上がり、絵里香に向きあった。
「何だ、啓太。おいらに文句があるのか?」
僕は静かに首を左右に振った。
「いいや。文句なんか、ないよ」
僕は我ながら驚くほど冷静で、かつ平静でいられた。目の前の絵里香に対し、今まで感じていた恐怖は、綺麗に拭い去られていた。
どういうわけか、僕は絵里香に対し、親愛の感情を抱いていた。贅肉が落ち、以前の半分以下の体重になった絵里香は、僕の目にはとても可愛く映っていた。
僕は絵里香に向かって、微笑んだ。
「絵里香、今の君はとても素敵だ……。知っているかい、今の絵里香は凄い美少女だってことを?」
僕の言葉に、絵里香は顔を真っ赤に染めた。唇を噛み締め、僕に向かって、ホースの放水口を振り上げた。
「ば、馬鹿野郎! 何、気取ってやがる! これでも、食らえ!」
凄まじい水流が、僕の全身を襲った。
だが、僕は平気だった。
恐ろしく冷たい水が、僕の全身を叩いたが、まるで感じなかった。むしろ、心地良いマッサージを受けているような気分だった。
僕は水流に逆らい、着実な足取りで、絵里香に近づいた。
「啓太っ! お前、何が起きたっ?」
絵里香の顔に、初めて恐怖の感情が浮かんだ。僕が今まで、見た記憶のない表情だった。考えてみれば、絵里香は、僕の目の前で、恐怖の感情を顕わにした例はなかった。
僕は絵里香を安心させるため、微笑を浮かべた。だが、逆効果だった。
「何、薄ら笑いを浮かべてやがるっ!」
絵里香はますます怒り狂った。
執拗に、僕に向けて、水流を迸らせた。
が、絵里香の握ったホースの水流が、徐々に途絶え始めた。間歇的に、水流が弱り始めていたのだ。ホースを握り締めた絵里香は、驚きの表情になった。
「どうしたっ?」
ホースからの水流がしゃばしゃばと、奇妙な音を立て始めた。水の勢いが衰え、途中で詰まったような音になった。噴き出した水流は、シャーベットのような状態になった。
「何が起きているんだ……」
絵里香は呆然と、ホースの先端を睨んだ。ホースから出てくるのは、もはや透明な水流ではなく、半ば固まった状態の氷水だった。
その時、僕は、研究室の全体が、薄っすらと、白っぽい霧に包まれていることに気づいた。
吐く息が白い。
かちかちかち……と、何かが触れ合う音が僕の注意を惹いた。
奇妙なスタッカート音は、絵里香の口許から生じていた。見ると、絵里香は唇をぶるぶると細かく震わせていた。かたかた鳴る音は、絵里香が歯を鳴らしていたのだ。
絵里香は寒さのあまり、震えていた!
僕は、眼前の光景に衝撃を受けていた。
未だかつて、絵里香は寒さに震えるなど、ありえなかった。
真冬の厳寒でも、シャツ一枚で平気で戸外で過ごすのが、絵里香だった。暑さ寒さなど、一切感じない特異体質。それが真兼絵里香だ。
しかし今の絵里香は、体重が普段の三分の二ほどに減少している。多分、消えた体重の大部分は、脂肪だ。纏っていた脂肪が消え去り、絵里香は寒さに耐え切れなくなったのだろう。
ぐわおおおおっ!
奇妙な轟音をたて、エアコンの送風口からは強烈な冷風が噴き出していた。
「エアコンを……エアコンのスイッチ!」
絵里香はガタガタと震えながら、僕に向かって哀願していた。すでに動く気力も無いのか、床にべったりと腹這いになり、震える指先をエアコンのリモコンに向けている。
僕は頷くと、エアコンのリモコンに近づいた。リモコンの電源スイッチを操作して、作動を止めようとする。
が、電源を切ることができない!
何度もスイッチを押したが、エアコンの送風口からは、依然と冷風が噴き出していた。
「切れないよ! 絵里香、スイッチが切れない!」
すでに送風口から噴き出す冷風は、単なる冷風ではなくなっていた。それは北海のブリザードのような猛烈な風速となり、研究室の中を荒れ狂っていた。
強烈な強風に、研究室のありとあらゆる物品が吹き飛ばされ、僕の髪も逆立っていた。
温度は見る見る低下し、総ての表面が凍りついた。床にぶち撒けられた水も氷結し、天井からは氷柱が垂れ下がっていた。
あっという間に、研究室は冷凍庫と化していた。温度は推測だが、零下数十度に下がっていただろう。
僕は床に倒れこんだ絵里香に近づこうと、一歩、前へ進んだ。
その時、べりっと、僕の靴床が異音を立てた。
見下ろすと、僕の踏みしめている床全体が凍りつき、氷結していた。靴の裏が氷に貼り付き、足を上げるとともに、割れたのだ。
一歩、一歩、僕は氷を割りながら、絵里香に近づいた。
やっと絵里香の傍に近づき、僕は床に跪いた。
絵里香はぴくりとも動かない。
僕は絵里香を揺り動かした。
「絵里香、絵里香! どうしたっ?」
「さ、寒い……」
絵里香は微かに返事をした。
僕は狂おしく、周囲を見回した。
何とか研究室を脱出しなければ!
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