2

 母屋から研究室に向かう途中、真兼家の正門に人影を見掛けた。

 人影は真兼高校指定の、女子制服を身につけていた。ほっそりとした背の高い女子。

 天宮奈々だ!

 奈々は僕に向かって、手を挙げた。

「啓太さん!」

 奈々の呼び掛けに、絵里香は足を止めた。

「誰だ、あれ? 啓太、お前が知っている女か?」

 僕は絵里香の台詞に呆れた。

「天宮奈々さんだよ。ほら、君が僕を無理矢理連れて行った日、僕の腕を掴んだ女子がいるだろう。覚えてないのか?」

 絵里香は「ふーん」と鼻で笑っただけだった。事実、絵里香は他人の名前を覚えるのが、極端に苦手だ。本質的に、他人に興味がないのだろう。絵里香にとって、他人は、利用価値があるか、ないかだけで、利用価値の無い他人は存在しないと同じだ。

 奈々はだだっ、と駆け足になって、僕らに近づいた。はあはあと息を切らし、立ち止まると口を開いた。

「啓太さん! 大丈夫? 病院に入院したと聞いたけど」

 僕はどう答えようかと迷った。しかし、正直に打ち明けようと決意して、奈々に答えた。

「実は、精密検査を受けていたんだ」

「精密検査? どこか悪いの?」

 奈々はあんぐりと口をあけ、僕をまじまじと見詰めた。目には、僕を真剣に心配しているような表情が浮かんでいた。

 絵里香がずいっと前へ出て、横柄な口調で奈々に向かって、口を開いた。

「どこも悪くは無い。それより、今から重要な実験がある。お前は邪魔だから、どっかへ行っていろ!」

 奈々は目を見開いた。さっと頬が赤らみ、きりきりきりと、眉が怒りの形に吊り上った。

「あんた、誰よ? 啓太さんとどういうご関係?」

 絵里香は「へっ!」と笑った。

「ご関係とは、挨拶だな。おいらは真兼絵里香。こいつの……」

 と、絵里香は僕に向かって、ぐいっと顎をしゃくった。

「許婚ってやつさ。だから啓太の身柄は、おいらが何しようと勝手さ!」

 奈々の両肩が、がくりっと下がった。

「あなたが絵里香さん? で、でも、あの時とは別人だわ……」

 絵里香は肩をすくめた。

「色々事情があるんだよ。とにかく、お前は邪魔だ! どっか、消えな!」

 奈々の顔色が蒼白になった。ぶるぶるっ、と唇が震え、両拳を握り締めた。

「嫌よっ! あんたに啓太さんは渡さない。啓太さん、一緒に行きましょう! この人といると、何をされるか判らないわ!」

 絵里香がくわっ、と大口を開いた。

 わっ、ヤバイ!

 僕は大急ぎで両方の耳を、手の平で押さえた。

 すーっ、と息を吸い込み、絵里香の胸が膨らんだ。

「お前は、すっこんでいろ──っ!」

 大声で叫んだ。

 あれ?

 こんな近くで絵里香が全身全霊で叫んでいるのに、何とも無い。確かに今の絶叫は凄い音量だが、いつもの絵里香なら、僕や、奈々は完全に気を失うか、腰を抜かしているところだ。

 奈々は目を見開き、呆然となっていた。しかし気絶はしなかった。

 ぎろぎろと、絵里香の両目が、ピンク縁の眼鏡の奥でしきりに動いた。

 絵里香もまた、己の怒声の威力が減じている結果に、仰天しているのだろう。

 ぐっと唇を噛み締めると、ずかずかと奈々に近づいた。

「邪魔なんだよっ!」

 さっと、絵里香の手の平が閃いた。

 ぱあーん! と奈々の頬に、絵里香のビンタが炸裂し、見る見る奈々の頬が、絵里香の手形で赤く染まった。

 奈々はくらっと腰を落とし、信じられないといった表情で、頬を押さえた。

 一杯に見開いた奈々の瞳に、ぷくーっと大粒の涙が盛り上がり、ぽろりと頬を滑り落ちた。

 僕は驚いた。

 いや、絵里香がビンタをしたことについてではない。絵里香ならやりそうなことだ。

 僕が驚いたのは、ビンタされた奈々が、無事なことについてだ。

 絵里香が本気でビンタをしたのだ。本来なら、ビンタされた奈々は軽く十数メートルは吹っ飛び、顔は変形し、気絶しているはずだ。

 しかし奈々は頬を抑え、涙をこぼしたくらいで済んでいる。

 いったい絵里香に何が起きているのだろう?

 てなこと考えている場合じゃなかった。

 奈々は大声で喚きだした。

「なっ、何ようっ! 殴るなんて、酷いじゃない……。顔を殴るなんて、信じられない」

 うあああーあああー、と奈々は長々と泣き声を上げ、ぼろぼろと涙を流した。そのまま、あーん、あーんと子供のように泣きながら、奈々は正門へ歩いて行った。

「奈々さん!」

 僕は奈々の背中に、思わず声を掛けた。僕の呼び掛けに、奈々はくるっと振り返った。

 絵里香は腕を組み、高々と奈々に向かって命令した。

「とっとと、帰んな! ここは、お前のいるところじゃねえ!」

 僕は絵里香に顔を向けた。

「おいっ、そんな言い方、無いだろう? 奈々さんに暴力を振るったのは、絵里香だぞ」

「何おう──」

 絵里香は語尾を跳ね上げる、独特の声音で、僕を睨み付けた。ピンク色の眼鏡の奥で、絵里香の瞳が僕を見上げている。

 普通なら、絵里香にひと睨みされただけで、僕は震え上がり、どんな命令も唯々諾々と従っていた。

 しかし今の僕は、絵里香に恐怖感は感じなかった。ただ、絵里香の傍若無人さに、怒りを感じているだけだ。

「帰るっ! あたし、帰るからねっ!」

 睨み合う僕らを前に、奈々が地団太を踏んで叫んでいた。

「ちょっと、待ってくれ!」

 僕が慌てて呼び掛けたが、奈々はつんと顔を上げ、どすどすと精一杯足を踏みしめて、遠ざかった。

 追いかけようとした僕の腕を、絵里香ががっちりと握り締めていた。

「おいっ! 啓太、あんな女なんか構う場合じゃないぞ! 大事な研究があるんだ」

 絵里香はぐいぐいと、僕の腕を引っ張った。僕は腕を引っ張られつつ、遠ざかって行く奈々を見ていた。

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