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 母屋に僕らは入ると、亀山老人は病院に連絡して、女性の看護師を呼び集めた。亀山は看護師たちに命じて、絵里香を入浴させるよう、手配した。

 何しろ全身、ぬるぬるする粘液に覆われ、着替えをする必要があった。女性看護師たちは質問一つせず、黙々と粘液まみれの絵里香を連れて、風呂場へと移動した。

 その間、院長は真兼高校に制服を納入している業者に電話をかけ、新しい制服一式を注文した。もちろん、変身した絵里香のサイズに合わせてだ。

 絵里香が僕の目の前から姿を消して、ようやく、屋敷内はしーん、と静まり返った。後には僕と、院長が残った。

 院長は僕と向き合い、重々しく口を開いた。

「ちょっと、来てくれ……」

 僕は院長の書斎に案内された。

 書斎に通され、院長はいつものデスクに落ち着くと、僕を正面の椅子に腰掛けさせた。

「さて……詳しく話を聞きたいな」

「はあ……」

 僕は生返事をした。

 詳しく、と言われても、僕の記憶にはかなりの欠落があって、院長が希望するように話せない恐れがあった。

 絵里香が僕に注射した前後の状況は、ビデオによる記録を無理やり見せられ、やや蘇ってきている。が、気絶した後、研究室で大暴れした顛末は、まったく記憶になかった。

 あれが僕だろうか?

 それでも、僕は院長の質問につっかえ、つっかえだが、説明を終えた。記憶にないところは、正直に「記憶にありません」と答えた。

 総て話し終えると、院長は椅子に深々と腰掛け、背凭れに上体を預けた。そのまま天井を見上げ、デスクの引き出しから、愛用のパイプを取り出した。

 院長は医師の癖に、愛煙家だ。もっともパイプを咥えるのは、僕か、絵里香、亀山老人の前に限られ、公式の場では一切、喫煙する姿を見せたことはない。

 ぷかり、と煙を天井に向かって吹き上げると、院長は丁寧な手付きで、パイプの葉を灰皿に空けて、火皿を掃除し始めた。暫く無言で、掃除を続けた。

 院長がパイプをふかすのは、考え事をする時の癖だ。僕の話に、院長はかなり長い間、考え込んでいたようだった。

 ようやく院長が僕の顔を真っ直ぐ見詰め、口を開いた。

「絵里香が注射した薬は、自分で調合したものだと言っていたな」

 僕は返答するような内容ではないと判断して、曖昧に頷いた。

「一回目は紬君、君に投与した。なぜ、君に注射したんだね?」

「僕が風邪を引いていたからです。絵里香は、注射すれば、風邪なんか、一発で治ると言っていました。それで……」

 絵里香が僕の腕に注射針を突き刺した場面を思い出し、僕は思わずぶるっと、身震いをした。あれは酷かった! まるで縫い針のようなぶっ太い針が、僕の腕に突き立てられた光景は、恐怖の感情とともに蘇ってくる。

 院長の瞳が鋭く光った。

「それで、風邪は治ったのかね?」

 僕は小首を傾げた。

「そのようですね。頭痛もないし、熱っぽくもありません」

「ほほう……そいつは凄い!」

 院長はデスクの上面に両手を預け、僕を興味津々といった眼差しで眺めた。

「本当にそうなら、絵里香は凄い薬を開発したことになる。それに絵里香のあの変わりようだ! たった数分で、ほぼ体重の三分の二が消え去ったのだよ。いったい、何があったんだろうね?」

 これも、僕が答えようのない質問だった。

 僕は医者でもないし、科学者でもない。

 異常な事態が起きたことは、はっきり理解できるが、それが「なぜ?」と問われると、両手を挙げるしか方法はない。

 院長は、奇妙な眼差しで、僕を見詰めていた。この目付きは、覚えがある。絵里香が興味深い研究対象を見つけたときと、まったく同じだ。

「君も、絵里香と同じ薬を注射された。結果は、風邪が治っただけとは、到底思えんな」

 僕は無意識に、背筋を反らした。じんわりと湧いてきた恐怖に、僕は早口で答えた。

「僕の身体がどうかなってしまう、と仰るのですか?」

 院長は微かに首を振った。

「まだ判らん。だが、精密検査の必要はあるだろうな」

 ぱちっと、院長は指を鳴らした。院長が指を鳴らすと同時に、背後から人の気配が生じた。

「お呼びで……」

 聞き覚えのある掠れ声に、首を捻じって振り向くと、背後に亀山老人が立っていた。

 いつの間に!

 まったく気配を感じなかった。

 院長は鋭く、老人に向かって命令した。

「紬啓太君を、直ちに人間ドックに! 徹底的に、頭の天辺から、足の爪先まで、隈なく検査するのだ! 何か異常を発見したら、即座に私に報告しろ!」

「承知致しました!」

 老人は頷くと、僕の腕を取って、立ち上がらせた。老人にかかわらず、思いのほか力は強く、僕は抵抗する気力をなくしていた。

 腕を引かれ、僕は母屋から、病院の建物へと連れて行かれた。

 途中、僕は亀山老人に尋ねた。

「あのう、絵里香はどうなっています?」

「御嬢様は、至極、御元気で御座います。いずれ学校へ御登校なさります」

 老人は丁寧だが、きっぱりと答えた。だが、それだけではさっぱり、絵里香の現状について僕には判らなかった。

 絵里香が心配だったわけではない。絵里香と僕は、同じ薬を注射している。絵里香に何か後遺症があれば、僕にも同じ運命が待ち受けている。

 人間ドックか……。

 この際、徹底的に調べて貰えるのも、悪くないと、僕は無理にも楽天的になろうと考えた。

 だが、やっぱり不安だった。

 もし、本当に、異常が見つかったらどうしよう……。

 病院に案内され、担当の医師から簡単な説明を受け、着替え室で服を脱ぐと、僕は早速、自分の身体に生じた異常を発見した。

 姿見の鏡に映し出された、自分の上半身裸に、僕は仰天していた。

 僕は身長百七十センチ、体重五十キロの痩せっぽちだ。

 がりがりの上半身には、筋肉なんか、見せるほどついちゃいない……はずだった。

 鏡の向こうから僕を見返す、もう一人の僕の上半身は、まるで別人だ。

 はっきりと浮き上がる大胸筋、厚みのある肩まわり。へこんだ腹に腹筋が逞しい。

 まるで鍛え上げられた、体操選手のような身体つきに、僕は変身していた。

 いったい、僕の身体に、何が起きているのだろう?

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