第三章 最悪の変身

1

 研究室を飛び出した僕は、すぐそこに見えている、真兼家の母屋を目指した。

 車廻りから、玄関の階段を駆け上がって、重厚な観音開きのドアに辿り着くと、ライオンの形をしたノッカーを我武者羅に叩いた。

 暫く待つと、足音が近づいて、ドアが半分だけ開いた。開いた隙間から、これ以上痩せようがないほど、骨と皮だけといった印象の老人が顔を覗かせた。

 真兼家の秘書を勤める、亀山老人だ。多分、八十は過ぎている筈だが、半白の頭髪は豊かで、整髪料をたっぷりと含ませ、綺麗にオールバックに撫で付けていた。亀山老人は、僕の顔を見ると、少し身を引いて上目遣いになった。

「これは……紬様では御座いませんか。いかがなされました?」

 亀山老人は、一応秘書という役目だが、実質真兼家の、執事と表現したほうが、正確だろう。何でも、真兼剛三氏が物心ついた頃から仕えていて、真兼家の総てを取り仕切っているらしい。

 僕は噛み付くように老人に話しかけた。

「院長先生はどこですか!」

「旦那様で御座いますか? 旦那様は御在宅ですが……」

 僕の血相を見て、亀山老人はさらに後じさった。僕は大声を上げた。

「絵里香が大変なんだ! 死ぬかもしれない!」

「何と仰いました?」

 亀山老人は大きく目を見開き、真っ青になった。老人の反応に、僕は苛立ち、地団太を踏んだ。

「いいから、院長先生を!」

「はいっ!」

 老人は僕の焦りが乗り移ったかのように、ピョンと飛び上がって、背中を向けた。ひょろ長い身体が、絡繰人形のように動いて、あたふたと家の中へ消えてゆく。

 僕は老人の後に続いて、家の中へ踏み込んだ。

 真兼家の母屋は戦前の建物で、西洋館の造りになっている。玄関から入って、靴を脱ぐ必要はなく、土足でそのまま二階、三階へ上がれるようになっていた。院長の、剛三氏の部屋は二階にあった。

「旦那様! 旦那様!」

 亀山老人が連呼しつつ、駆け上がった。駆け上がる際、どたどたと足音を立てる。足音を立てるなど、普段の亀山老人には、あり得ない珍事といっていい。

 老人と一緒に二階の廊下に駆け上がると、突き当りのドアが開き、院長が姿を現した。

 がっしりとした固太りの身体つきで、厳つい顔立ちをしている。真四角の輪郭に、頭髪は五分刈りにしていて、顔つきの厳つさを強調していた。年齢は四十代半ばで、精力的な印象を発散させていた。

 が、今の院長は、小さな両目を一杯に見開き、驚きを前面に表していた。多分、あたふたと駆け寄る亀山老人の姿に、仰天しているのだろう。

「どうしたっ! 何があった?」

「お、御嬢様が……御嬢様が……!」

 息を切らして駆け寄る亀山老人に、院長は顔色を真っ赤にさせた。

「絵里香が?」

 その時やっと、院長は僕に気づいたようだった。

「やあ、紬君……何があったんだね?」

 僕は院長の目を真っ直ぐ見詰め、一気に捲くし立てた。

「大変です! 絵里香が自分の身体に注射をして……」

 院長は、僕の言葉に仰け反った。

「注射? 何を注射したんだ?」

 僕は急いで首を左右に振った。

「判りません。絵里香が自分で調合したらしい薬です」

 院長の口が、ぽかんと開きっぱなしになった。

「自分で調合した薬? で、状態は?」

 僕は口篭った。

 あの状態を、どう説明したものか……。

 僕の様子を見て、院長も只事ではないと察したのだろう。太い眉がぐっと狭まり、目に真剣な光を帯びた。

「研究室だな?」

 僕が頷くと、院長は大股になって、廊下を急ぎ足に歩き出した。

 院長、僕、亀山老人の順で、母屋を出て、庭先に飛び出した。研究室の扉を開き、一同は室内に雪崩れ込んだ。

「絵里香っ!」

 叫んだ院長は、キョロキョロと室内を見回した。

「絵里香はどこにいる?」

 僕は無言で、室内を指差した。僕の指差した方向を見て、院長は「えっ?」と小さく声を上げた。

「ありゃ、何だね?」

 僕の指差した方向にあったのは、肉色の塊だった。絵里香の全身から噴き出した、肉色の粘液だった。それが今は、小山のように盛り上がって固まっていた。

 抜き足、差し足といった様子で、院長が近づいた。院長は腕を伸ばし、指先をちょん、と肉色の塊に触れさせた。

 ぷるん、と塊が震えた。まるでゼリーか、プリンのようだ。

 がばっ! と、ゼリーの一部から手が突き出された。

「うわぁっ!」

 院長は驚いて、飛び下がった。

 ぶるん、ぶるんっとゼリーが揺らめき、半透明の膜を突き破り、中から人間が飛び出してきた。

 真兼高校指定の制服、スカート。どう見ても女の子だ。出現した女の子は、粘液を振り払って、立ち上がった。が、つるん! と足元の粘液に足を滑らせ、どてっ! と、尻餅をついてしまった。

 院長が震える声で叫んだ。

「君は誰だっ?」

「へ?」

 女の子は院長を見上げ、両目をぱちぱちと見開いた。ごそごそと辺りを手探りすると、どろりとした粘液の中から、ピンク色の縁をした眼鏡を探り当てた。眼鏡を顔に架け、まじまじと院長を見上げた。

 卵形の顔立ちに、びっくりするほど大きな両目。粘液のせいで制服が身体にぴったりと張り付いて、体形がはっきりと判る。ほっそりとした身体つきの、人形のように可愛い女の子だった。女の子が身につけている真兼高校女子の制服は、体形に合っておらず、ダブダブだった。

 女の子は口を開き、咎めるような口調で、院長に話し掛けた。声は高めで、どこかアニメ声優のようだった。

「何言ってんの? パパ!」

「パパ?」

 女の子の言葉に、院長はがっくりと両肩を下げた。

「君、名前を言ってごらん」

 院長の言葉に、女の子は不機嫌そうな表情になった。眉がひそめられ、唇がぐっとへの字に曲がった。

 不機嫌な表情が似合う女の子は少ない。女の子が示した不機嫌な顔立ちは、惚れ惚れするほど、可愛かった。

「おいら、絵里香だよ! パパ、どうしちゃったのさ?」

 僕と院長は、呆然と顔を見合わせた。

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