5

 気がつくと、僕は襟首を掴まれ、地面をずるずると引き摺られているところだった。

 もちろん、引き摺っているのは絵里香に決まっている。僕が身じろぎをすると、絵里香は立ち止まり、振り返った。

「何だ、目が覚めたのか。それじゃおいらが運ぶこともないな!」

 僕の襟首から手を離すと、盛大に僕の横腹に蹴りを入れた。

「おらっ! 立てっ! さっさと自分の足で歩けっ!」

 僕はよろよろと立ち上がり、周囲を見回した。

 どうやら、絵里香の研究室近くにいるらしい。

 絵里香の研究室の屋根には、見慣れないブルーのカバーが掛けられていた。

 ぼんやりと見上げた僕を、絵里香はお構いなしに、入口へと引っ張った。

「入れっ!」

 思い切り背中を押され、僕は踏鞴を踏みながら、絵里香の研究室へ転げ込んだ。

 相変わらず、絵里香の研究室内部は、何かの爆撃か、天変地異の後のように、滅茶苦茶に散乱していた。文字通り、足の踏み場もなかった。

「どうだ、ひどい状況だろう」

 絵里香が、鼻息を荒くして、僕に話しかけた。なぜか絵里香の口調は、僕を非難しているようだった。

「ああ、いつもと同じだね。いつになったら、掃除するつもりなんだい?」

 僕の返事に、絵里香は「おや?」といった表情になった。絵里香は声を低め、僕を上目遣いに見上げながら、口を開いた。

「啓太、いつからお前、そんな生意気な口をきくようになったんだ?」

 絵里香の問いに、僕は慌てて自分の口を、手で押さえていた。

 そうだ! 今の台詞は、僕は決して口にするような、内容じゃない! いつもなら、心の中で思って、言葉にするなど、あり得ないはずだ……。

 絵里香は僕の正面で、ぐいっと、ぶっ太い両腕を組み合わせた。

「そういや、お前の態度、妙だな。いつもの啓太らしくないぞ。まさか、本当に、覚えていないのか?」

 僕は用心深く、問い返した。

「覚えていないって、何を?」

「ふうむ……」と一言唸ると、絵里香はゆっくりと僕の周りを歩き出した。一歩、一歩を踏みしめるようにして、僕から視線を離さなかった。

 ちかちかと、絵里香の眼鏡のレンズが何度か光った。レンズの表面に、なにやら記号のような文字列が、浮かんでは消えた。絵里香が眼鏡に仕込んだ、機能の一つだ。

「どうやら芝居じゃ、なさそうだ。啓太の肌表面の熱分布、電位表示を見ると、嘘をついている反応じゃないな……」

 絵里香の眼鏡は、嘘発見器の機能を持っているのか! 初耳だ……。いったい、絵里香の眼鏡には、いくつの機能が隠されているのだろう?

 眼鏡のレンズを元に戻した絵里香は、呟くと、天井を見上げた。

 絵里香の視線を追って、僕は「あっ!」と小さく叫んでいた。

 天井の真ん中に、大きく穴が開き、覆いかぶさったブルーのシートが見えていた。

「あれは……?」

 指差した僕に、絵里香は怒鳴った。

「啓太っ、お前がやったんだ!」

「ええっ!」と叫んで、僕は仰け反って驚きを示した。

「僕が、どうやって、天井に穴を開けられるっていうんだっ?」

 絵里香は僕の質問には答えず、のしのしと研究室の一方の端に歩くと、モニターを示した。

「これを見ろ!」

 スイッチを入れると、モニターが明るくなり、天井近くから見下ろした、研究室内部が映し出された。研究室中央のテーブルには、絵里香が何かの装置に屈みこんで、スイッチを操作している。音はなかった。

「この映像は、昨日の録画だ。おいらは自分の実験経過を記録するため、常に天井近くにカメラを設置している。客観的なデータが必要だからな」

 絵里香が言い終わると、入口のドアが開き、僕が姿を現した。僕は絵里香に向かって、話し掛けた。

「ちょっと待て! これ、昨日の録画って言ったよね。でも、僕は昨日、ここに来ていないぞ」

 絵里香は、映像を一時停止し、答えた。絵里香の口調は、いつもの怒鳴りつけるものではなく、なぜか冷静で、静かだった。

「ところが啓太は、来たんだよ。おいらに呼びつけられてな」

「そんな……まるで覚えていない……」

 僕はあやふやな口調で呟いた。実際、奇妙な気分だった。何か思い出したくない事柄があったような……。目の前の映像を、見続けると何か起こるような……。不安が、僕の胸に、真っ黒な雲となって湧き上がった。

 絵里香は、再生スイッチを押した。

 映像が動き出した。

 モニターに映し出されている僕と、絵里香は、何かやり取りをしているようだった。絵里香の顔色が、期待に輝き、何事かを僕に向かって喋りかけていた。

 映像の中の僕は、甚だしく拒否の感情を表していた。同じくモニターの中の、絵里香は詰め寄り、僕の腕を掴んで、引き寄せた。

 録画の僕は、絵里香の魔手から逃れようと、必死に抗っている。

 絵里香が、注射器を振り被った。絵里香の手にしている注射器は、恐ろしくぶっ太く、注射針は凶悪な光を放っていた。絵里香は僕を掴まえ、とうとう、注射針を僕の腕に突き立てていた。

 僕はモニターの前から、身動きもできず、ただただ、固まったまんま、凝視しているだけだった。

 映像の僕は、床に横たわり、絶叫していた。もちろん、映像には音が伴っていないが、僕の耳には、長々と響き渡る、自分の絶叫が、聞こえるようだった。

 絵里香は静かに話し掛けた。

「本当に、覚えていないのか?」

 僕は答えるかわりに、「うんうん!」と強く何度も頷いた。

 本当に、欠片ほども、目の前の光景は、僕の記憶からすっぽりと抜け落ちていた。

 やがて、奇妙な動きで、僕は立ち上がり、絵里香に向かって迫っていった。絵里香は身構え、何か怒鳴った。

 映像の僕が、絵里香に向かって突っ込んでいった。

 僕は思わず、両手を握り締めていた。

 絵里香に武者ぶりつく僕は、呆気なく絵里香の豪腕に振り払われ、部屋の隅に仰向けに倒れていった。そこに積み上げられていた様々の品々が、僕の上へ一斉に雪崩落ちた。

 その一つ、あれは多分、計測器だろうか、僕の頭を直撃していた。映像の僕は、バッタリと倒れこんだ。細かい部分は判らないが、どうやら僕は、白目を剥いて気絶しているようだった。

 映像の絵里香が、用心深く、気絶している僕に近寄って行った。

 突然、映像の僕が、一挙動で立ち上がった。見えない糸で引っ張り上げられたかのように、その動きは唐突で、出し抜けだった。映像の絵里香はぎょっとなり、動きを止めた。

 映像の僕が、絵里香に向かって、再び襲い掛かって行った。絵里香もまた、僕の動きにあわせ、腕を上げて身構えた。

 僕は低く構えると、真下から腕を突き上げて行った。絵里香の顔には、薄ら笑いが浮かんでいた。僕の攻撃など、何ほどでもないと完全に舐めきっていた。

 その後、モニターに映し出された録画は、意外な展開を示した。

 何と、振り上げた僕の拳は、絵里香のガードを突き破り、見事なアッパー・カットを見せたのだった。絵里香の両足が、ふわりと床から浮き上がり、百キロ超の巨体が、軽々と研究室を吹っ飛んでいった。

 吹っ飛んだ絵里香は、猛然と起き上がり、弾丸のように僕に突進した。僕は絵里香の巨体を受け止め、ずずーっと床を滑った。しかし絵里香の突進にかかわらず、僕は怯まず、絵里香を押し戻し、殴りつけた。拳を固め、僕は絵里香の頬桁を、思い切り殴っていた。

 殴られた絵里香は、ぶるっと頭を振ると、何か喚きながら、床を蹴って、僕に向かって飛び蹴りを食らわした。

 僕は絵里香の両足を掴み、ぶるんぶるんと回転していた。やがて十分に回転したところで、僕は絵里香の足を離していた。

 絵里香の巨体が宙を舞い、真っ直ぐモニター画面に大写しになった。絵里香の顔が画面一杯に迫って、モニターは真っ暗になった。

「ここでおいらは、天井に設置したカメラに激突して、天井を突き破った。あの天井の穴がそうだ」

 僕は呆然として、何も映っていないモニターを見詰めていた。真っ黒なモニターに、僕と絵里香が写っていた。僕は絵里香に振り向いた。

「信じられないよ。あれが、僕か?」

 僕の言葉に、絵里香は重々しく頷いた。絵里香は、いまだ僕が見たことがないような、真剣な表情を浮かべていた。

「どうやら薬の影響で、記憶を喪失しているらしいな。面白い……」

 絵里香は呟くと、ニタッと笑った。

 僕はぞっとなった。

 絵里香があんな笑みを浮かべるときは、たいてい、僕にとって不吉な考えを浮かべているときだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る