4
どわああああっ!
いったい、何がどうなっているのか、僕は気が遠くなってしまった。
何と、アイドルの天宮奈々が、僕にキスをしたのだ! しかも教室の、クラスメートがいる前で!
奈々は僕にキスをすると、さっと立ち上がった。頬はピンクに上気し、両目はきらきらと輝いていた。
教壇で、黒杉は鬼瓦のような表情になっていた。ぶるぶると全身が震え、ばん! と大きな音を立て、教壇を平手で叩いた。
「な、何をやってるんだ! ここは教室だぞ! そんなことは、他でやれ!」
黒杉の怒りも、もっともだ。まさか転校生が、転校早々、クラスメートの一人に、黒杉の目の前でキスをするなど、予想もしなかったのだろう。
僕だってどう考えれば良いのか、さっぱり判らない。正直、混乱の極みというのが、今の気持ちだ。
教室中が、静まり返っていた。が、空気はぴーん、と張り詰め、何らかの刺激があれば、今にも爆発しそうだった。
何か言わなければ!
僕は唾を飲み込み、必死の勇を振り絞って口を開いた。
「き、き、君……ど、ど、ど、どうして……僕と……けっ、けっ、けっ!」
まるで鶏の鳴き声だ。
奈々は澄まして答えた。
「あなたと結婚するつもりなの! 紬さん、わたし、嫌いかしら?」
まさか! 僕はずーっと、天宮奈々のファンだった! その本人が僕の目の前に現れ、キスをしてくれるなんて、想像もしなかっただけだ。
でも、どうして?
その時、やけにのんびりとした調子で、高森が口を挟みこんだ。
「天宮はん。紬と結婚なんて、そら、無理でっせ! 何せ、紬は、ちゃーんと許婚がおまっさかいな……」
奈々はきっと、真剣な表情になって高森を睨みすえた。
「それが何だと言うの? 紬さんに許婚がいたとしても、本人同士に、結婚の意思があるかどうか、別の話でしょ!」
それまでにやにや笑いを浮かべていた高森は、奈々の睨みに、ひょっと、首をすくめた。
しかし奈々の反撃の言葉は、僕にある衝撃を与えていた。
そうだ! 今まで念頭に無かったが、肝心の絵里香はどう、思っているのだろう? 絵里香に僕と結婚するつもりなんてあるかどうか、怪しいものだ……。
その時、僕の耳は、廊下側から聞こえる、重々しい足音を捉えていた。
ぐわぁらり! と、引き戸が荒々しく開けられ、教室中に轟きわたる大声が、あたりを圧した。
「啓太はいるかっ!」
もちろん、声の主は絵里香に決まっていた。
僕は恐々と、出入口に顔を捻じ向けた。
そこに、絵里香の姿があった。
が、絵里香の姿は、僕の予想を完全に裏切っていた。
研究室から直接、僕らの教室を目指したらしく、絵里香はだぶだぶの白衣をまとっていた。
しかし、絵里香の白衣は、あちこち破れ、何か擦り付けたらしく、薄汚れていた。
何より、絵里香の顔が変形していた。
いつも架けているピンク色の縁をした眼鏡は、片方レンズが罅割れ、絵里香の顔は腫れ上がっていた。殴られたかのように、絵里香の頬は青黒く変色し、罅割れたレンズの奥の目の、目蓋は膨らんで、目玉に覆いかぶさっていた。
絵里香はじっと、僕を見詰め、ぐるるるるっ!……と闘犬のように唸った。
「いたな……啓太っ! すぐ、おいらと一緒に、研究室へ来い!」
僕の返事も待たず、絵里香はつかつかと教室に入り込むと、そのままむんず! と、僕の腕を掴んだ。
「待ってくれよ! どうした、何があったんだい? その傷はなぜだっ?」
僕の言葉に、絵里香は意外そうに、僕を見上げた。
「啓太、お前がやったんだろうが!」
「僕がっ? その傷を作ったって言うのか? そんな馬鹿な!」
僕は絵里香の言葉に、心底仰天していた。絵里香は無言で、僕の右腕を引っ張り、出入口へ突進していた。
僕は抵抗もできず、ただ、絵里香のなすがままに、引っ張られていた。
すると、それまで黙って僕らの遣り取りを見守っていた天宮奈々が口を開いた。
「お待ちなさい! 啓太さん、嫌がっているじゃない!」
絵里香は奈々の言葉に、ぐいっと顔を捻じ向けた。
「何だ、お前?」
奈々はくいっと顎を上げ、はっきりと答えた。
「あたし、天宮奈々! 今日から真兼高校に転校してきたの! あなたが腕を掴んでいる、紬啓太さんと結婚するためにね!」
奈々はだっと駆け出し、僕らに突進すると、絵里香が掴んでいない、僕の左腕を掴んだ。
「啓太さんは、あたしのもの!」
僕は絵里香と、奈々の間で引っ張られ、立ち往生してしまった。
すると見る見る絵里香の顔に、どす黒く血が上った。表情は瞬時に、怒りの色に変わった。
すーっ、と絵里香は思い切り、息を吸い込んだ。
ヤバイ!
見ると教室中の全員が、手で両耳を押さえていた。
ど、どうしよう、僕は絵里香と奈々に両腕を掴まれて、耳を押さえられない……!
絵里香がくわっ、と大口を開いた!
その時の絵里香の絶叫を、文字に書き写す能力は、僕には無い。
ともかく絵里香の怒声は、物理的な破壊力を持って、教室中を荒れ狂った。窓に嵌っている総てのガラスが一瞬に砕け散り、天井の照明は、一つ残らず弾け飛んだ。
その場にいた全員が、薙ぎ倒されたかのようにばたばたと倒れこみ、気絶した。
もちろん、僕も気絶した一人で──これは後から聞き込んだ話を、ここに書き記しているだけだ──最後に目撃したのは、僕の左腕を掴む奈々の髪の毛が、ぶあっ! と強風に煽られたかのように広がり、そのまま後ろに倒れこんだ場面だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます