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 先に述べたが、絵里香は知能指数三百を超える、超天才だ。

 だから学校の成績が良いかと問われれば、否定せざるを得ない。僕は知っているが、絵里香の成績は、小学校から、高校にかけ、いつも最低レベルを維持していた。通常なら、まず落第させられる成績しか、とっていない。

 理由は、絵里香が、授業を真面目に受けていないからだ。たまに授業に出ても、黒板すら見ず、授業と全然関係ない本を持ち込んで、勝手気儘に読んでいたりする。腹を立てた教師の質問も無視するし、テストなどほとんど白紙で返す。これではどんな甘い教師でも、最低点をつけないわけには、いかないだろう。

 多分、絵里香はあまりに天才すぎて、普通の勉強や、学校の授業など、興味が湧かないのだ。だが、世間は、学校の成績で人を評価する。世間並みの評価では、絵里香は単なる落ちこぼれにすぎない。

 一日の大半を、絵里香はこの研究室で過ごしていた。研究室に篭り、絵里香曰く「人類の運命を握る大発明」だの、「驚天動地の科学実験」などを繰り返していた。

 僕は絵里香の実験に何度か立ち会っているが、一度たりとも、実験が何らかの成果を挙げた結果は、記憶になかった。

 たいていは失敗に陥り、何度かは研究室の天井を吹き飛ばす大爆発を起こして、消防車の出動を要請した結果に終わったりしている。

 今まで絵里香が、実験の失敗で、怪我ひとつなく過ごしてこれたのは、真兼町七不思議に数えられていた。

 化学実験も絵里香は大好きで、始終病院の薬品をくすねては、この研究室で勝手に調合していた。絵里香の扱う薬品の中には、劇薬や、爆発を伴う危険な薬品も含まれており、何度か火事を引き起こしている。

 昔のコメディや、お笑いのコントで、マッド・サイエンティストなどが登場するが、絵里香はその仲間だ。違いは、絵里香が女子高生という立場だけだ。だから絵里香は、マッド・科学者サイエンティストならぬ、マッド・女子高生スチューデントなのだ。

 それらの事情を、僕はよーく、承知しているから、絵里香が僕に「風邪薬を投与してやる」と宣言したとき、深甚な恐怖に襲われたのは当然だろう。

 絵里香の薬など、死んだって体の中に入れたくはない!

 だが、僕の腕には、絵里香が手にした注射器の針が、ぶっすりと突き刺さっていた。

 僕は恐怖に全身を強張らせ、ただまじまじと、蛍光灯の明かりに、硬質な光を反射させている注射針を見つめているだけだった。

 絵里香は、注射器のピストンをゆっくりと押した。注射器内部の透明な薬液が、僕の体に着実に注入されていった。

 僕に注射している絵里香の顔には、残忍な喜びが表れていた。絵里香の両目は期待にきらきらと輝き、半開きの唇からは、今にもたらーりと、涎が垂れそうになっている。

 注射針を引き抜くと、絵里香は満足そうな表情を浮かべた。

「どうだ! 啓太に入れたのは、おいらが開発した強壮剤だ。風邪なんか、一発で吹き飛んで、オリンピック選手のように元気になるぞ!」

 勝ち誇って喋る絵里香の顔は、興奮で赤く染まり、肌はてらてらと汗で濡れていた。

 僕は答えようもなく、ただ、黙っていた。今の僕の関心は、あとどのくらい、生きていられるのか? だった。

 絶対、絵里香が僕に注射した薬品は、毒薬に決まっている!

 注射を終わった絵里香は、さっと飛び跳ねるような動きで僕から遠ざかり、興味津々といった様子で、僕の変化を待ち受けていた。

 床に長々と横たわったままの僕は、これからどうなるのか? という不安で、全身にびっしょりと冷や汗を浮かべ、身動きひとつできなかった。ちょっとでも動いたら、大変な事態になりそうで、僕は凝然としたまま、横たわっていた。

 どきどきどき……!

 激しい胸の動悸だけが、僕の意識に上っていた。

 ちらっと横目で見ると、絵里香が一歩下がって、手にノートを持って、構えている。

 出し抜けに、僕の胸に、絵里香に対する怒りが湧き上がってきた。絵里香は実験のひとつとして、僕に注射したんだ! 絵里香にとって、僕はただのモルモットに過ぎない!

 僕は何か言おうと、口を開いた。

 が、僕は絵里香に対する怒りの言葉を、口にすることはできなかった。

「うあああああっ!」

 僕の口から出たのは、悲鳴だった。

 全身を貫く苦痛に、僕は絶叫し、手足をあらん限りに突っ張っていた。

 こんな苦痛があるのか? と僕は驚愕していた。全身の細胞一つ、一つが、僕に苦痛を伝えてきた。皮膚が、内臓が、一本残らず全身の骨が、焼けるような痛みに歪んだ。

 だん! と、僕は大きく、背筋だけの力で、飛び跳ねていた。あまりの苦痛に、自分でも驚くほどの力が、僕をまったくの静止状態から、自分の背の高さほどの高さに飛び上がらせていた。

 そのままずしん、と背中から落ちて、僕はごろごろと横に転がった。とにかく、全身から伝わる痛みに、じっとなんか、していられなかった。

「あああああっ!」

 僕は叫んだ。咆哮していた、といったほうが、正しい。今まで自分が出したことのない、獣じみた音声が、僕の喉から迸った。

 絵里香はどうしていたかというと、そんな僕の狂態を、血走った目で見つめ、夢中で手元のメモに、何かを書き殴っていた。顔には喜悦の色が浮かび、口は笑いの形に歪んでいた。僕の七転八倒の苦しみを、絵里香はただ、面白そうに眺めている。

 ああいうやつなんだ!

 絵里香は他人の痛みに、まるで無関心で、というより、他人の痛みを喜んで眺める性格の持ち主だ。人が苦痛に顔を歪めるたび、絵里香は腹を抱えて笑うのが常だった。

 絵里香の笑い顔を見ている僕の心に、再び怒りの炎が燃え上がった。僕は必死になって立ち上がり、絵里香に向かって歩き出した。

 歩き出す僕を見て、絵里香の顔に不審の表情が浮かんだ。

「啓太、どうした?」

 よろっ、よろっと僕は苦痛を堪え、一歩、一歩絵里香に近づいていった。僕の顔に浮かんだ表情を見て、絵里香の表情が微かに動いた。

「啓太っ! おいらに逆らうのか?」

 僕の足は止まらなかった。ずりっ、ずりっと足の裏を滑らせ、僕は徐々に絵里香に近づいていった。

 絵里香の顔に、憤怒の色が昇った。

「そうか! 面白いじゃないか!」

 僕は走り出していた。自分でも意味不明の喚き声を上げ、無我夢中で絵里香目掛け飛び掛った。両手を前へ突き出し、絵里香の両肩を、ぐわっとばかりに掴んだ。

 絵里香は「ぐおおおおっ!」と熊のような唸り声を上げると、掴んだ僕の両手を振り払った。絵里香の一振りで、僕は呆気なく、真後ろに吹っ飛んでいた。

 がらがら、がしゃん! と僕は研究室に積まれている、様々な我楽多道具の中に突っ込んでいた。突っ込んだ我楽多の山が、次々と雪崩を打って崩れていった。

 落下物のどれか、何か重いものが、脳天を直撃し、僕は気を失ってしまった。

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