3

 絵里香の研究室内部は、まるで爆撃を受けた直後のように見えた。

 何しろありとあらゆる物品が散乱し、床も見えないほど、あちらこちらに堆積していたからだ。

 書物が何段にも積み重なり、その間から様々な科学機器が雑然と並べられ、機械の間からは、赤、青、黄色、白、黒と無数の配線がうねうねと這い回っている。

 いくつもある机には、ビーカーやフラスコ、試験管など化学実験器具が山を作り、壁際のスチール棚には、何が何やら判然としない薬品が、ずらりと勢揃いしていた。

 部屋の真ん中辺り、絵里香の巨体が、僕の目に焼きついた。身長百五十センチ、体重百キロという超肥満体は、どのような環境でも、一目で視界に飛び込む。

 この混乱の中、絵里香は真剣な顔つきで、何かの計測器具に向き合って、一心不乱に手元のメモに、数値を書き込んでいた。絵里香は学校指定の制服の上から、白衣をまとっていた。白衣は丈があってなくて、裾が床を引き摺っていた。だぶだぶの袖が煩わしいのか、絵里香は白衣の袖を腕まくりしていた。

 しきりと絵里香は、ピンク色の縁をした眼鏡を、太い指先で触っていた。この眼鏡は絵里香特製で、眼鏡としての機能の他に、何か特別な仕組みがあるらしい。絵里香の言葉を信用すれば、顕微鏡と、双眼鏡と、赤外線ゴーグルの機能を併せ持っているのだそうだ。さらに最新のウエラブル端末としての機能も併せ持っている。本当なら、凄い発明だが。

 絵里香の机の上には、ドーナッツが山盛りになっていた。絵里香は時折、思い出したように、手を伸ばして、ドーナッツを口に持っていった。絵里香曰く、頭脳労働をするときは、脳味噌が糖分を欲しがるのだそうだ。僕は単純に、絵里香が食いしん坊だからと、思っている。

 今日、僕が付き合う実験とは、どのような内容だろう。先週は重力制御装置を作ると宣言して、メビウスの輪の形に捻った電磁石に大電流を流し、町の電源の半分をショートさせた。

 さらに先月には、物質転送装置を作り上げたと自慢して、電源を入れた瞬間、炎が吹き上がって、危うく研究室を全焼するところだった。

 量子コンピューター、原子変成理論、透明人間になる薬、遺伝子組み換え猫……絵里香の研究テーマは多岐にわたるが、どれ一つとして、まともに完成したものはなかった。

 僕が入室すると、絵里香はピンクの縁をした眼鏡のレンズ越しに、ちらっと目を上げ、不機嫌そうに口を開いた。

「昼前に来いと、命じてあったろう! もう、十二時過ぎだぞ!」

 さっと、壁に架けられた時計を指差した。

 僕はもぐもぐと、言い訳した。

「御免よ、朝、頭が痛くて……」

「頭が痛い、だとお?」

 尻上がりの声調子で、絵里香は僕の言葉を鸚鵡返しにした。初めて絵里香は、僕をじろじろと眺めた。

「啓太、お前、風邪か?」

 絵里香の言葉に、僕は希望を──はかない希望を持った。

「うん。どうも頭は痛いし、熱もある。咳だって出るし、調子が悪いんだ。だから今日の実験は付き合えないと思うんだけど……」

「待て、待て、待てっ! お前、本当に風邪だな? 仮病じゃないな?」

 なぜか絵里香は両目をぎらぎらと輝かせ、僕に向かって近づいてきた。僕は絵里香の目つきに、なぜか怯えた。

「う、嘘じゃない! 本当に、風邪なんだ!」

「そう──か、風邪か……。啓太は風邪を引いたのか……」

 ジロジロと絵里香は僕の全身を、頭からつま先まで何度も眺めた。さっと眼鏡の縁に触ると、レンズの色が暗色に変化した。どうやら、赤外線ゴーグルに調整したのだろう。

「ふーん、お前の熱分布、確かに風邪引きと同じだな。えーと、体温は三十九度……。ほほう、かなり高い熱だな……」

 絵里香は一人、うんうんと何度も頷いて、研究室を冬眠前の熊のように、のしのしと歩いた。何か良からぬ考えが、脳裏に渦巻いているようだったが、僕にはさっぱり、絵里香の考えは悟れなかった。

 と、絵里香は不意に僕のほうをきりっと振り返り、笑顔になった。それはきわめて不吉な、悪魔の笑みに見えた。

「よしっ! それじゃおいらが、お前の風邪を治してやる!」

「なんだって?」

 僕は叫んだ。

 絵里香は口早に、続けた。

「おいらは、抜群に効き目の強い、強壮剤を発明したんだ! こいつを投与すれば、死人だって起き上がって、マラソンだってやれるほど強力なやつだ! お前の風邪なんか、一発で吹き飛んでしまうぞ!」

 僕は愕然となった。

「よしてくれ! 君はただの、女子高生じゃないか! 風邪を治すなら、病院へ行くよ。だいたい、ここは真兼病院の敷地だぞ」

「啓太っ! おいらに逆らうのか?」

 絵里香は吠え立てた。絵里香の咆哮は、僕の全身を貫いたが、桐山先生と違って、僕は子供の頃から、絵里香の喚き声には慣れている。先生だったら、この場で昏倒していたろうが、僕は何とか、絵里香の猛烈な怒りに耐えていた。

 とにかく、絵里香の素人治療など、受けるつもりは、さらさらなかった。何しろ、僕のたった一つの、生命がかかっている!

「さ、さよならっ!」

 僕はピョン、と飛び上がり、くるりと絵里香に背を向け、走り出した。出入り口のドアを目指し、一散に駆け出す。

「逃がすかっ!」

 絵里香が叫んで、何か手近の装置に手を伸ばした。

 途端に、僕の目の前で、ドアがガチャリと、音を立てた。僕はドアのノブに噛り付いた。

 開かない!

 ドアのノブは、がっちりと固着していて、一ミリだって動かなかった。

 絵里香がドアの鍵をかけたのだ。

「啓太──っ! 観念しろっ!」

 どすどすどすと、象の突進のような足音を立て、絵里香がまっしぐらに、僕に近づいてきた。

 見ると、絵里香の右手には、一本の注射器が握られていた。

 獣医が使うようなぶっ太いやつで、まるで牛乳瓶くらいの直径がある。注射針は編み棒ほどの太さで、邪悪な光を放っていた。

「嫌だ──っ!」

 僕は絶叫し、手近にあった様々な物を、絵里香目掛けて投げつけた。

 本、薬瓶、バケツ、モップ、とにかく、手に触れた物を、無我夢中で絵里香に投げつけた。

 絵里香はひょい、ひょいと、巨体からは想像のつかない素早い動きで、僕の投げつけた物を避けて、接近を続けた。僕に近づく絵里香の口許は、にったりと笑いの形になって、ピンク縁の眼鏡のレンズ越しに、喜悦の色が両目に浮かんでいた。

 僕はドアを諦め、絵里香の魔の手から逃れるため、部屋中を走り回った。風邪で頭は痛く、熱で全身がだるいが、ここで絵里香に捕まっては最悪の結果が待っている。僕は文字通り、命がけで逃走を続けた。

 身長百五十センチ、体重百キロを超える肥満体にかかわらず、絵里香の足は速かった。どすどすと床を踏みしめ、絵里香はぐい、と片腕を伸ばし、僕の襟首を掴んだ。

「おいらから、逃げられると思うのかっ!」

 絵里香は僕の襟首を掴んだまま、ぶんぶんと僕の全身を振り回した。絵里香は恐ろしく腕力が強い。体重五十キロの僕など、絵里香の片腕で軽く、振り回せられる。

 僕は絵里香の狼藉に、すっかり気力を失っていた。振り回された衝撃に、僕は完全に力が抜けて、だらりと両手、両足を垂らした。目が回り、ぐらぐらと天井が近づいたり、遠ざかったりした。

 どたり、と音を立て、僕は研究室の床に長々と伸びてしまった。仰向けに伸びてしまった僕の視界に、絵里香の顔がぬっと、突き出された。

「どうだ、観念したな! おいらからは、逃げられないんだぞ!」

 僕は言葉を発する気力もなく、ぱくぱくと口だけを開閉させた。

 絵里香はそんな僕の様子を確認すると、手にした注射器を明かりにかざした。とんとんと注射器の横腹を指先で叩いて、内部の気泡を追い出した。ちゅーっ、と注射針から一筋、液体が噴出し、絵里香は、にたーっと笑いを浮かべた。

「さあ、これでお前は元気になる。おいらが、保証するからな!」

 僕は「嫌だ」という意思を示すため、弱弱しく、首を左右に振るだけが、精一杯だった。

 絵里香は僕を逃がさぬように、ぐっと僕の肩に、自分の足を下ろした。これでもう、僕は、標本箱にピンで刺された、虫の標本のように捕らえられてしまった。

 身を屈めた絵里香は、僕の片腕の袖を捲り上げると、注射針を躊躇いなく、近づけた。

 僕は必死に、抗議した。

「ちょっと待て! 消毒はしないのか?」

 煩そうに、絵里香は答えた。

「そんな面倒な手間、かけるもんか!」

 言い終わる前に、絵里香は、ぶっすりと僕の腕に、注射針を突き立てた!

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