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 翌日、僕は家を出て、高校への通学路を歩いていた。

 この日は高校は休みだが、絵里香の命令があったから、僕は高校を目指さざるを得ない。

 本当は行きたくはなかった。

 絵里香の「実験」の内容が怖かったからでもあるが、昨夜からどうも風邪気味で、頭が重く、悪寒がした。

 やっぱり、昨夜、徹夜したのがいけなかった。

 徹夜といっても、勉強したわけではなく、僕が熱中している、アイドルの深夜番組に夢中だったからだ。僕が夢中になっているアイドルの名前は〝天宮奈々あまみやなな〟。

 深夜番組では、衝撃の発表があった。

 なんと、天宮奈々が、アイドルを卒業するという発表があったのだ。この日の番組に奈々は登場せず、結局大慌てで編成されたであろう、彼女の過去の映像や、ヒット曲などが流されただけだった。

 衝撃を受けたのは僕だけじゃなかった。

 奈々の引退発表に、ネットでは大騒ぎで、様々な憶測が飛び交っていたが、結局確かな事実は何もなく、僕は夜明けまで画面に張り付いたままだった。

 結果、僕は重い頭と、悪寒に耐えながら、高校への通学路をとぼとぼと辿っている。

 なぜ僕がわざわざ、休学日に、高校へ向かうのか。それは絵里香の研究室が、真兼高校の近くにあるからだ。

 さらに説明すれば、絵里香の自宅と、高校の敷地は隣接している。というより、真兼家の敷地内に、真兼高校があると説明した方が正確だ。

 僕の家から、高校へは歩いて十分ほど。だらだらとした上り坂を歩いていくと、川がある。川の上には大きな橋が架かっていて、これは二車線の車道にもなっている。

 視線を上げると、そこには真兼町唯一の総合病院である『真兼医院』の建物が聳えていた。

 医院の建物に隣接しているのが、真兼高校だ。高校の建物は、医院の敷地内にあった。

 絵里香は、真兼医院の一人娘なのだ。

 真兼家は、戦国時代から続く旧家で、織田、豊臣、徳川の世を巧みに生き延び、明治維新後には華族の一つとして勢威を誇った。戦後は医院を経営し、真兼町では隠然とした権力を握っている。

 町の主だった企業や、個人商店は病院へ納入していて、がっちりとした関係を保っていた。当然、病院の一人娘の絵里香の振る舞いも、大目に見られる傾向があった。絵里香自身は、自分が病院の後ろ盾があるなど、毛ほども思ってはいないが。

 病院と、高校が建っている敷地は、昔は山城があって、今でも城の石垣が崩れもせず残っている。

 そのため、坂の下から見上げる病院の建物は、城郭のように見えた。

 病院は戦前から残る建物で、デザインは今風ではなく、昔のごつごつと装飾が施されている古風なものだ。何となく、中世ヨーロッパの古城に見える。僕は建築については詳しくないが、何でもゴシック様式というのだそうだ。そのゴシック建築の病院には、古いネオンサインの看板が架かっていて、夜には青白く輝いている。

 さすがに高校の建物は新しく、隣接している二つの建物が並んでいる様は、新旧が競っていて、どことなく不調和だ。

 高校の正門は休校日でもあり、固く閉ざされていた。僕は高校のフェンス沿いにぐるりと周囲を廻り、病院を目指した。

 ふと僕は、皮肉な思いに駆られた。

 風邪気味の自分が、このまま、病院の正門を潜って「すみません。風邪気味なんですが」と受付に告げたらどうだろう?

 大威張りで、絵里香の約束をすっぽかせられるのじゃないか?

 考えただけだ。

 絵里香の約束をたがえるなど、恐ろしくて考えたくもなかった。

 僕が絵里香の命令に、これほど従順になるには、理由があった。

 第一に、幼い頃から絵里香は他人に命令する習慣があって、手近にいた僕が、最も絵里香の命令を受ける立場にあった。そのため、絵里香に命令されると、本能的に従う習慣ができてしまっていた。

 もう一つ理由があった。

 それは、僕が、絵里香の許婚だからだ。

 絵里香の許婚──この言葉を脳裏に思い浮かべるたび、僕は恐怖を感じざるを得ない。

 あの絵里香と結婚する!

 これだけは、何としても厭だ!

 僕が幼稚園の頃、絵里香の父親──真兼剛三{まさかねごうぞう}氏──が、僕と絵里香が遊んでいる姿を見て、将来結婚させようと考えたらしい。すぐその場で、僕の両親に、話を持ちかけたそうだ。

 僕の両親は、剛三氏の言葉を、軽い冗談と受け止めたそうだ。だが、その夜のうちに、真兼家から、正式な結納の使者が到着して、これは冗談ではないと、改めて気付いたらしい。

 なぜ剛三氏が、僕を絵里香の許婚に決めたのか、未だに謎だが、以来、僕は絵里香の結婚相手として、正式に、真兼町全体に認知されるようになってしまった。

 これがどんな酷い運命か、僕が中学生くらいになって、好きな女の子を意識し始める頃になると、はっきりと判り始めた。

 僕がなけなしの勇気を振り絞り、告白しても、相手は「どうせあなたには真兼絵里香という、結婚相手がいるんでしょ!」となる。僕は絵里香がいる限り、この真兼町で、好きな女の子に告白すら、できなくなってしまった。

 もちろん、僕は絵里香と結婚するつもりなど、一切ない!

 あんな化け物と一緒に暮らすなど、絶対考えられないからだ。

 しかしこの真兼町に暮らしている限り、真兼家から逃れられないだろう。だから僕は、一つの計画を温めていた。

 それは、真兼高校を卒業した後、都会に出て、大学に進学することだ。大学に進学して、都会で暮らすようになれば、その内、真兼家の監視も届かないチャンスが生まれる。うまくいけば、都会で、本当の結婚相手を見つける可能性だって、あるかもしれない。

 それまでは、せいぜい、大人しくしているさ。

 病院の裏手に回ると、そこは真兼家の母屋というか、住居になる。明治の初期に建てられたとかで、造りは重厚で、病院の建物と同じく、西洋の館のように見えた。

 広い庭に、ぽつんと唯一つ、建物とはまるで不似合いな、プレハブ小屋が一つ建てられていた。

 これが絵里香の、個人的な研究室だ。ここで絵里香は、日がな一日、自分の興味を惹いた研究を行っている。

 女子高生が科学研究? と奇異な感じをするだろうが、絵里香はただの女子高生ではない。

 外見も相当、人間ばなれしているが、頭脳もまた、平均を大きく逸脱していた。

 僕が小学生時分、全国を対象に、知能指数検査が実施されたことがあった。その時、噂では、絵里香は桁外れの数値を叩き出したそうだ。

 実際の数値は公表されなかったが、何でも絵里香の知能指数は、三百を越えていたそうだ。それも推定値で、正確な数値はどれほどになるか、専門家ですら、答えられなかったらしい。

 百を越えれば相当、優秀な頭脳で、アインシュタインや、ニュートンですら、百五十前後と考えられるのに、絵里香はさらにその上をゆく頭脳の持ち主と思われた。

 いわば、絵里香は超天才なのだ!

 プレハブ小屋は、装飾一つない、無愛想な建物で、裏手には発電機と変電機の設備、さらにガス、上下水道の管が通っていた。トイレ、バスの設備も整っていて、絵里香が一人で暮らすには、必要充分だ。

 小屋のドアの前に立つと、突然、僕は咳の発作に襲われた。

 げほげほ、こほこほと、僕は身体を折り曲げ、突然の咳に必死に耐えた。家から歩いてきて、ドアの前で僕の体力が尽きたのか、熱まで上がってきた。

 ぼうっと熱に浮かされ、僕の視界は霞んでいた。多分、これから予想される試練に、僕の身体が、正直に反応したのだろう。要するに、拒否反応のひとつだ。

「何だ、啓太じゃないか! 早く入れ!」

 突然の絵里香の声に、僕はびくっと、全身を強張らせた。

 見上げると、ドアの框あたりに、カメラと、スピーカーが設置されている。絵里香の声は、スピーカーから発せられていた。絵里香が手製で設置した、監視装置だ。ドアの周辺をレーダーが探知していて、誰か人が近づくと、内部の絵里香に報せるように、セットされている。

 このような仕組みを設置するなど、絵里香にとっては朝飯前の仕事だ。

 かちゃりと微かな音がして、ドアが僕の目の前で滑らかに開いた。もちろん、絵里香がスイッチを操作して、ドアを開けたのだ。絵里香以外、この研究室を開けることは、誰にもできないようになっている。

 僕はふらふらになって、研究室に足を踏み入れた。

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