第74話 マントラ -Kazu side-

20●●年12月24日。


 アヤカの病室で寝泊まりする俺に、バイタルサインを計測にきたナースが手を合わせた。日本の合掌とは少し異なり、手のひらを密着させず中心を膨らませるのがタイのスタイルだ。この形は仏教と縁が深い「蓮花の蕾」を模している。


祈りの姿は美しい。

仏教、神道。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教。

その他、世界各地で信仰される民族宗教に至るまで例外はない。


俺はベッドの脇で彼女に語りかけるうちに、いつの間にかまどろんでいた。


     ※     ※


 二人は雪景色の駒沢公園を歩いている。


頭髪の無い尼僧。

となりで手を繋ぐのは袈裟をまとったアヤカである。


周囲を埋め尽くすランナーたち。


追い越しては追い越され現れては消えてゆく。


それは、無限の転生を繰り返す阿頼耶識あらやしき


永遠に終わらぬ六道輪廻。


迷いの世界。


だが、迷いのなかに悟りがあり、悟りのなかに迷いがある。


人は大きな悟りの世界でしっかりと迷い、どっぷりと苦しめばいい。


「やっぱり私は、皆を救うことなんて出来なかった。でもね。後悔はないよ」


「・・・・・」


「とても気分がいいの。先に往生してもいいよね?」


アヤカの口元は微動だにしない。


言葉を介さず伝わる意思。


「私はアナタの中にいるよ・・・」


「!!!」


俺は夢の中で我に返った。


そうだ!


あの時と同じだ。


ピピ島で見た不思議な幻覚。


全てが幻影であるのなら、何度だって映し出せるはずだ。


魂の映写機に願いを込めて・・・。


黄金の光へと導かれるアヤカ。


「極楽浄土で待ってる・・・」


落ち着け・・・。落ち着け・・。


落ち着いて思い出すんだ!


俺は知っている。


今こそ最強の真言を唱える時。


महावैरोचन (マハー・ヴァイローチャナ)

महावैरोचन (マハー・ヴァイローチャナ)


心に曼荼羅を描き出せ!


コスモロジーを観法せよ!


宇宙の秘密。


オン・アビラ・ウンケン

法界定印に吸い込まれる「आः」(アーク)


オン・バサラ・ダトバン

智拳印から放たれる「वं」(ヴァン)


両部曼荼羅の仏が召喚される。


二人だけの愛の呪文を!


「アヤカ!帰ろうか。始まりのバンコクヘ!」


     ※     ※


20●●年12月25日。0時03分。


深夜の日付が変わった頃に俺は覚醒した。


「ただいま。帰ってきたよ」


ふと、そんな声が聞こえたからだ。


「アヤカ・・・」


「カ・ズサ・ン・・・」


彼女は意識不明から3日目に死の淵から戻ってきた。


「結婚しよう。お嫁さんになってください!」


「・・・・・・。ハ・・イ・。ワタ・シ・デヨカ・タ・ラ・・」


天井を見上げたまま頷く彼女は、命の代償にを失っていた。

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