第73話 色即是空 -Kazu side-
20●●年12月23日。
縫合と精密検査で頭髪を剃り落とされたアヤカは菩薩のように安らかな表情だ。点滴や心電図モニターが繋がれていなければ、とても昏睡状態には見えないだろう。
銃撃の傷は迅速な応急処置の甲斐あって大事には至らなかった。
だが、問題は転倒時に負った脳挫傷だ。CTスキャンでは、血腫(出血の結果、血液が1ヵ所にたまり、凝固して腫瘤状になった状態)こそ認められなかったものの、意識が戻る保証はどこにもない。
医師からは「数日が峠」だと宣告されている。
また、救助を受けた俺とナオキも、ゆっくりと静養できる状況ではなかったのだ。
ベンさんの働きで、事件は秘密裏に処理されると決まったが、タイ法務省特別捜査局(DSI)の事情聴取に始まり、アヤカの家族やうっちーさんへの連絡などやるべき仕事は山積みだ。
「ここからはアニキの愛のパワー次第っす。閻魔様に賄賂でもおくって姐さんを連れ戻して来ましょうよ!何かあればすぐに駆けつけます!」
相棒はそう言い残し「センター長と連絡がつかなくなった」と大騒ぎのバンコクに帰っていった。
※ ※
今にもアヤカは目を覚ましそうだ。
渦巻く煩悩を一人背負った彼女は、皆を「仏の世界」へ導いてしまったのだ。
涅槃寂静。
美しい寝顔に一片の曇りもなく、かすかな笑みさえたたえている。
為す術を失った俺は無心で般若心経を唱えた。
※ ※
(偉大なる智慧の真理を自覚する肝心な教え)
(自由に真理を観る眼の開けた菩薩は、その深い英智に依って、肉体も精神も、すべて空であると達観して、一切の
(
(舎利弗よ。すべては空であるから、生ずることも無ければ、
滅することもない。
(だから空の中には、肉体も無く、感覚も想念も意欲も自我も無い。眼も無く、耳も無く、鼻も無く、舌も無く、
(盲目的本能も無ければ、盲目的本能の無くなることも無い。 また老死の苦しみも無ければ、老死の苦の尽きることも無い。 苦悩も無ければ、苦悩の因である貧愛も無い。苦悩からの救いもなければ、そのための修行も無い。 知ったというものも無ければ、得たというものも無い。本来得られるべき何ものも無いからである)
(菩薩方は、このような徹底した叡智に依って、心中何のこだわりも無い。 こだわりが無いから、恐怖も無い。恐怖が無いから、あらゆる混迷邪見な想念から救われて、永遠に静寂なる境地を得られる )
(
(だからこの偉大なる叡智こそ、最も神秘的な呪文であり、最も光輝ある呪文であり、地上最高の呪文であり、他に比類なき呪文である。この呪文が世の一切の苦難を排除することは、まさしく真実であって、一点の虚妄も無い)
(ではその偉大なる叡智の呪文を示そう)
(救われた。救われた。完全に救われた。みんな完全に救われた。ここが、お浄土だった)
※山田 無文(2003)般若心経 禅文化研究所 より現代語訳を引用
※ ※
経は死者への弔いではない。
現世を生きる我々を、苦から救う究極の叡智なのだ。
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