第26話 ホンダガールの誘惑 -Kazu side-

 ホテルに戻ると時計の針は11時を指していたが、東南アジア有数の世界都市であるホーチミンシティはこれからが本番だ。


「俺、ちょっとその辺をブラついて来ようかな。まだ眠れそうにないし」


「あんまり遅くならないようにね。私は疲れたからバスタブにでも浸かってるよ・・・」


ベトナム産のウィスキーが身体に合わなかったせいか、先程から頭痛を訴え始めたアヤカをひとり部屋に残し、俺は夜の街を歩いてみることにした。


     ※     ※

 

 コンビニで買った「333」を片手に宛もなくさまよっていると怪し気な美容室が目に留まった。おかしなことに、ガラス張りの店内からミニスカートのギャルたちが悩ましげな視線を送ってくる。


「おっ、これが噂の床屋だな・・・」


この種の店舗は一見ヘアーサロンに見えるが、別室でなサービスが提供されているそうだ。手前のフロアにはご丁寧にもの洗面台まで設えてあるため、真に受けてヘアカットなど頼もうものなら、たちまち用心棒に追い出されてしまうだろう。


 偽装床屋を冷やかしながら先へ進んでいくとサイゴン川の堤防に突き当たった。大通りを渡ればホーチミン市内を大きく蛇行する川の流れが望めるはずだ。


 ところがである。その大通りがだった。


アフリカの大地を横切るヌーの群れ。


目の前には「如何ともし難い絶望的な光景」が広がっている。


ホーチミンを訪れた経験がある方なら、決して大げさな表現ではないことがお分かりいただけるはずだ。深夜に差し掛かるこの時間帯もバイクと車の大群は一向に途切れる気配がない。


「マジかぁ・・・」


ただ立ちすくむだけのマヌケな日本人を尻目に地元民は涼しい顔で行き来している。今にも接触しそうな間隔ですれ違う様は思わず手に汗握ってしまうほど危険極まりない。チキンな俺では朝まで待っても渡れる気がしなかった。


 「道路の渡り方」については後に高橋さんが攻略法を教えてくれた。急に止まったり走ったりは厳禁で、何があっても一定のスピードさえ保っていればドライバーの方から避けてくれるそうだ。しかし、口で説明するのは簡単だが極めるまでにはかなりの慣れと度胸が必要だろう。


(道路も渡らせてくれないとは。さすがアメリカを追っ払った国だ・・・)


 こうして、やすやすとベトナムに白旗をあげた俺を、ホーチミンの街はまだ眠らせてはくれなかったのである。


     ※     ※ 


 それは、アヤカに所望されたポカリとチョコレートをぶら下げて裏道を引き返していた時だ。


ビィー!ビィー!ビィーーー!


後方から甲高いクラクションが鳴り響いた。


(なんだ??)


忌々しげに振り返った俺のすぐ脇に、二人乗りのバイクが横付けされる。


「マッサージ!マッサージ!20ダラー!!」


そう叫ぶのは、運転手のおばちゃんの後ろに跨がるケバい女だ。


(とうとう現れやがったな・・・)


何を隠そう、突然登場した彼女たちこそがホーチミン名物「ホンダガール」だったのである。


 ホンダガールとはバイクで街中を走り回る「流し」の売春婦だ。近年は全盛期に比べてすっかり数が減ったと聞くが、今もなお彼女たちは健在である。


「世界一アクティブなセックスワーカー」として世界無形文化遺産に登録すべきであろう。


話のネタに一度トライしてみたい気持ちはやまやまだが、慣れない旅行者が付いて行ってもろくな目に合わないそうだ。法外な値段をふっかけられたり、貴重品を盗まれたりと散々な被害が報告されている。


 情熱的なお誘いを丁重に断っていると、通りに一台のパトカーが入ってきた。


それに気付いたおばちゃんが慌ててカブを急発進させる。


ローギヤからリズミカルに切り替わるエンジン音。


残された排気ガスの匂い。


サイレンを鳴らしながらパトカーが追いかけていくも時すでに遅し。バイクは猛スピードで横道に消えたのだ。


「フォーー!エクセレント!!」


俺はレーサー並のコーナリングに喝采を送った。


「すっげーハングオン・・・。センタースタンドから火花飛んでたし。であそこまで攻めるかぁ?」


これだから東南アジアはやめられないのである。


白熱の展開に大満足の俺は、一刻も早く誰かに話したくてウズウズする気持ちを抑えながらアヤカが待つホテルへ急いだ。


※333(ビアバーバー)=ベトナムで「3」という数字は縁起が悪いと忌み嫌われるが、全てを足すと「9」 になる「333」は幸運をもたらすビールとして親しまれている。

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