第42話 二人の距離
あの日、駅に行かなければ。
その方がお互いに良かったのだろうか?
夏のあの日、彩未の失言とそれからその後の、翔太との荒々しい交合。彩未のそして翔太の、後悔。
翔太からのメッセージを待ったけれどそれはなかなか来なくて、彩未はおそるおそる当たり障りないと思える文面を打ち込んでみる。
『会って話せない?次はいつ会えそう?』
彩未のそんなメッセージは、既読のついたままなかなか返事が来ない。
来たのは少したってから。
『ごめん、今はしばらく無理そう』
『わかった、また連絡待ってるね』
時間的に会えないのか、気分的に会えないのか。そこを掘り下げて聞くには、この前の翔太の様子からするに大変躊躇われた。
『いつ、会える?』
打ち込んだそのメッセージは送れないままになっていた。
そうしてなかなか、連絡のないまま夏休みは終わりを終わりを告げそうになっていた。
経験値の低い彩未にはどうするべきなのか、さっぱりとわからずにいたずらに時は過ぎていった。
・*゜*・*゜*・*゜*
好きだという気持ちはこの後、もし溢れ出てしまったまま行き場をなくしてしまったら、どうなるんだろう?
はじめて二人でおしゃれをして出掛けた日。
恋人の真似事をしたデートとその時の写真たち。
お揃いの物。
繋いだ彩未の右手と翔太の左手。
はじめてのキス。
恥じらいに染めた頬。
駅の告白。
呼び捨ての名前。
何度も交わした恋人のくちづけ。
溶けたアイスクリーム。
愛しくて切ない痛み。
公園の夕闇のキス。
柑橘系の石鹸。
束の間の逢瀬たち。
それから恋人としての距離。
翔太とサッカー、彩未と吹奏楽。
朝のエレベーターの前。
駅までの、二人の時。
片方ずつのイヤホン。
彼の、彩未の大好きな笑顔...。
思い出す出来事の全てが...。
キラキラとしていてこのまま忘れようにも、深く刻まれ過ぎていて溢れてしまって、言葉にさえならない。
いつだって、会える。
そんな疑いようもなかった事なのに、すぐ近くにいるのに、どうしてもその距離を進めないのはどうして?
右なのか左なのか、前なのか後ろなのか、進む方向もわからず、ただ、ひたすら胸が痛くて、本当に痛くて、死んじゃうんじゃないかとそんな風に思った。
休みなのを良いことに、彩未はひたすらただひたすら部屋に籠った。心配されていたのは分かってた。
でも、...お願いだからそっとしておいて欲しかった。
「彩未、出てきなさい。少しだけ話を聞きなさい」
それは京香ではなくて、真人だった。
甘えにくい京香でない父には、何となく逆らい難くのろのろと部屋を出た。
ダイニングテーブルに向かい合うように座った父は、ゴホンと咳払いをひとつすると、居ずまいを正したから、彩未もまたしゃんと背筋を伸ばした。
「うん。何となくだが...彩未が何に悩んでいるのか、わかってるつもりだ」
ちらりとその、畏まった顔を見ると、見返した真人は、うん、と頷いた。
「何がわかるんだと思うだろうけどな...」
真人はさらさらとメモに文字を書いた。
そして、それを彩未の方へ向ける。
【年年歳歳花相似 歳歳年年人不同】
「年々歳歳、花は相似たり、歳歳年々人同じからず。
昔はお父さんやお母さんにも若かりし頃があった。だから彩未が何に悩んでいるのか、同じようにはわからないかも知れないが、わかるつもりだ」
「何が言いたいのか、さっぱりわからない」
そうポツリと言うと、真人の顔に汗が浮かぶ。
「この詩は毎年毎年、花は変わることなく咲く。人の世の変わりやすいのに比べ、自然は変わらないという事を言っている訳なんだ。だから、若い君たちもいつかは年をとり人の時は悠久ではないという詩なのだけどね。
お父さんが思うに、彩未たちは悩み苦しみつつ大人になって行っているときで、
去年の彩未と今年の彩未は少しずつ違って大人になっていっているという事で、そんな娘の事を父としては先人として見守りたいという事で...」
真人がとつとつと語り、何となく彩未の事を励まそうとしている。それは感じられた。
「もう!お父さんったら小難しい事を並べ立てて。あのね、何があったとしてもパパもママも彩未の味方。つまりはそれが言いたいの」
ここで、選手交替か。と、彩未は京香とそして真人を見返した。
「翔くんには多分翔くんなりの、悩みがあってそれで今はちょっぴりすれ違ってるだけかも知れないし、もしかするとそうじゃないかも知れない。でも、翔くんが何に打ち込んできたか、彩未が一番わかるんじゃないかな?」
京香の口から悩みごとの原因となっている名前をあっさりと言われて呆気に取られてしまう。
「そっか...って。ママに翔太の事話したっけ?」
「大切な娘の事ですもの」
ニコッと微笑まれて彩未は戸惑った。
「知ってたんだ」
「内緒にしてたんだもんね?ずっと」
京香の言葉に彩未は白旗を上げて頷いた。
「あのね翔くん。今荒れてるみたいなの」
「翔太が?」
翔太ママにでも聞いたのだろうか
「親しいお友達が、プロにスカウトされたらしいの。それで足に怪我も、軽いみたいだけどしちゃって。試合にも出られなくって。で、いきなり国立大受けるって言い出したみたい」
プロになることは翔太が目指していたそのものだ。
親しい友達が夢を叶えたとすればそれはさぞかし複雑なのだろうと彩未にも想像は出来た。それに、頭に続いて足にもまた怪我をしたなんて。
「翔太が...」
この間会ったときも、そんな事を彩未には一つも言わなかった。
思い返せば翔太は、ずっと彩未の前で背伸びをしていたのかも知れなくて、自分の至らなさが悔やまれる。
どうして、気づかなかったかな...。
「まぁ、男は好きな女性にはみっともない所は見せなくないもので少しばかり長い目で待ってみたらどうかな?」
真人はコホンと咳払いをした。
「うん...」
彼にとって今はとても辛い時期に違いなく、だからこそ頼って欲しいけれど、それを彩未に見せたくないというならば、その気持ちを尊重するべきなのかも知れない。
「私、邪魔だったかな...」
翔太がプロを目指していた事は知っていた。忙しさを分かっていたから、理解しているつもりだったけど、そんな彼の貴重な時間を彩未に費やさせてしまったかな...。
「ママはそれは無いと思ってる。だって、彩未とのつきあい方を決めたのは彩未だけじゃなくて翔くんもなのだから。彩未は翔くんとの事、邪魔だった?」
「ううん」
むしろ、励まされる事の方が多かった。
「彩未、上手くいかなくて泣いたって良いけど。その次は笑ってくれると嬉しいな」
「うん。ママ」
ふんわりと抱き締められると、小さな子供の頃のようになんだか安心できた。
「でも、なんで知ってたの?」
「だって、二人で手を繋いで駅まで歩いたりしてたでしょ?ママ友情報で回ってきたの。この辺で同じ制服の男の子なんて翔くんくらいでしょ?」
「ママ友かぁ~」
「朝、ベランダで洗濯してたら道が見えるでしょ?」
「あ」
「彩未は知らない人でも、意外とどこそこのお嬢さんっていうのは知ってるものなの」
ニコッと京香が笑った。
「ママは、それ聞いてなんて思った?」
「んー。高校生だし、翔くんはいい子だし、それに他の事、勉強もクラブも、きちんと頑張ってたしいいつきあい方をしてるのねって思ってた」
「そっかぁ...」
なんだ。知ってたのか少し、拍子抜けしてしまった。
ほんの少し、胸の痛みは和らいでいた。
それは、両親と話して翔太の気持ちの整理がつくまで、もう少し待ってみようとそう思えたからだった。
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