第32話 夏の夕やみ
去年と同じように、合宿所に来た吹奏楽部は、サッカー部と同じ宿舎を使っている。
言葉を交わすことはなくても、同じ空間で元気な姿を見られるというのはなんだか心強い。しかし、この若い男女がいるというのに、吹奏楽部のほとんどの女の子の方はご飯と休憩以外の時間はひたすらひたすら、そしてただひたすら!
演奏、そしてマーチングそして、ダンス。そのひとつひとつを確かめていっているのだ。
サッカー部の利用していない時間は通し練習だ。
「あーー、もぅ。じ...」
と和奏がいいかけて止めた。“地獄”それは口にすると本当に恐ろしくなりそうなので止めたのだろう。
「あれ?喧嘩?」
サッカー部がグランドから上がってくるのを待っていると、怒鳴り声のようなものが聞こえてきた。
思わずみんなが目をやった先のコートサイドでは、何人かのサッカー部員たちが固まっていた。
「...やんのかぁ!」
遠目にも胸ぐらを掴み合った一触即発の空気がある。
「ちんたらやってんじゃねぇ!」
そう後に怒鳴ったのは昂牙だと思った。
「昂牙!止めろ」
「止めんな、翔太!」
結局昂牙は翔太以外にも羽交い締めにされて、その隙に3年生たちは立ち去った。
「お前も、向こうかよ!」
「違う」
翔太は答えているが、怒りが収まらないらしい昂牙は翔太を乱暴に突き飛ばした。
心配になったけれど、彩未たちは奈雪先輩のホイッスルの音がしたから急いで位置につかなければならなかった。
日が長いとはいえ、傾きだした陽はあっという間に暗くなっていく。通しが始まるが...。
「ラインー」
...揃ってない。
「音ー」
...ばらばら。
「もいっかーい」
...全然ダメ!
奈雪先輩の容赦のない指示は、何度も何度も響き渡った。
ほのかな明かりの中で、彩未たちは演技の練習を続けていたし、どうやら罰を与えられたらしいサッカー部の1年生は外周をランニングしていた。
ヘトヘトになる頃に、宿舎に戻った彩未たちは大浴場で汗を流して、そしてペコペコのお腹を満たしに食堂に行った。
彩未たち吹奏楽部ははそれでも明るく元気に食べていたけれど、一悶着あったサッカーにはピリピリとした空気が流れている。
上級生が去った後は1年生たちが食器を片付けている。
この辺は男だからか、運動部という性質だからか吹奏楽部とは違った。
片付けの終わった翔太と、そして昂牙はなにやら剣呑な空気だ。
彩未はたまたま、後片付けをしに近くにいたのでその会話が聞こえてしまった。
「昂牙、お前が間違ってるとは思ってない。けどサッカーは一人じゃ出来ないだろ」
「だからだろ。同じ気持ちでなきゃ勝てるかお前もクールぶってないで熱くなれよ」
「お前の方は、熱くなりすぎて周りが見えてないんじゃないか?」
長身の、その背の同じくらいの男同士が睨みあっているとそれだけで迫力がある。
「勝ちたいと思ってるのは、みんな同じだろ」
翔太の、静かな声が聞こえた。
「お前は、理屈ばっかだな」
翔太の静かな言葉に、昂牙もすこしトーンが落ち着いたように聞こえた。けれど、昂牙は翔太を睨み付けている。
「昂牙、お前はもっと上手く操れ。ゲームと同じ、ボールが来なきゃゴールは決められない」
「さすが...いつもクールな翔太だな。うん、お前の言うことも、わかるけどさ。一緒にやる以上は、ちんたらされたらホントに腹立つ。
翔太...一発殴らせろ。それで、今回はお前の言うこと聞いてやるよ」
言葉と共に鈍い音がして翔太の腹部に拳が入ったのだと、彩未には分かって近くにいた吹奏楽部のみんなも、ぴくっとさせた。
昂牙は、そのまま苛立ちを隠さず足音を大きくたてて、食堂を出ていった。
「あの子だよね、昂牙って...」
昂牙が去った後、ヒソヒソと噂がはじまる。
「大丈夫かな...」
心配そうな囁きが耳に到達する。
衝撃の後、翔太はよろめいたけど、すぐにそのまま歩いて食堂を出ていった。
「彩未、どこ行くの?」
「ちょっと、トイレ」
「ごはんの後は歩幅チェックやるってゆってたから早くね」
「うん」
彩未はトイレに行くふりをして、翔太を追いかけた。
廊下から見えた翔太は、どうやら昂牙のいる部屋でなく外に向かったようだ。
彩未もまた宿舎の外に出て、翔太の姿を探した。
夕闇の中、外壁にもたれ掛かるように翔太は、いた。
「翔太」
「...彩未」
彩未は外壁にもたれ掛かってる翔太の前に立つと、その両頬に手をあてた。
「大丈夫?」
「カッコ悪い、とこ見られた」
憮然と、顔を背けて翔太はそう呟く。
「カッコ悪い事なんてないよ。
それだけ、真剣なんだって分かってるから、カッコ良かったよ?」
翔太の長い腕が、彩未の腰を引き寄せた。
「少しだけ」
彩未の肩に、翔太の頭がそっと重さを伝えてくる。
ぎゅっと、その背に腕を回せばいつもの翔太の柑橘系の香りとそして夏を迎えて一回り逞しくなったその体躯に気づいた。
「翔太...好きだよ」
その声に反応して顔を上げた翔太が、切なげな笑みを見せるとどちらともなく唇が重なった。
この瞬間、もし誰かに見つかったら...、そんな事はどうでも良いことに思えた。温かい、熱の...。
静かで、それでいて熱い情熱が出口を探して暴れているようで、彩未に向けられたそれは、若さゆえのたぎりをぶつけるような、八つ当たりのような本気のキスで。
「彩未」
名を呼ばれ気がつけば、いつの間にか彼の声はテノールボイスのそんな男の声だった。
夏の、闇の中にうるさいほど聞こえていた虫の声が...一瞬静まった。
「もう、行って。これだけじゃ終わらなくなる」
クスッと笑うといつもの翔太の笑顔で
「俺はもうちょっと頭を冷やしてから戻る」
「わかった」
立ち去ろうとして数歩離れた彩未はくるりと振り向いて
「翔太、nice fight!」
そう言うとぷっと、彼は吹き出した。
「彩未、good job!」
ゆらりと壁に預けていた背を起こせば、建物から漏れる明かりで照らされ、濃い影を作っていた。
(影が...)
翔太を隠してしまわないで
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