第49話 虚無に蟠る

 金碧ラピスラズリの塔、その跡地まであと……どのくらいだろう。


 もうわからない。


 灰の毒が濃すぎて、防毒マスクをつけていてもうっすらと気化した毒が呼吸に混じってくる。死にはしないが、頭の働きは鈍くなる一方だ。


「リリウム、大丈夫かリリウム?」


 純粋馬車の客車にいる彼女に声をかけ、無事を確かめた。


「うん……大丈夫。イリエ、あなたのほうこそ」


「俺はまだどうとでもなるよ」


 道中で現れたグレイ=グー『クレイマンサー』の無限に生み出される泥人形の手から逃れるため、リリウムはかなり巨大な追儺魔法を行うしかなかった。純粋馬車を安全な距離にまで逃す頃には、大魔法の連発でリリウムの精神的疲労は深刻になってしまった。


 予備の秘石を山ほど持ってきているが、うまく力を引き出さなくなってきているらしい。


 それについては一番大きい可能性がすぐに思い浮かぶが、そのことを受け入れるわけには行かなかった。


 まだ魔法は使える。弱まって見えるのはリリウムのコンディションからで、それ以外の理由はない……。


 しかし事実として魔法は弱まっている。


 次にグレイ=グーに襲われたとして、どう対処すればいいんだ?


 百の手でなんとかするしかない、俺が何とかするしかない。俺には百の手以外、何の力も持っていないんだ。


     *


 純粋馬車は魔法の力の結晶でできていて、壊すことはできない。


 正確には、壊しても元の姿に戻る。馬車というものに対して人間が抱くイメージが形になったものだからだ。


 だから純粋馬車は壊せない。


 ただしそれを操る御者や車内の人間はそうは行かない。車体が倒れれば俺は放り出されるし中のリリウムは激しく揺られてけがをする。


 出発してから何日経過したのかわからない地点、どこかの死にきった森のなかで俺たちはグレイ=グーに襲われた。


 フィーンド化した混凝術士ベトンキャスターの成れの果て7人組で構成されるグレイ=グー『祭壇の七人』はひとりを殺すとひとりが生まれ、一度に全員を殺さない限り活動が止まらない。


 純粋馬車の側面からいきなり生コンクリート弾をぶち当てられるなんていくら警戒していても逃げるのは無理だ。


 横転した純粋馬車を一度クリスタルの中に戻し、俺は時間を稼ぐために百の手をグレイ=グーに向けて放った。


     *


 見境のない殺人人形なのに、百の手は健気だ。


 半壊しながらも俺とリリウムが脱走する時間を稼いでくれた。チャールズ・アシュフォードに感謝しないといけないな。


 だが状況は本当にジリ貧だった。


 御者台から転落した俺は肩を痛め、軟膏タイプの霊薬を塗りこんでいるが痛みが消えない。たぶん何ヶ所かで骨にヒビが入っている。


 車内で思いっきりシェイクされたリリウムも、頭を強く打って出血していた。


 疲労と、痛みと、恐怖とで、もう心身共に限界だった。


 これ以上先に進む意味はあるのか?


 目的地に辿り着いたとして、目的の聖アレクシーヌの光典は実在するのか? 


 本当にそれで人類が救えるのか?


 救えるとして、その方法で滅亡までに間に合うのか?


 全ての疑問を押し殺して俺は純粋馬車を走らせた。


 唇の端が切れている。マスクの中は血の味がした。


     *


 それから二日ほど経って、浄水装置が壊れて使えなくなった。


 馬車が横転した時に何かとぶつかったんだろう。携帯用濾過ポットでどこまでまともな飲水を作れるのかわからない。


 それでも喉は渇く。


 比較的毒の薄そうな川の水を汲んで、何度も濾過して、コップ半分ほどの一応飲める濾過水ができた。


 小便を飲むよりはマシだ。


     *


 食料が……くそっ、いつの間に灰が紛れ込んだんだ!?


 保存食の表面に灰色の斑点が吹き出していた。灰と結びついたカビという最低の汚染が、残された食料の大半に及んでいた。


 あと何日分……少なくとも一週間分はあったはずだ。どうすればいい。たとえ今から引き返しても量が足りない。目的地にたどり着くことを優先させれば確実に帰りの食料はゼロになる。

 

 水も食料も限界か。


 あとは防毒マスクが使えなくなるだろう。道中は灰の毒が濃すぎる。交換用のフィルターはあと何枚あっただろう。多くはない。


 本当に行くのか……?


 これ以上、本当に進むのか?


 濁った色の雨が降ってきた。


 マスクのバイザーに貼り付いて、黒い筋が流れた。


 俺はしばらく鉛色の空を見上げ、黒い涙の中に身を委ねた。


 そろそろ限界だ。


     *


 空腹を抑えるためにリリウムが代用食料を作ってくれた。


 秘石を材料に生み出されるそれはカロリーと食感しか再現できないスナック菓子みたいなものだけど腹は膨れる。それだけで十分だ。


「たぶんあともう少しだと思う」


 光巻物ルミナススクロールから立ち上るノイズ混じりの立体地図を見ながら俺は言った。防毒テントの中でふたりともうつろな目をしている。


「とにかく……とにかく、そうだな、どうすればいいのか……」


 睡眠不足のせいで頭が回っていない。何か方針を示さないといけない。でもいいアイデアなんて思い浮かばなかった。いいアイデアなんてものはそもそもないのかもしれない。


「聖アレクシーヌの墳墓……」


「ん?」


「光典が眠っているのは聖アレクシーヌのお墓でしょ? その中は灰の影響を受けないから、そこで休みましょう。後のことはその時考える」


「……そうだな。リリウムの言うとおりだ」


 きっぱりと言い切る態度はやっぱり姉に似ている。俺がそう言うと、リリウムはふっと力が抜けて眠りに落ちた。


 俺は彼女に毛布をかけてやり、さっきの言葉を頭のなかで繰り返した。


 リリウムは光典が存在することを前提としていた。


 それが怖かった。そんな話ではなかったはずだ。あるかどうかもわからない、本当に聖アレクシーヌと関係があるのかさえ確証のない、そういう道のりのはずだ。


 俺はぼんやりと、何が待っていてもショックを受けないよう先行して絶望しておくことにした。


 絶望に心を慣らしておけ。俺達は、そもそも目的地まで届かないかもしれないんだ。


 十分に繰り返して、心が次第にゆるい麻痺を起こした。


 そして本当の絶望が背筋に居座った。


 どれだけ心を慣らしても、それより最悪の事態が待っているのなら何の意味もない。そしてそんな事態は――おそらく当たり前のように起こるのだろう。


 虚無が来た。


 それが来る・・と、俺は強く諦めないといけない。諦めることを諦めないといけない。


 それだけやっても虚無からは逃げられない。


 諦めても、諦めても、諦めても、俺の心には虚無が住んでいる。俺の3年間は『そういうもの』だった。


 ――ああ、そういうことか。


 俺は唐突に悟った。


 グレイ=グーは、灰の中からやってくるこの世界の、人類全部の虚無なんだ。


 だから誰も逃げられない。勝ち目もない。殺すことは不可能だ。


 そこまで考えて、俺は気を失うように眠った。


 無意識にリリウムの手を握っていた。


     *


 灰が積もっていない。


「リリウム、なあ、ここが聖女様の墓なのか? そうなんだろう?」


 ささやかな秋の花が円形の清らかな土の上に咲いていた。季節はいつの間にか第三乾季に入っていたらしい。


 鉛色の灰曇りからの日は薄暗く、風は乾き、見渡すかぎりの灰の海に畝を刻んでいる。灰色の砂漠だ。


 純粋馬車を降り、俺は背中におぶったリリウムをその場所へ運んだ。


 魔法のことはわからない俺でも、その『聖地』が他の場所とは違うことがはっきり感じられた。暖かく、心地いい。灰の降らない屋内でベッドにくるまっているような安らぎを感じた。


 俺はほとんどためらいなく防毒マスクを外し、短く呼吸した。こんなに甘い空気を吸ったのはこっちの世界に来てからは初めてだ。


 毒は混じっていない。


 聖人の遺体が放つ半永久的な浄化魔法の力だろうか? 詳しく分析することは俺には無理だ。


「リリウム、大丈夫か? ちゃんと聞こえてるか?」


 背中のリリウムをそっと清らかな地面の上に下ろし、彼女の顔色を確かめた。


 疲労、そして魔法の連続使用で明らかに弱っている。これまでグレイ=グーから逃げ延びるため何度か無理をした。その時の怪我でいくつかアザができていて、ひどく治りが遅い。これは俺自身もそうだ。ほぼ間違いなく、灰の毒がゆっくりと身体を冒しているせいだろう。


 半分眠ったように意識が薄いリリウムを横にさせ、俺自身もあぐらをかいた。


 空気がきれいなのは、この場所に大きな力が眠っている証拠だろう。少なくとも、まったくの空振りではなかった。それだけでも救いになった。


 でも、そこからどうすればいいんだ?


 確かに聖なる土地だが、墳墓という感じはしない。地下に空間が作られているとしてもどこから降りればいいのか、見ただけではわからなかった。


 まあ、見ただけでわかるようなら2000年以上隠されたままあり続けたわけがないか。


 だからとにかくリリウムに意識をしっかり持ってもらって、魔法で探すしかない。それしかもう思いつかない。俺の力では無理なんだ。もう百の手も半壊してまともに動かないし、純粋馬車を操れたとしても、それだけだ。俺にはそれだけしかできない。


「頼むよりリリウム、早く目を覚ましてくれよ……」


 貴重な水を飲ませても、微熱が続く体に霊薬を使っても、うまく働かない。


 想像はつく。でも何も気づいていないふりをした。認めたら膝から崩れ落ちる。


「魔法で……開けられるシンボルがどこかにあるはず。それを見つけて……」


 リリウムが仰向けのままぼんやり言った。本当にリリウムの声なのか、何か神がかり状態になって彼女以外の誰かがしゃべっているのか、区別がつかなかった。

 

 シンボル。


 俺はマスクを付け直し、聖なる土地の内側も外側もくまなく見た。でも見当がつかない。


 盗掘を防ぐ目的で、しかも2000年間手付かずで守りきられた仕掛けをだとしよう。


 それはきっと、過労で今にも倒れそうな俺が見つけられるような簡単なものではないはずだ。


 一体どこに……?


 と、灰の中でいきなり足を取られて無様に転倒した。比喩でなく全身が灰に沈み、マスクの隙間や灰合羽の袖に毒の灰が紛れ込んでくる。汗で毒の成分が溶け出し皮膚からじわっと染みこんでくるのがわかった。


 どこを、なにを探せばいい? 何のために? 俺はこんなところで何をして……。


 一瞬の迷いは、もっと恐ろしい物に打ち破られた。


 見渡すかぎりの灰の荒野に、無数の花が咲いていた。


 灰色で、人間の指を花びらにした花だ。さっき俺の足に絡まったのもその灰で出来た花だ。


『彼岸花』は俺の身体を掴み、ころばし、引きずっていく。グレイ=グーだ、この聖地の周囲一帯全てがグレイ=グーの園だったんだ。


 俺は悲鳴を上げ、リリウムに逃げるよう叫んだ。逃げる? どこへ?


 俺は灰合羽を彼岸花に引きちぎられ、マスクに指をかけられた。


 ――死ぬ!!


 こんな灰だらけの場所で防毒マスクを剥ぎ取られたら人間は生きていられない……!


「百の手! ちくしょう、誰でもいい! なんとかしてくれ!」


 俺の叫びが、灰一色の無言の大地に響き渡った。

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