第36話 魔法の神、神の愛
あと3、4日で護法軍大本営のある極光都市ニューステージに着く所まで馬車は進んだ。
グレイ=グーはあの両面犬以来姿を見せず、灰賊やフィーンドのたぐいも襲ってきたりはしなかった。
グレイ=グーの一件さえなければ、長距離の移動に関わらず比較的安全な旅だった。もちろん、常に付きまとう毒の灰のことを考慮しなければの話だが。
いい加減、長旅の疲れが出ている。毎日毎日御者台で揺られすぎて、立ち止まっても地面が揺れて見えるくらいだ。
ルシウムも、口にだすことはないもののやはりこたえているようだった。
おまけにこの二日ほどは、部下だった男と馬車の中でつきっきりだ。
間に合わせの
ラルコという人間の背負っていたすべてのものが抜けてなくなった死体は、命の喪失という事実を無言のまま延々と主張し続ける。
ああ、そういうことか。
だから人間は死体を隠そうとして埋めたり荼毘に付したりして、葬る。衛生上の問題ももちろんあるだろう。でも本当の理由は、そんなものがずっとそばにあったら耐えられないからじゃないか?
いきなり運命の糸をちょん切られたみたいなラルコの死。
ラルコの体は死んだままの状態で、死んだまま運ばれている。
終わった命が終わったまま、終わり続けている。
こういうのは、やっぱりよくない。
タフさとプライドの高さで道中を走りきった陸王サイのチャンプは、彼なりの方法で文句は言ってくるがギブアップしようとはしない。
でも俺の目から見て、馬体重がかなり落ちているのがはっきりわかる。
みんな疲れている。
この世界の誰もが疲れているのと同じように。
*
「イリエ、少しいいか?」
荷台の小窓からルシウムの声がした。
「聞きたいことがある。印象で構わないのだが、以前と比べて灰賊の略奪行為は増えたと思うか?」
「灰賊? そうですね……」
少し難しい質問だった。
いままで俺が仕事をしていた主な運送ルートは魔法の塔と麓の街の往復で、そこから外れたことはそれほど多くない。
魔法の塔周辺は護法軍の駐留する世界で一番安全な場所だから、そもそも灰賊が出てくる事自体めったにないのだ。
めったにないというのは、たまに出てくることもあるということだ。
最後の魔法の塔に運び込まれるのは必然的に重要物資であり、リスクを無視して襲い掛かってくる灰賊もいることはいる。
運び屋同士のうわさ話も含めて俺なりに整理すると、灰賊は全体数が減っているのではないか、ということになる。
理由は簡単。人類の総人口がずっと下がり続けているからだ。人口の1%が灰賊か灰賊予備軍だとして、100人が50人に減ればそれにつれて当然灰賊も減る。
その状況でもし灰賊が増えているとするなら、人口減少率に反比例するように灰賊の割合が増えているということになる。果たしてそんなことがあり得るだろうか?
「おおむね私も同じ意見だ。灰賊とは単なる犯罪者ではない。毒の灰の中に潜んで人間社会に牙を剥くという、狂気に基づく裏切り行為だ。そもそも灰とともに寝起きするなどありえない。自殺行為だ。いくら世の中がジリ貧だからといって、そんな人間が増えるというのは考えにくい」
ルシウムの言うことは灰賊についての基礎知識をなぞるものだった。
灰賊は頭が狂っている。完全な狂気に染まるか、毒の灰のせいで死ぬか、フィーンドになるか。それとも護法軍に狩られるか。
そういう末路を迎える以外ない。もう人間とは別の生き物だと言っていいかもしれない。
そんな生き方を、どれだけ社会が厳しい状態になったからといって選ぶ人間が増えるわけがないとうことだ。
「だがクリュミエリを襲ったのは300人の狂える灰賊たちだ。300人。彼らはいったいどこから集められたんだろうか」
また聞かれても困る話をしてきた。
塔の麓の街――クリュミエリに大規模な襲撃を掛けたのが300人の狂人兵団で、最後のひとりになるまで熱狂状態で破壊と殺戮を続けたというのは知っている。その裏にグレイ=グーの存在があることも、今ではもう疑いようがない。
どうやったらそんなことができるのかは知らないけど、この世界には魔法があるのだから、グレイ=グーが魔法を使って300人に募集をかけても驚くには値しないはずだ。
「そうだな。魔法なら可能。確かにそうだ。そうなんだが……」
「何なんスか?」
「ん? ああ、すまない。彼らの……グレイ=グーが魔法を使えるとして、その
「それは秘石とか魔法の塔とか、そういうことスか」
地球人なので、俺は魔法のことわりを完全に理解することできない。できるのかもしれないけど、それこそ幼稚園からやり直すくらいの根気が必要だと思う。そんな根気はない。
だから俺がわかっているのは、神様が大地にまいた秘石という神の宝石が魔法には必要で、さらにその力を制御したり増幅したりするのが魔法の塔で、塔が失われたらもうまともに魔法は使えなくなるってことぐらいだ。
「そういうことだ。彼らが……グレイ=グーがもし我々と同じように魔法を使えるのなら、魔法の塔を利用しているのだとしたら?」
「それじゃタダ乗りだ」
俺がそのとき思い浮かべたのは携帯電話とか無線LANのタダ乗りのことだった。魔法の塔を電波塔に見立てればわかってもらえると思う。電波が送受信できなければ通話もネットも出来ないように、魔法は使えない。
「魔法とは神の愛だ。神の愛の結晶が秘石で、秘石から魔法は生まれ、魔法の塔がそれを行き渡らせる。もしや、グレイ=グーは神の愛を盗んでいるのではないか」
それきり、ルシウムは黙りこんでしまった。
俺はなんとも居心地の悪い気分になって、何度も物理的に座り直した。
神の愛が盗まれる。
その言葉の意味を、俺には正確に理解することができない。
神の愛と聞けば宗教的なイメージが湧く。でもこの世界は魔法が実在している。その魔法が文明を築いてきた。神聖だけどもっと現実的なもので、つまり……。
何をいいたいのかわからなくなってしまった。
とにかく、この世界の神と元いた世界の神とでは根本的な違いがある、ということだ。
何が違う?
魔法の実在とはまた別の何かが違っている気がするんだけど、結局その答えは出せなかった。
*
(暗転)
*
何が……。
何がなんだかわからない。
自分がどこにいるのか、何が起こったのか……体が動かない。視界がぼやけて……。
ごくわずかの間、俺は失神していたらしい。
ここは地面の上、それも舗装された街道の路面で、背中からそこに投げ出され強く打ち付けられた。投げ出されて……そうだ。
いきなり馬車の横っ腹に何かがぶつかって、俺は御者台から吹っ飛んだんだ。
何でそんなことになった? 何がぶつかった?
記憶が無い。というより、本当にいきなりのことで、何も見えていなかった。
死角からいきなり、大きな何かがドン、って激突した感じしかわからない。
追突事故? でも街道は一本道で、両脇はほとんどが立ち枯れの森や灰の丘ばかり。死角と呼べるほどのものはない。横合いから追突してくるといっても、馬車同士の衝突なら先に音で気づく。
「ううっ……」
痺れる体を無理やり動かし、俺は周りの様子を確かめて、力が抜けてまた倒れた。
どういうことだ、これは。
馬車は横転していた。
前の車軸がへし折れ、左の前輪が全然別のところにすっ飛んでいた。冗談みたいに、その場に縦に立ったまま静止している。
頑丈なはずの車体は大きく歪んでいた。
天を仰いでいる左側には、明らかに何かがぶつかった凹みができて、防毒用の霊薬塗料がひび割れてボロボロに剥がれている。
チャンプは? チャンプは無事なようだ。でも頸木につながったまま馬車に巻き込まれ、もがいても立ち上がることができない。怒りの唸り声を漏らしているのは、ひどい目にあったこと以上に、自力で障害物を押しのけられないことに対するものだろう。
――おい、何を寝てやがる。早く俺様を自由にしろ。
体が痺れたままの俺の耳にはそんなふうに聞こえた。
「そ……んなこと言ったって、俺だって……」
――そうじゃねえ、早く動かないと『あいつら』が来るぞ。
「……あいつら?」
不思議なことにほとんど直に会話しているのと変わらないコミュニケーションが取れていたけどそんなことはどうでもいい。
チャンプは、明らかに『敵』への警戒を抱いていた。
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