第34話 彼らは虫のように路傍で
疲労が、溜まっている。
気を抜くと御者台から滑り落ちてしまうくらい眠い。
丸2日半、ほとんど休みなし。ぶっ通しで馬車を走らせ続けている。
いつもの運び屋としての仕事なら、居眠りしたところで最悪自分が死ぬだけで終わるが、今回は荷台に貴重な
契約書の効力に縛られているということももちろんあるけど、運び屋としての最低限の誠意を捨てるのは気が進まなかった。この世界での3年間をそのまま放り投げるのと変わらない。
まあ、俺の義務感はどうでもいい。
俺たちは両面犬に壊滅させられた宿場町から逃げて、でもどこまで逃げれば追ってこないのか見当がつかなくて、結局逃げ続けることを選んだ。
灰はどこにでもある。
雨で洗い流されて、泥と混じって生コンクリートみたいになって地面を覆っているとしても灰は灰だ。両面犬が灰を通じてどこにでも出現できるのなら、いまこの瞬間に道端から生えてきても不思議じゃない。
安全な場所に着くまでは移動するしかなかった。
矛盾した話だと思う。
安全な場所なんてどこにあるんだ?
*
はっと気がつくと景色が変わっていた。
死んだ川の臭いがマスクを通して鼻をかすめる。どうやら橋の手前で馬車が停止しているようだ。頸木に繋がれた陸王サイが煩わしげに後ろ足を踏み鳴らしている。
眠気がピークに達して意識を失っていたらしい。
馬車を停めたのはチャンプの判断だろうか? いくらタフでも、ほとんど飯抜きで走らされているのだからこいつも疲れているだろう。なんとかしてやりたいが次の宿場に着くまではどうすることもできない。わかるだろう? 毒の混じった道端の草や水を勝手に口にさせる訳にはいかない。
そこに、ラルコが声をかけてきた。
「イリエさん、少し休憩しよう。僕らだけ楽していたら申し訳がないよ」
簡易防毒テントの中には浄化水と代用チョコレートバーが用意されていた。マスクを外して深呼吸してからそれらを口に入れると、誇張抜きに生き返ったみたいに感じた。
毒の灰をかぶりながら野外を移動していると、何かがじわじわと体の中に入り込んでくる。有害物質とかストレスとか、そういうものとは別の何かだ。灰の中に地獄の粉末が含まれていて、魂がちょっとずつ地獄に堕ちているのかもしれない。
やや死んでいる俺にとってまともな空気と食料は落差が大きくて、ある種の感動みたいなものがあるのだ。
「この距離だ。あと半日で着けるか、イリエ?」
「大丈夫……だと思います。まあ、チャンプの体力次第ですけど」
「厳しいデビュー戦になってしまったな」
「多少無理させることになることになってもしょうがないっスよ。あいつは意地でも走り続けるだろうし」
「そうだな。君にも無理をしてもらうことになるが、腹を決めてくれ。悪いが他に手がない」
手がない、か。
俺は軽く首をすくめて曖昧に肯定した。
確かに手はない。
馬車に随伴していたウロコ馬は、両面犬から逃げる時に回収できず生き別れになってしまった。ラルコが負傷していて騎乗できず、置いていくしかなかった。その後どうなったかは考えないようにする。
移動手段はもう馬車しかない。屋根付きの荷台にルシウムたちを載せて、俺が何とかして次の町までたどり着かせる。それしか手はない。
考えてもしようのないことだ。
短い休憩だったが少なくとも精神的には楽になった。
護法軍用の覚醒霊薬は断った。
かわりにチャンプが口に入れても平気な代用食料と濾過水を可能な限り分けてもらった。
量に対する不満をあからさまに示すチャンプだが備蓄を使い切るわけにはいかない。分厚い皮膚を軽く叩き、我慢しろとなだめてから俺は御者台に上がった。
一瞬、不安がよぎった。次の宿場町にたどり着きさえすればなんとかなる。でも、本当にそれで大丈夫なのか?
次の町もすでに壊滅しているんじゃないのか?
いま考えても仕方がないことだ。
そう自分に言い聞かせたが、俺は結局不安を引きずったままチャンプに前進を促した。
*
道中、黒い涙に打たれたらしき灰賊の死体が街道の脇に転がっていた。
死体のそばには、同じく灰賊だったと思われるフィーンドがひっくり返っていた。
足跡や血の流れ方から見るに、お互いに殺しあった結果のようだ。
頭の狂った灰賊たちにも仲間同士で殺しあうことには躊躇するのだろうか?
何の答えも思いつかないまま、馬車は死体の横を通り過ぎた。
*
数時間後、目的の宿場町に辿り着き、まだ何も起こっていない様子に安堵した。
宿をとってチャンプの世話をしたあとは、記憶が飛ぶほど眠った。
翌朝一番に馬屋に行くと、チャンプの周りを遠巻きに数人が見物していた。
陸王サイ自体が物珍しいし、それを荷駄として調教してあるのはおそらく初めて見る光景なのだろう。
チャンプは煩わしそうにしながらも、自分が特別な存在と思われることにまんざらでもない様子に見えた。
*
また数日の移動が続いた。
この頃になると世界各地の惨劇と、それを裏で引き起こしているグレイ=グーの存在がうわさとして流れてくるようになっていた。
いくつかの断片的な情報から、具現化したグレイ=グーは種類や個性といったものを備えていて、そのどれもが不死か、それに近い異常な生命力を持つ怪物であるらしいことがわかった。
ルシウムたちも俺もそれを自分の目で見ている。両面犬が殺せなかったのは疑いようのない事実だ。
そしてそんな怪物が前触れもなく、残された人類の生存可能領域を破滅に追い込んでいる。
「グレイ=グーってのは、軍の見解じゃあフィーンドの変化したものってなってますが、それで民間人は納得しますかね?」
ラルコがある意味当然の質問を口にした。顔の長い声の大きい護法軍士官は、両面犬に襲われた時の怪我の調子が良くないらしく、顔色が悪く声のトーンも低い。
「公式見解としてはそうしておくしかないだろう。フィーンドの親玉で手強い敵。そのことに間違いはない。不死の存在などと聞かせてこれ以上人心を寒からしめたいか?」
ルシウムは、額に手を当てて深い溜息をついた。彼女のそうした仕草は、そろそろひと月ほどになる付き合いの内でも初めて目にするものだった。俺なんかよりもはるかにたくましい女軍人でも、気が滅入ることくらいあるだろう。
俺は正直なところ、自分が当事者であるという意識が希薄だった。
あのグレイ=グーの、両面犬の、何をやっても殺せそうにない体の構造を間近に見たというのに、戦うのは護法軍であって自分が矢面に立つなんて考えもしなかった。
同じような絶望的な怪物が世界各地で目撃され、人間が生存を許されなくなりつつあると聞かされても、どこか他人事のようだ。
何かまだ手はあるのだろう。そうも思っていた。
この世界には魔法が存在していて、その力は日に日に衰えているという。でも防毒マスクや防毒隔壁みたいな必需品や設備はまだ健在だし、最後の魔法の塔も大坑道も、襲撃されて被害が大きかったとはいえ結局撃退はできている。
加えて、馬車の目的地は護法軍の大本営だ。
運がいい、と考えていいのかどうかわからないけど、俺はこの世界に飛ばされてからの年月をこの世で一番安全な塔のお膝元で過ごしてきて、グレイ=グーというこれまでに見たこともなかった人類の敵が現れたタイミングで護法軍の本拠地に行こうとしている。
大本営ということは当然十分な防衛策が取られているだろう。そこにたどり着きさえすれば、少なくともいきなり襲われて死ぬしか無い状況に陥るということはないはずだ。
俺はぼんやりと自分の身の振り方をどうするかを考えていた。
最後の魔法の塔までは距離がある。荷物を全部捨てて陸王サイの脚力に任せれば、帰るだけなら問題ないが、壊滅した宿場町やグレイ=グーの脅威のことを考えると、大本営で護法軍に守られたまま生活することも視野に入れておくべきだろう。
チャンプを荷駄に調教した実績もあるし、ルシウムに調教師として推してもらえば問題ないはずだ。
なし崩し的に護法軍の一員に加わることも覚悟しておく。
だからこそ、非戦闘員としての保証があるポジションが必要だ……。
自分の保身しか頭にないのかよって思われるかもしれないが俺には最初からそれだけしかない。他のものはもう手に入らないと早めに気づいたから何とか生きてこれた。よそにいるよりは安全にすごせて、多少余裕のある生活が手に入ればそれでいい。
この世界で、この時代に、価値が有るのは安全だけだ。富や権力なんて無意味だ。毎晩しぼみ続ける世界で成功者になって何ができる?
どこにいたって、灰を吸ったら人は死ぬんだ。
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