第11話 後嗣なき遺産は静脈瘤の如く
薄汚い街並みだ。いや、『薄い』を付ける必要はない。
旧アベリー市には人間が集まりすぎている。
この世界に来てからというもの、これほど多くの群衆は見たことがなかった。あちこちに飛び交う話し声をうるさく感じるのも初めてだ。日本の大都市の繁華街をぎゅっと絞って、その半分以上をホームレスに置き換えたような光景。そんな息苦しさを想像して欲しい。
この世界はどこに行っても死と隣り合わせで、生きているだけで死ぬ。だから何よりも生存を支えるものが優先される。灰よけ、防毒、まともな水や食料。
そんな世の中なのに、この街には明らかに嗜好品らしき売り物だとか、毒の灰なんてお構いなしといったデザインの服装、盗品らしきアクセサリや工芸品があちこちの露店に並んでいる。
繰り返しになるけど、俺が転移してきた時にはすでに灰に埋もれた手の施しようのない環境だった。だからこの世界に灰以外のもの――たとえば絵画とか彫刻だとか、歌とか祭とか、栄華を誇った魔法文明の遺産とか、要するにこの世界に昔あったはずの伝統的な文化にはほとんどお目にかかったことがない。
この旧アベリー市は不潔で息が詰まるような酷い場所なのに、全てが変わってしまう以前の名残りみたいなものを一番色濃く保っているように思えた。
興味がないと言ったら嘘になる。
同時に、わざわざそんな場所に出向かなくていいという気持ちもある。
住民には独特の沸点の低そうな雰囲気があって、ちょっとしたことですぐ暴力沙汰になりそうな近寄りがたさが充満している。スラムとか暗黒街とか、そんな言葉を思い浮かべずにはいられない。身の危険を感じながらうろつくくらいなら、馬屋でひとりウロコ馬の世話でもしていた方がマシだ……。
だが俺は結局ルシウムの後をついて大通りを歩いている。
大通りと言っても、人がすれ違うのがやっとの裏道に比べての話だ。ひっきりなしに汚れた住民が行き交うには道幅が足りていない。
住民とひと口にいってもいろいろだ。
怒鳴りながら人垣をかき分け手押し車で何かの商品を運ぶ使い走りとか、空中に向かってそいつにしか見えない誰かと口論する中年女とか、生きているのか死んでいるのかわからない道端に横たわるピクリとも動かない爺さんとか、霊薬を混ぜた染料で全身にくまなく入れ墨を入れた修行僧とか、スリを企てるガキとか、それを捕まえて殺すつもりとしか思えない勢いで暴力をふるう片目の潰れた男とか。
とにかくいろいろだ。
極まったカオスを物ともしないルシウムが先導していなければ、こんな場所をひとりで出歩く気にはなれない。
ルシウムの背中を見失わないよう付いていくのに俺は必死だった。はぐれれば絶対道に迷う。自力で馬屋まで戻れる自信はすでに失っている。
一方、俺の前を進む護法軍の女の足取りには躊躇がない。
この街の不潔さや、裏道や物陰から漂う不穏な雰囲気にはあからさまに嫌悪感を示している。そのくせ自分の庭みたいに平気な顔で――背中しか見えていないけどたぶん平気な顔のはずだ――歩きまわり、堂々としているというか、迷いがないというか……。
なんだかんだでこの女とは数日を共にしている。御者と客というよりは一方的に従者にでもされたような関係になって、以来俺は腰の引けた接し方しかできない。相手が軍人の立場だということを差し引いてもだ。
自分の都合だけで話を進めて、こっちには同意を求めることもしない。いけ好かないけど言うことは正解なので、特に反論する必要もない。そうやって過ごす内にすっかり上下関係ができあがって、もう絶対覆りそうにない。わかるだろう? 偉そうでムカつくけど実際向こうのほうが偉くて逆らえない、そういう空気。
前に俺は、この女が誰かに似ていると感じた。
相変わらずその印象は残っているけど、結局それが誰なのか思い出せないでいる。
すっきりしない。すっきりしないことばっかりだ
*
一応言っておいた方がいいかもしれないが、マスクを外したルシウムは美少女ではないし少女でもない。
直に年齢を聞いたりはしないが、たぶん俺より五歳かそれ以上年上だと思う。だと思うっていうけど俺いま何歳だったっけ? まあ俺のことはどうでもいい。
とにかく地球でいう二十代半ばから後半というところだろう。
顔立ちそのものは白人と日本人のハーフっぽい造りで、まあ整っている部類だとは思う。別に不細工というつもりはない。
ただ、俺の覚えている日本人の感性から言うと地味で血色が悪すぎる。単純な話でノーメイクだからだ。
これは彼女に限っての話じゃない。
この世界の人間に、のんきに化粧をしている余裕はもうない。化粧品の流通なんてとっくに途絶えている。
唯一の例外は大金持ち――ではなく、化粧するのが仕事の内になる連中だ。わかるだろう? 売春婦だ。
どこの世界でも、どこの街でも、それはそういうものなんだろう。
それに、メイクしていてもどうせ防毒マスクで隠れることになる。
灰の降り方は日によって違う。
大雪みたいな降灰がいきなり来ることもある。
防毒隔壁にも限界があって、大量すぎると毒が残ったまま灰が降り積もる。住民総出で灰を払わないと、生活どころか生存すらできなくなる。この世界の多くの土地がそうなった。
マスクは必ず必要なんだ。
マスクの必要がなくなるか、マスクを付ける人間がいなくなるまで。
*
「それでいったいどこに行くんスか?」
俺は人混みを正面からかき分けて進むルシウムに尋ねた。ついてきてくれと言ったきりで、どこに行くのかさえ聞いていない。
「君に払う手間賃だ。私の手元のカネでは少々足りなくてね。だからこの街の護法軍に融通してもらう。私も報告をしなくてはならないし、どうせなら一度に済ませた方がいい」
ルシウムは足を止めずに言った。淀みのない答えだ。一方的な説明ではあるけど、特に文句を付けるような話ではない。
「ところでイリエ、君は御者の仕事をこの先も続ける気か?」
急にそう言われて、俺はまあそうですね、と適当に返した。続ける気があるかどうかなんて自分でもわからない。続ける気があったとして、『この先』があるとは限らない。それに、どう答えたところでどうせもう彼女とは二度と会わないだろう。まじめに考えても無駄だ。
「毎日馬車を走らせているんだろう? 灰を直に浴びる時間も量も多い。体に影響はないのか」
「……今のところは」
灰の毒を100%防ぐ方法は存在しない。影響? そんなものあるに決まっている。早いか遅いかだけだ。聞くまでもない。
俺は少しずつ苛ついてきた。
荷物は目的地のこの街まで運んできたし、特別料金の後金を受け取れば仕事は終わりだ。できるだけ早く自分の住まいに帰って、また最後の魔法の塔と荷物のやりとりをする生活に戻る。それでこの話はおしまい。この期に及んで俺に質問して何になるんだ?
気をそらしたのはわずかな間だった。
そのわずかな間に、俺はルシウムの姿を見失った。
周囲には垢と脂がこびりついた群衆。
俺はただ独りで……。
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