第12話 アッシュ・ラッシュ
何をどう間違ったのか。
表通りでさえ狭苦しい旧アベリー市の、さらに裏道の奥で俺は迷子になっていた。
ねじくれた坂道が上下に続き、灰曇りの日差しは建物の陰に遮られて暗く、湿っている。アルコールとアンモニアの臭いが漂うそこはいわゆる悪所というか、ストレートに言うと売春街だ。
水たまりに足を取られ転びそうになりながら、俺はそこから抜けだそうとして、全然抜け出せずにいる。
道が入り組んでいる上に、どこに出たら元の場所に出られるかわからない。入ってきた場所と違う道に出てしまったら、ますますどこにいるのかわからなくなってしまう。
道の先が少し明るくなっているのを見つけて小走りに坂を上がると、そこはもう五回くらい通った十字路で、俺は頭を抱えるしかない。
まだ昼なのにあちこちに娼婦が立っている。道に迷ったまま同じ娼婦の脇を何度も通り過ぎたりしていると、まるで誰を買いたいのにどう切り出せばいいのかわからないガキのようだ。
灰を防ぐには向かない露出の多い服を着て、濃い目の化粧をした女達。世界最初の職業は世界最後の職業でもあるのか? そんなつまらない考えさえ頭に浮かぶ。
売春婦にもいろいろだが、遠目には美しく見える女もいる。近づいてみると、たいがいキツい。息が詰まるような街のどん詰まりだ。何であれ、美しさを求めるのは間違っているんだろう。
それはともかく、俺はもう自力で売春街から逃げ去るのを諦めて、誰かに道を聞くことにした。
売春婦たちに尋ねるのは少し気が引けるので、さっきの十字路の端っこでずっと座り続けている爺さんに話しかけた。
五回も通りすぎてその間ずっと動いていないので酔っぱらいが寝ているのかもしれないと思ったが、目は開いている。ときおり手元の防毒マスクをいじっているようだった。
爺さんではなかった。
そいつはまだ若くて、なのに髪の毛は全部抜け落ち、病的に色の抜けた肌に奇妙なほど太い静脈が浮かび――鼻や耳の先が濃い灰色に硬化していた。
化石病の初期症状だ。
毒の灰を吸い込むと、体組織が内側から崩れて死ぬか、体組織が作り替えられてフィーンドに成り下がるか、もしくは体組織が固まって石になる。
化石病は、文字通り末端部から少しずつ石に変わっていく病気だ。毒にやられた症状としては比較的楽な方――と言われている。少なくとも即死するわけではない。その代わり、石化の恐怖がずっと続く。たいていの場合は内臓にまで石化が達した時に死ぬ。死んだ後も放置しておくと髪の毛から爪先まで全身が石になって、石像が残される。
男が手元で弄んでいた防毒マスクを見て、俺は反射的に口元を抑えて三歩ほど後ずさった。
アッシュ・ラッシュだ。
防毒マスクの浄化フィルターをほぐし、そこから特定の霊薬だけを取り出す。それを酒で溶いた灰に混ぜ、ほどよく温めると微量の揮発成分が立ち昇る。アッシュ・ラッシュと呼ばれている安価なドラッグだ。
薄めた毒蒸気を吸い込むとすると神経系に作用して一時的な鎮痛、リラックス効果が得られる。使用者は口をそろえて『恐怖が消える』と言う。人類の生存領域が塗りつぶされていく時代にはそういうものも必要だろう。
代わりに使用者は死ぬ。
いくらか薄めたところで毒は毒。体内に蓄積されれば結局は同じことだ。脳から崩れるか、体内の一部だけがフィーンド化するか、もしくは目の前の座り込み続ける男みたいに化石病になってじわじわ石になる。
ほんの一時の安らぎが得られる代わりに灰の毒が蓄積し、やがて死ぬ。例外はない。
中毒者に近寄ると蒸気を吸い込みかねない。俺は男から離れ、仕方なく売春婦に話を聞こうとした。
「あっち」
不意に中毒者の男が子供みたいな声で、俺から見て左側の道を指差した。まさか道案内でもしようっていうのか?
爪のあたりがすでに石になりつつある指先は、少し奥まったところにある建物の隙間を示していた。記憶があやふやだけど、そこを通ったことはないはずだ。
少し顔を上げて俺を見る男の目は、恐ろしいほど澄んでいた。何かを悟ったような目――それとも恐怖と一緒に何かが欠落してしまった目か。
俺はどういうわけか男の指示にしたがって、裏道のそのまた枝道の奥へと入っていった。
*
気配というか、雰囲気というか、その坂道はさっきまでの売春街とはまた違う空気が流れていた。
別に売春街とは違う区画に出たわけじゃなく、薄暗くて不潔なことには変わりないのに何かが違う。
それが何なのかうまく言葉に出来ないままゆるい坂道を上り、誰か話の通じそうな人を探そうとした。
ひらひらした薄衣を重ね着し、きちんと髪を櫛づけた比較的身なりの良い娼婦を見つけ、少しためらって――かなりためらってから、俺は意を決して道を尋ねた。
化粧をした女の顔が振り向いた。
俺は坂道の段差に足を取られそうになった。
女じゃない。男だ。
そりゃあ空気も違うわけだ。この通りは、売春街は売春街でも男色専門の方だったんだ。
後ろ姿はどう見ても女だったので全くそうは見えなかったのだが、間近に寄るといかにもな化粧をしたオカマという感じだった。
俺は異世界でもオネエ言葉が存在することを初めて知った。
こんな場所で声をかけて、カネも払わず抜け道を聞くのは、向こうからすれば気分を害することかもしれない。突っかかってくるオカマの人を俺はなんとか謝り倒して解放してもらった。
結局道を教えてもらえず、脱力しながら坂を上がっていく。
「やめろ! 離せ!」
急に大声が聞こえ、顔を上げると坂道の上からボロボロの服をまとった男がものすごい勢いで駆け下りて来るところだった。どう見ても、客をとれる身なりじゃない。手には小さなバッグを持っていて、叫び声からしてひったくり犯らしい。
――関わりたくねえなあ……。
最初に思ったのはそれだ。無意味な関わりは勘弁して欲しい。でも坂道は道幅が狭く、止めようと思えば止められる状況なのがうらめしい。
「アンタ、そいつ捕まえて!」
背後からさっきのオカマの人の声がして、俺は1秒考えてから諦めた。
ひったくりはもじゃもじゃのホームレス髪を振り乱し、全く意味の分からない言葉をわめきながら俺の目の前まで駆け下りてきた。
俺は脇をすり抜ける瞬間に灰合羽を広げ、顔にかぶせて転倒させる――つもりだった。
その男は俺の予想に反し、すり抜けるどころかまっすぐ俺の方に向かってタックルしてきた。
まさか逃げるより俺に襲い掛かってくることを優先するなんて思ってもみない。
もつれ合い、背中から転んでわけがわからなくなった。
結局、ひったくりはぞろぞろと建物の陰や売春宿から出てきたソッチの人たちに捕まり、軽めの私刑を受けてどこかに捨てられた。駐留している護法軍もこんな場末の底にまで手は回らない。警察に相当するものに任せるよりも、自分たちのテリトリーは自分たちで守ったほうが手っ取り早いというわけだ。
「大丈夫か? すまない、ありがとう」
誰かが俺に声をかけた。さっきバッグをひったくられた被害者らしい。
ふと、妙な感じがした。
男の声は――なよなよした感じがなく、普通の若い男のしゃべり方だ。でも、それは二の次だ。
首の後を抑えながら俺は起き上がり、何度か目をしばたかせた。いつの間にか俺の周りには男娼たちが輪になっている。
「お前……!」
さっきの男が半音上がった声を噛み殺すのを聞いて、俺は妙な感じの正体がわかってしまった。
「入江……なのか?」
――ああ、最悪だ。
神様の祝福で、誰もが意思疎通できる異世界。なのにそいつの声は、魔法の力で意思疎通ができるのではなく、耳で聞き分けられた。
日本語だからだ。
何も見ずに走って逃げればよかったんだ。そうすべきだった。
でも、俺は声のした方向を見てしまった。
「やっぱりそうだ……入江、入江だろお前! 入江一貴! そうだろ!?」
「ああ、そうだよ……」
そう答えるしかなかった。
そいつは明らかに浮足立って、濃いメイクをした顔を泣きそうなくらいクシャクシャにしていた。呼びかけに反応してしまった以上、そうだと答えるしかなかった。
「その……生きててよかったな、佐久間」
俺は無理に笑いながらそれだけ言った。
それ以上は何を言えばいいのか全く分からなかった。
佐久間。佐久間海人。
元いた地球の、学校のことを思い出す。
同じクラスで、生徒会長で、一緒にこの世界に転移してきた俺たちをひとりでも生き残らせようとしたリーダーで、混乱の中ではぐれてしまった男。
三年ぶりに再開したそいつは、異世界の暗がりで男娼になっていた。
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