第10話 出口が入り口に繋がる迷路
もし防毒隔壁がなかったら、この世界の人間は屋内か地下の坑道にでも篭って、毒の灰の降ってこない場所に一生居続けるしかない。
目に見えない魔法のドームで人間の住む地域全体を覆って、灰そのものをシャットアウトするか、毒だけでも除去する。そういう仕組みが人の住む場所には集落レベルから大都市まで設置されている。逆に言えば隔壁のない場所に人は住めない。
魔法のドームを張り巡らせるには魔法使いによる魔力の供給が欠かせない。
しかしあらゆる面で生活の基礎を支える魔法使いへの負担を増やすことは、いわば貴重な資源を無駄遣いするのと同じことだ。魔法使いも人間だから、体力や精神力を失えば疲弊し、崩れ落ちてしまう。最悪の場合は過労死だ。
何かひとつにかかりきりにさせて使い潰すようなことは厳禁だ。肝心なとき――例えば地獄の噴火が悪化して降灰が増えたり、フィーンドの大軍勢が襲ってくるとか、そういうときに――魔法の力を結集できなければ、もっと酷い絶滅の波を引き起こす原因になる。だから必要な魔力をなるべく軽減するために、魔法のドームだけでなく実際には物理的な壁や屋根なんかを組み合わせて、騙し騙し維持しているってわけだ。
そういう大規模な防毒構造のことをまとめて隔壁と呼んでいる。簡単にいえば防毒マスクの拡大版だ。
旧アベリー市は人口密集地であり当然防毒隔壁は設置されている。それを信用するならば、表通りを歩いていてもマスクをする必要はない。
市内全体を高い壁で取り囲み、おそらく帆船の帆布を利用した大きな布をあちこちに張り巡らせ、大都市を灰からカバーするためにいろいろと考えられているようだった。
壁の外にはそんな庇護下にも入れない貧民が、ボロ布とゴミを組み合わせたテントで寝起きをしていた。灰の中で顔だけ隠して仰向けになっている奴もいる。そんな気軽な感じで生き残れるのか、と感心すればいいのだろうか。それともすでに死体なのかもしれない。
俺が仕事を手に入れて暮らしていた街は、最後の魔法の塔に一番近いという地理上の理由で防毒管理が行き届いていて治安もよく、そんな灰晒しのホームレスなんていなかった。まともに家を持てない貧民も少なくはなかったが、少なくとも隔壁の外に追いやられるところまではいかなかった。
ここは違う。近くの河に死体が積み上がっているような街だ。そんなこともありうるくらい荒んだ場所なのだろう。
護法軍所属のルシウムの口利きですんなり隔壁に入る頃には、俺の顔はすっかり青黒くなっていた。灰の除去が確認された瞬間にマスクを外し、初めて来る街への挨拶代わりに胃の内容物を全部献上した。
マスクの中で吐くのをぎりぎり我慢できたのは幸運だった。
十分すぎるくらい幸運だ。
*
アベリー市は一度廃墟になって、死んだり逃げたりしてほとんど無人になって、そこに難民が押し寄せたって話はしたよな?
空から毒の灰が降ってくるご時世だ。絶滅の波が広がり、予想もできないほどの大量死がおきて、それと同じくらい多くの人たちがまともに暮らせる家を失った。せめてマスクを外して息ができる場所を求めるのは当然で、だから廃墟にやって来た人たちは誰の管理下に置かれることなく街を再建していった。
護法軍も魔法使いたちも最低限の協力をするにとどめた。他にやらなければいけないことが余りにも多かったし、もともとアベリー市が属していた国の政府は消滅していて、文句を言える余裕もなかった。
そういういきさつで自然発生した共同体を、諸々ひっくるめて『旧アベリー市』と呼ぶようになった。誰かがそう言い出したわけではなく、なし崩し的にだ。
烏合の衆もいところの難民集団がどうやって生活の基盤を築いたのか、それを指揮したリーダーはいたのか、街の再建にどのくらいの人間が関わり、どのくらいの人間が死んだのか――誰も知らないことだし、誰も調べようとはしないだろう。そんなことに興味を持っても、毒の灰が世界を埋め尽くすのを防ぐには何の役にはたたない。
――だったら何が役に立つんだ?
そこから先を考えることを、俺はとっくに放棄している。
この世界を生きる大半の人間と同じように。
*
防毒隔壁の外は死体と死体泥棒たちの、目を背けたくなるような地獄絵図が広がっていた。漂う死の臭いとおぞましすぎる光景が、容赦なく世界の終りを訴えているようだった。
では街の内側は?
こっちもひどい有様だ。
外とは別の種類のインパクトがあって、ついさっき嘔吐しまくって腹の中には何も入っていないのに、また何かがせり上がってきそうだった。
旧アベリー市は難民が押し寄せて再建された街。
その言葉通り、いやそれ以上に街には難民と元難民とそれ以外の人間が押し寄せて、押し寄せすぎて人口密度がわけのわからないことになっている。どこもかしこも、人、人、人。
廃墟は再建され、やり過ぎなくらい再建されている。破壊されずに残されていた建物に瓦礫や端材が際限なく継ぎたされて、まるで立体的な迷路のようだ。
建築法があればどうみても違反している建物ばかりで、道は入り組み、ゴミと排泄物が吹き溜まって、そこを行き交う人々の多くは、何と言えばいいのか――ギトギトに汚れていて、ホームレスとあまり変わらない。
まともな身なりの通行人も混じっているようだけど数は少ない。たぶんニセモノの護法軍の紋章を付けた自警団気取りのチンピラ集団と、これ見よがしに武器を見せつける傭兵だか用心棒だかが口論をし始めたり、そうかと思うと両手いっぱいに代用パンを抱えた浮浪児たちが棒を振りかざす店のオヤジに鬼の形相で追いかけられていたり。カオスもいいところだ。戦後の闇市ってこんな感じだったんだろうか?
それに、臭い。
空気全体に運動部の部室を油粘土と一緒に煮詰めたような汚臭がうっすら漂っていて、少し場所を変えたら小便のアンモニア臭とドブ川のメタンの臭いがする。深呼吸するには向いていない場所だ。
街の外とはまた別の、生々しい生活臭。清潔にする意志を誰ひとり持っていない、人間の堕落しまくった不潔さとでも言えばいいのか。とにかくそういうものだ。
「聞いていいスか」
俺は珍しく自分からルシウムに尋ねた。今は防毒隔壁の中だからお互いマスクを外している。
「世界中で人が死にまくってるんでしょ? 何でこの街、こんなに人がいるんです?」
ルシウムはあからさまに眉根にシワをよせて、口元にハンカチを当てていた。消臭効果のある霊薬を染み込ませている。
何度かうなずいてから、見たままの理由だ――と、溢れかえる雑音に負けないよう少し大きめの声でルシウムは答えた。短く刈り込んだ金髪は、忘れかけている地球のファッション用語で言うベリーショートかベイビーショートに近い。
「他に行き場がないからだ。どうにもならなくなった難民が押し寄せて、とはいえ防毒隔壁の範囲にも限りがあって、自然と人口密度は高くなる。さっき壁の外でテントぐらしをしている貧民を見ただろう? せめて壁の近くへ、寄り添うだけでも生きられる場所へ。おこぼれをもらって、死体の処理を請け負って、その身ぐるみを剥ぐような生活だったとしてもだ」
ルシウムの言うことはもっともだと思った。難民たちの元いた故郷は人によって違うんだろうけど、おそらくそこはもう灰に埋もれているはずだ。戻ろうにも戻れない。
――戻れない、か。
それは俺も同じだ。
この世界の全人口は少なくなる一方で、同時に生物が生活可能な土地自体も減っている。生き残れたとしても住める場所がなくなっていく。身分もカネも後ろ盾も何も持たない難民は、それがゲットーみたいな場所でも行くしかない。
まだ生き残ろうとする意志があるなら。
不意に、クラスの誰かの革靴の、合成皮革の感触が指先に蘇った。
誰のものかなんてわからない。特定したいという気持ちはないし、するつもりもない。わかるだろう? もし『誰かのもの』だってわかってしまったら、あれはもう名前のない死人の持ち物ではなくなる。
絶望と苦しみしかなかったのか。それとも最後まで生きようとしていたのか。
そいつの感情が指先に染みついているような気がして、俺はほとんど無意識にズボンで手を拭った。
俺は誰かの形見を引き受けるつもりなんてないんだ。
それなのに、なんで死体の山の中に靴を投げ捨ててこなかったんだろう?
こんな場所、来るんじゃなかった。
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