第6話 別け隔てなく地を洗う絶滅の波
国土が毒で腐って、統治者が死んで、国民の大半がいなくなったらどうなるかというと、法も秩序も無くなる。
地獄が地上にあふれ、空から毒の灰が降るようになると本当にそうなった。文字通りの無政府状態だ。
考えうる限り最悪の伝染病も、降り続ける灰による絶滅の波に比べれば鼻風邪みたいなものだ――誰かがそう言うのを聞いたことがある。
そんな状況だというのに、強盗や山賊、暴徒の群れがあちこちで暴れまわって、手が付けられなくなっていたという。そんな状況だからこそというべきか。
最初に灰が降り始めて数年は、混乱に乗じた戦争だの略奪だの、人類の内も外も本当に酷いものだったらしい。毒で死に、食料不足で死に、残った土地と食料を奪い合い、殺し合いで死体が増えるだけ増えた。その様子を実際に目撃した人間はほとんど生き残っていない。半世紀ほど昔の話だし、この世界ではまっとうに歳を取ることさえ難しい。
やがて護法軍ができた。
危機に直面した世界の狂乱を鎮めて秩序を取り戻すという使命感から、滅んだ国や機能しなくなった組織から自然と軍人や法の番人が集まって生まれたらしい。新しい統一国家を作るのではなく、ただ人命を守り、歴史が築いた法を護るための組織。信じられないことだけど、連中は本気で平和を求めている。全員が全員じゃないにせよ、護法軍という組織そのものは公正と正義と義憤を基礎にして、そうするように、そうあるように、そうなるために働いている。
俺の知り合った護法軍の軍人は少なくともその手の人間だった。心が広いというかなんというか、地球とは少し考え方が違う気がする。神の祝福で言葉が通じ合うからだろうか?
でもそれとは全く反対の略奪行為が横行していたわけで――やっぱりそんなに変わらないのかもしれない。
山賊や略奪者たちは、真っ先に護法軍に狩られた。あぶれ者とはいえ元々正規の軍人たちが集まった軍隊だ。明日の命も顧みない賊どもは片っ端から捕縛され、尋問され、処刑された。
大規模な暴徒の発生や略奪はなりをひそめ、一応の平穏を取り戻したのは護法軍の貢献によるものだ――とされている。
確かにそれは間違いないと思う。
だとしても、人間同士の脚の引っ張り合いが減ったところで毒の灰による死者の増加は止めようもなかった。人間の法と秩序は人間に対して有効でも、人間の枠の外から襲ってくるものに対してはそれほど効果は期待できない。
護法軍も大勢死んだ。
善意も誠意も別け隔てなく死んだ。
そうなるとどうしても抑えきれない犯罪者が現れる。灰の降る野山に紛れて通行人を襲うような連中が。
毒の灰に埋もれて犠牲者を待ち構えるのは狂気の沙汰だ。わかるだろう? 爛れた土と毒の灰にまみれて獲物を狙っている様を想像して欲しい。いくらマスクをつけていても全てを防ぐことなんて無理だ。
それで金品や食料を手に入れたとしても、その先には何もない。半日先の命さえ見えない。略奪と言うよりは無理心中に巻き込むようなものだ。
灰賊。単なる無法者と言うよりもっとひどい、完全に頭がイカれた連中を指す言葉として、今では山賊でなくそう呼ばれている。
フィーンドと同じく、そいつらはもう人間社会すべての敵と言っていい。
その両方に人間は脅かされ、その両方と護法軍は戦っている。
フィーンドの苦痛に満ちた残虐さのせいで血の雨に濡れた馬屋で俺の目の前に現れたルシウムと名乗る女もそのひとりだとしたら、化け物を倒せる力を持っていても不思議じゃない。
とはいえ――たとえ死体を見慣れたとしても、殺しあう場面にはどうあっても慣れない。何がどうなったかわからない内にフィーンドを串刺しにして殺した相手を前に、助けられたのだと頭半分ではわかっていても、俺はその場から一秒でも早く逃げ出したくて仕方なかった。
「どうした? 君がイリエなんだろう?」
フードとマスクで顔もわからない女の声はいかにも軍人然とした口調だった。高圧的なようにも聞こえる。俺を助け起こそうともしない。
緊張のせいでマスクの中で咳き込んでから、その通りですとだけ答えた。立ち上がった途端に強烈な立ちくらみに襲われ、ふらついて馬屋の柱に寄りかかった。膝の皿が面白いように震えている。
「もう少し早く着く予定だったのだが、見ての通りだ」
死人と死人と死んだ大馬と死んだフィーンド。二頭立ての馬車も横転して軸受けから車輪がすっ飛んでいる。最悪だ。
「それで、荷物は? 無事か? どこにある? あれか」
そいつは俺に有無を言わせる間を与えることなく馬屋の隅に停めてある俺の馬車を指さすと、勝手に覆いをはぐって荷台の中を改めた。無遠慮に、こっちのことなどお構いなしだ。
――何だこの流れは。
興奮冷めやらず、感情を持って行く場がない。理不尽なものを感じた。依頼されたからこんなところまで持ってきたのに、取り調べを受けているような気分だ。
「よし、では出発する」
でかくて重い長箱の蓋を軽く叩き、そいつはあっさりとそう言った。箱の中身は開けてないようだ。頑丈で見た目からして普通ではないので確かめなくてもわかるのだろう。
俺は全身から気が抜ける思いだった。
物音を聞きつけて、宿場町の住民やら逗留客やらが防毒隔壁から出てきてこちらに寄ってくる気配がする。これから事情を説明しなければいけないかと思うとたまらなく億劫だが、マスクを外して一息つかせてくれればそれでもかまわない。
荷物を下ろして、この女に渡して……。
「違う、そうじゃない。これから出発するんだ」
「え? だから荷物をそっちに渡しますよ」
「君はアレが動くと思うのか?」
そう言って、女は自分が乗ってきた二頭立ての馬車を指差した。
「いや、その……思いませんが」
険のある言い方だと苛つきながらも、一応は下手に出た。護法軍と余計な衝突をしても何の得にもならない。
「だから出発だ。今すぐ準備をしてくれ、ここに長居するつもりはない」
「準備、って……まさか?」
「まさかも何もない。君が走らせるんだ、あのウロコ馬を。あの箱と、私を載せて」
人だかりが馬屋を見て、その惨状を見て、死体と俺と女を見て、大騒ぎになっていくのがわかった。
灰合羽の内側に吊るしてある銃の存在を、俺は肝心なときにいつも忘れる。
どんなに焦っていても、そのことは思い出せるようにしておかないとダメだ。
でないと肝心なときに撃ちぬけない。
たとえば、目の前の女の頭を。
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