第5話 ルシウム

 先に死ねた奴は運がいい。


 地獄の噴煙が舞い上がり、空から毒の灰が降り積もるようになってからこちらの世界の暦でおよそ半世紀が経つという。


 その間に何人死んだのか――というより、何割が生き残っているのか――それを把握している人間はたぶんこの世にはいないだろう。


 俺が3年前にこの世界に来た時は、もう何度か言ったかもしれないが授業中の教室にいた全員が一緒だった。その時は灰に毒があるなんて誰も知らなかったから、わずかな間に大勢死んだ。


 そのペースを参考にすると、もし防毒マスクや魔法の力で灰の影響を抑える事ができなければ、この世界はとっくに死滅していただろう。


 灰を吸い込んだ人間の体が内側から崩れる様子は最悪だ。


 初めてそれを見た時は、日本からそのまま持ち込んだ胃の中のものを全部吐いた。クラスメートが何人もそうなるのを見た。その何十倍も多くこっちの世界の人間がそうなるのを見た。


 お陰で俺は無感動な人間になった。


 わかるだろう? 試しにこっちに来てみるといい。死ぬか、慣れるか、どちらかしかないんだ。


 死んだ奴にしてみれば、わけもわからず血反吐撒き散らして死んで無念だったのかもしれないし、激しい苦痛でそんなことを考える時間さえなかったかもしれない。


 眼窩から目玉と一緒に血の塊を吹きこぼして死んだ同じクラスの女。その死に様は覚えているのに、もう顔も名前も思い出せない。あいつがどんな思いで死んでいったかなんてわかるものか。


 ただ、どうせ死ぬならすぐ死ねただけマシだったはずだ。


 それはつまり――すぐに死ねない場合もある。


 呪われた毒のせいか、持って生まれた体質のせいか、どちらが原因なのかわからないが、体組織が崩れてほぼ即死するのではなく、肉体が別のものに作り替えられてしまうことがある。


 そのひとつは、体の末端から少しずつ石に変わっていって、最後には全身が石になる化石病。


 もうひとつが、生きながら化け物に成り果ててしまう灰憑きだ。


 灰の毒は地表にせり上がってきた地獄に由来している。ドロドロの溶岩を想像して欲しい。そこには浄化のために地の底へ投げ込まれた罪業や怨念が岩に混じって溶けている。事実なのか単なる神話なのかは別として、魔法が実在する世界なのだから地下に悪魔がいてもおかしくないし、そのせいで世界が滅びても不思議じゃない。


 地獄の灰を浴びた人間が人間以外の何かに変わることだってありえる。


 灰の毒に取り憑かれ、他の人間を襲うことだってある。


 死ぬほど苦しみながら、生きている人間を死ぬまで苦しめるだけの存在になってしまうこともありうる。


 悪鬼フィーンドだ。


     *


 話を戻そう。


 いま俺の目の前には、灰を吸い込んで内側から崩れた死体と、馬屋に激突して横転した護法軍の馬車と、それに巻き込まれた二頭の大馬と、そしてバッタのような長い手足の人間もどき、つまりフィーンドがいる。


 大急ぎでこの場から立ち去るべきなのは言われなくてもわかっている。


 でも頭が真っ白になって、俺は逆に馬屋の奥の方へと逃げこんでしまった。とっさの行動だったとはいえ、全然上手くない。逃げ場のないところに逃げ込んで、その先は?


 追い打ちを掛けるように手長足長のフィーンドが狂ったように泣いた。


 叫び声が青くない晴天に響き、水死体のような顔は吹き出す涙でぐちゃぐちゃだ。動物のように鳴いているんじゃない。人間みたいに泣いている。

 

 泣き叫び、大量の涙を流しながら、フィーンドはがさがさと横倒しの大馬のところへと這い寄った。そのまま長すぎる手足を馬体に絡めて抱きつくと、逃れられず暴れるその濃い栗色の首筋に爪を立て、引き裂いた。


 大馬は信じられないような大声で嘶き、残りの一頭にも恐怖が伝染して叫びを上げ、さらにフィーンドの泣き叫ぶ声が入り混じり、その場にある全部が発狂したかのようだった。


 もしかしたら気がついていないだけで、俺も一緒に悲鳴をあげていたかもしれない。


 分厚い大馬の首の皮はばっくりと裂け、血を吹き出した。なおも力強く振り落とそうとする大馬に対し、青白く浮腫んだフィーンドは鉤爪を伸ばし、顔面をかきむしった。


 また絶叫が、そして鮮血が吹き上がった。


 メチャクチャだ。


 痙攣してそのまま失血死するであろう大馬からフィーンドは体を引き剥がし、血まみれの体で虫のように這いずった。涙にまみれた目の、その視線の先には馬屋から飛び出て逃げようとする管理人のおばさんの姿があった。


 足首を掴まれて引き倒されて、それから……それから?


 別に細かく説明する必要はないだろう。


 おばさんは死んだ。そのあと服ごと腹を裂かれて、中身を食われた。


 食いながら、フィーンドはときおり激しく泣き叫んだ。


 よく泣くんだ、フィーンドは。


 誰がどうやって調べたのか知らないが、意識を残したまま脳を乗っ取られ、拷問に掛けられたような苦痛を全身に受けながら人間を殺して喰うように仕向けられているせいだという。


 理性のある善人が拷問にかけられて、他人を殺すように強制されたらどうなるだろう? 肉体的な苦痛だけでなく、精神的にも葛藤で責めさいなまれて……。


 泣くしかないだろう、そんなの。


 で、次は俺の番だ。


 灰合羽の内側に護身用の銃を吊るしていることなんてすっかり頭から飛んでいる。もっとも、撃てたところでフィーンドを殺せる保証なんてどこにもないんだが。


 ともかくフィーンドは、泣きながら俺の方を見て、肉片の生々しい汚れをこびりつかせた顔で詫びた。今から殺すけどごめんなさい、とでもいうように。そう見えたのは、俺の都合のいい解釈だったかもしれない。


 長い手足に力を込め、狙いを定めて一気に飛び跳ね、次の瞬間血がぶちまけられた。


 フィーンドは、胴体を杭で貫かれていた。うつ伏せの背中側から胸を貫通し、地面に縫い付けられている。


 水たまりのようになった鮮血を、フィーンドのタールみたいな体液が上塗りしていく。


「君がイリエか?」


 急に声を――生きている普通の人間の声をかけられて、俺は死ぬほどびっくりした。


 尻餅をついた俺を見下ろすようにして、誰かが立っている。


「事が後先になったが、『荷物』を受け取りに来た」


 防毒マスクからのくぐもった声。護法軍の腕章をつけていることを指さして、そいつは自分が連絡員であることを示した。


 そいつは――その女は、自分のことをルシウムと名乗った。


 引き渡し相手の名前なんて知ったことではない。


 今すぐこの場から解放してくれ。


 俺はそれしか考えていなかった。

 

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