第五百十話

 予期せぬ事態、無用な苛立ち、不毛な闘争、無意味な殺人。

 様々な出来事は不意に、唐突に訪れるもの。

 それは正しく不幸、正しく運命の悪戯としか言いようがない状況と言え、今回もまた予想外の出来事によって最悪の状態になる可能性もあった。

 が、銭湯、湯船に浸かってしまえば大抵の出来事は水に流せてしまう。

 無論、風呂嫌いの者もいれば風呂に入ったくらいでは怒りを沈めない者もいる。

 だが銭湯を訪れていた客たちはそのどちらにも該当しなかったらしく、子供たちが無邪気にはしゃいでいる以外には目立った行動を取る者は居らず。

 それは仁や東間も同様。

 湯船に浸かった時点で今日の疲労と一緒に様々な負の感情が湯の中に溶けてしまったが如く、大きいがゆったりとした吐息を漏らす。

「東間きゅん」

「なに?」

「理香ちゃんに夜這いを仕掛けて良いだろうか?」

「本人に訊いてみて」

「うむ。だがその前に脳内シミュレーションをしてみたが、殴られる未来しか見えなかった。それも渾身の一発が飛んできて、俺はノックアウトされてしまった」

「だろうね」

「ならばこのお風呂の効能によって滾ってしまった我が情熱の炎は何処にぶつければ良いというのだ。まさかこのまま悶々とした一日を過ごせというのかね!?」

「僕にそんなことを訊かれても困るよ」

「だってこの場には東間きゅんにしか尋ねられる人がいないじゃありませんか。よもや女湯の方にいる理香ちゃんに大声で話し掛けるわけにはいくまい」

「君にそんな分別があるなんて知らなかった」

「俺だけがぶちのめされるのならその程度はなんてことはない。が、しかし、理香ちゃんに迷惑を掛けるのは俺の本意ではないのだよ」

「理香以外だったら迷惑を掛けても良いの?」

「相手による。華恋ちゃんとかだったら風呂上がりにぶちのめされそうだから控えるべきか、ぶちのめされることになってでもからかうべきかと真剣に悩む」

「悩まなくても良いところだと確信をもって言えるよ」

「何にしても、理香ちゃんはダメなのだよ。女湯にいるのが理香ちゃんだけだとわかっているのならともかく、周りが理香ちゃんを迷惑がるような目で見るのは嫌なり」

「ったく、面倒だね。あっ、そうだ。さっきの質問だけど、悶々するのが嫌だったらストレートに告白でもすれば? 僕の見立てだと確実に成功するよ」

「それはダメ」

「どうして?」

「だって俺は化け物だし。理香にはちゃんとした相手と結婚して欲しい。そして幸せな家庭を築くべきだ。間違っても俺みたいなのと一緒になっちゃいけない」

「……やれやれ」

 お風呂の効能が本当に働いているのかは定かではないが、一切の茶目っ気がない仁の眼差しは無色透明。

 真剣ですらない、極々自然に吐き出された言葉は、だからこそ彼の本音を端的に表している。

「結局のところ、根底にある問題がそれなんだよね。本音を洗いざらいぶちまけたとしても、それが最大の障害として立ちはだかる。屈折しているよね、本当に」

「急に何を言い出すのかね、東間きゅん」

「別に。まあでも、君がどう考えているのかはどうでもいいとして、僕も君たちの幼馴染みとして二人の幸せを願っているよ」

「ダメだなー、まったくもってわかっていない。これだから東間きゅんはバカと言われてしまうんだZE!」

「何だろう。一瞬、凄くイラっとしたような気がしたよ。まあすぐにお湯の中に溶けて消えてしまったようだけど」

「東間きゅんは二人と言ったが、どうして自分を入れないんだ。俺たちが幸せになるのなら当然、東間きゅんにもその権利はあるはずなり」

「僕? 僕は今でも十分幸せだよ。バカな幼馴染みと努力家な幼馴染みたちのやり取りを眺めているだけで楽しいし」

「実は幼少期から人間、人外の女性に襲われそうになり続けたトラウマで男のお尻にしか興味が無いとか言い出すのであった」

 心が揺れ動くよりも先に突き出されたのは拳。

 鼻血を出しては湯が穢れてしまうため、頬を貫いた拳に仁は白目を剥いて気絶しそうになるも、咄嗟に舌を噛んで意識を保つ。

「あっ、ゴメン。頭で何か考えるよりも先に手が動いたみたい」

「フッ。東間きゅんよ。お湯に浸かっていることでよりクリアな状態に移行しつつあるようだな。今のパンチ、極めれば世界を狙えるんだZE!」

「狙う気はないけどね。それよりも仁、君は僕をどういう目で見ているのさ。言っておくけど、確かにトラウマは今も僕の中にあるけど、それはそれ、これはこれとして割り切っているんだからね」

「知っているとも。だからこそ、妖精さんやエルフ連中と仲良くなれたんだろう。そういえばあの後も交流を続けているのか?」

「まあね。どうやら僕、エルフたちに気に入られたらしくて、僕がいないと交渉とかも難航するらしいから、ちょくちょく呼ばれているよ」

「交渉?」

「経緯はどうあれ、魔境に来た以上、魔境のルールに従って生きて行くしかないからね。とはいえ、エルフや妖精たちにも相応のルールがあるから、ルールの擦り合わせは必要ってこと」

「郷に入っては郷に従え、という諺を知らんのか。まったく、最近の若い連中は」

「妖精の人たちはどうだか知らないけど、エルフの人たちはたぶん、一番若い人でも僕等よりずっと年上だと思うよ。加齢臭に悩んでいるとか言っていたし」

「ああ、やっぱり長命な連中は加齢臭が気になるのか。……気になるのか?」

「森に居た頃はまったく気にしていなかったそうだけど、僕たちと関わるようになってからは気にするようにしたんだって。これも擦り合わせの一環だろうね」

 それは東間たちではなく、東間と関わったからではないだろうかと、ツッコミを入れそうになった仁の体を揺らす軽い衝撃。

 視線を向ければはしゃいでいた子供が仁の存在に気付かず、ぶつかってしまったらしく、元気よく謝った少年は再び他の子供たちと遊び出す。

 下手をすれば事故に繋がりかねない危険な行動だが、元気が無いよりはマシとして仁は無視することに決める。

「さっきは怒っていたのに、今度はスルーするんだ」

「これもお湯の効能なり。今の俺は仏の如く寛大な心の持ち主。今ならば風呂上がりのフルーツ牛乳くらいなら奢ってやっても良いなりよ」

「僕はコーヒー牛乳の方が良いかな」

「貴様は俺を怒らせた」

「仏の心って物凄く狭いんだね。わかってはいたけど」

「それはそうだろう。右の頬を殴られたら、左の頬から脳を貫いて刺し殺せというのが仏の教えだぞ。つまり肝心なのは許す心などではなく、報復の精神なり」

「君は仏教を何だと思っているの」

「金の亡者どもが金を効率よく集めるために作ったシステム」

「本格的に罰が下りそうな回答。っと、話し込んでいる内にちょっとのぼせてきたね。そろそろ上がろうか」

「貧弱貧弱ゥ! この俺がこの程度でのぼせるとでも!? 東間きゅんよ。もしもここで俺よりも先に出たりしたら、貴様は俺に負けたのだと吹聴して回るZE!」

「じゃあ僕は先に上がるから」

「えっ、あっ、ちょっと」

 ハイテンションから急転、仁は真顔で東間を引き留めようとするも、彼は相手にすることなく脱衣所へと戻って行く。

 体を拭き、髪を乾かしてお風呂上がりのフルーツ牛乳を飲もうとした辺りで捨てられた仔犬が如き瞳の仁が風呂から上がる。

「まだまだ入っていられるんじゃなかったっけ?」

「東間きゅん。チミはコーヒー牛乳派だと自ら進言していたはず」

「そうだっけ? 生憎と、僕は過去を振り返らない主義みたいで、昔のことはもう忘れてしまったよ」

「バカな!? 東間きゅんの記憶力は世界一のはず! それとも世界ジュニア記憶保持者選手権にて優勝を果たした輝かしい栄冠を捨ててしまったとでもいうのか!?」

「仁はレモンとオレンジ、どっちがいい?」

「レモンでお願いします」

「はい」

「うむ。ご苦労」

 手渡されたレモン牛乳の蓋を開けて一気飲み。

 スッキリした味わいに舌鼓を打つとともに、温まっていた体を内側から冷ますレモン牛乳の冷たさに全身を震わせる。

「おおう、中々の味だ。悪くない、悪くないぞよ。にしても、普通に渡されたがよもや盗んだのではあるまいな」

「一人一本、サービスだって。二本目からは料金が発生するみたいだけど」

「成る程、気前が良い。採算が取れているかは知らんが、それが人気の秘訣の可能性が無きにしも非ず。というか、東間きゅんが取ったのは二本目ということで料金が発生してしまうのでは?」

「飲んだのは君だし、近くにいたから代わりに取っただけ。だからノーカンで良いんじゃないかな? ほら、番頭さんも特に何も言ってこないし」

「実はあの番頭さんは既に死んでいて、俺たちはそのことに気付くことなく銭湯を後にするのだったって展開は?」

「失礼過ぎるからやめようか」

「うむ。今のは言ってから無いなー、と俺自身も思ったなり、番頭さん、この俺が直々に土下座して謝罪します。どうか東間きゅんをお許しください」

「絶対に言うと思った。まあ別に良いんだけどね」

 肩をすくめる東間と堂々と土下座する仁と。

 彼等を視界に入れているのかいないのか、いまいちよくわからない番頭は表情を変えずに小さく頷く。

 恐らくは許されたのだろうと判断した東間は、仁が番頭にこれ以上の失礼を働く前に出発すべきと考え、土下座中の仁を起こし手早く着替えを済ませて銭湯を出る。

「あっ、出て来たわね。もう、遅いわよ」

「理香、先に出てたんだ」

「むむっ、理香ちゃんが俺たちよりも早いだと!? どういうことだ、女性のお風呂は長いと相場が決まっているのではないのか!? もしや理香ちゃんは女性ではなく、性別を超えた第三の存在だとでも!?」

「そこで私を男扱いしなかったところは成長が窺える、って言って良いのかしら?」

「ダメだと思うよ。そもそもまるで成長していないし。というか、身体能力はともかく、仁の頭が成長することってあるのかな?」

「さあ、どうかしらね。一度、本当に壊してから叩き直せばもしかしたら成長するかもしれないわよ。まあやろうとは思わないけど」

「うむ。何やらとっても怖いことを言われている気がするが、何も聞かなかったことにして我等は廃ビルを目指すのであった!」

 今回の仕事の目的地――ではなく、適当な方角を指差し、突き進まんとする仁を東間が後ろから羽交い締め。

 その間に理香が正面に立ち、無防備な額にデコピンを打ち込む。

「とっても痛い。何をするのかね、我が愛しき幼馴染みたちよ」

「探索は明日から。今日はもうホテルに戻って寝る。OK?」

「善は急げという諺を知らんのかね? ほら、お誂え向きに月明かりが世界を包み込んでいるではなイカ。絶好のホラー日和なり」

「だからダメなんだよ。向こうが有利な戦場にわざわざ乗り込む必要はないよ」

「まあそもそも相手のホームグラウンドを調べるわけなんだから、最初からこっちが不利なのは当然よね。で、その上、時間帯まで相手に有利な時に行くのはバカを通り越してマヌケよ」

「フッフッフッ。これだから素人は。良いかね? 彼等にとって夜こそが活発に動く時間帯だとすれば、すなわち夕方は早朝。夜は相手も警戒するとしても、早朝は一番、気が緩む時間帯なのだよ。つまり夕方こそが奇襲を仕掛けるのにベストな時間帯だと言える!」

「ねえ、仁。アンタは本格的に頭がパーになったの? 今さっき、夜だって自分で言ったわよね? 夕方になるのは次はいつかしら?」

「…………」

 無言で空を、星々を眺める仁の瞳から流れ出るのは一滴の涙。

 都会の、人工の光によって遮られ、本来の輝きを放つことができなくなっている月や星々は、けれども見え難くなっているだけでその輝きを失ったわけではない。

 故にこそ尊く、そして美しいのだと、感動した仁は嘘泣きをやめ、静かに微笑む。

「俺の負けだ、理香ちゃん。どうやら星の輝きは俺の味方をしてくれなかったようだ。おとなしく自首することにしよう」

「いつまでもここに居座っていたら他のお客さんに迷惑よね」

「だね。通報とかはされないにしても、早々に立ち去った方が良さそうだ」

「じゃあ東間、しっかりと羽交い締めを続けてね。そのバカ、このタイミングで下手に解放したら何処かに走り去ろうとして事故に遭いそうだから」

「同意するよ。こういう状態の時の仁は妙に神懸かり的な奇運――主に不運を引き寄せそうだしね」

 仁が格好つけている間に東間と理香は協力して彼をホテルまで運んでいく。

 なお、当の仁は理香たちに完全無視されたことで心に深い傷を負ってしまったように独り言をつぶやきながら天を仰ぐ。

 尤も、抵抗しない分だけ運びやすいとも言えるため、東間はホテルの部屋に到着するまで彼が正気に戻らないことを祈りつつ、人目につかないよう理香とともに早足で夜道を駆け抜けて行った。

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