第五百話

 広がっている空を見つめて仁は何事かをつぶやこうとする。

 が、彼の口から漏れ出たのは吐息。

 声を発することができないほどに疲労が蓄積していることを自覚した直後、仁の意識は闇の中へと落ちていく。

 何処までも何処までも深く、底なし沼にでも嵌まったが如く、抜け出ることができない漆黒の闇。

 深淵を進んでいるような感覚に襲われ、その奥にいる何かに引き寄せられているような気がした瞬間、彼の意識が覚醒。

 見知らぬ天井に困惑しつつも体を起こした仁は、すぐ近くで理香が自身の横になっているベッドに腕枕しながら寝息を立てていることに気付く。

「起きたの、仁。まっ、死ぬことは無いとは思っていたけれど、今回はまた随分と長い時間、眠っていたものね」

「母親、俺はどれくらい寝ていたんだ?」

「大体三日ほど。安心しなさい、事情が事情だから、その辺りはちゃんと便宜を図ってくれるらしいわよ」

「……理香も三日間、付き添ってくれたのか?」

「それは私が許可しなかったわ。それに我が息子の生命力は理香ちゃんも知っているわけだし。まあそれでも心配だったんでしょうね。夜もあまり眠れていなかったようだから、さっきコッソリ睡眠薬を嗅がせて眠りに就いてもらったところなの」

「やり方が強引過ぎると思われますが、その辺りはどう思われておりますか」

「こうでもしないと眠ってくれないんですもの。でもまあ、貴方がキチンと起きたのなら、今日から理香ちゃんも安心して眠れるでしょう」

「そうか。ちなみに神凪君は?」

「彼は二時間ほど前に目覚めたという連絡があったわ。まったく。河童に負けるなんて、もっと鍛錬を重ねないとダメかしらね?」

「別に競ったわけじゃない。ゴールは一緒でもスタート地点は異なっていたし、それに二時間程度なら誤差の範囲内だ」

「あら、二時間は大きい差よ。待ち合わせに二時間も遅刻したら、別れ話を切り出されても文句を言えない程度には」

「それはそうだが、そのくらいで別れ話を切り出すのもどうかとっと、そこに置いてあるフルーツの盛り合わせは誰が?」

「東間君が代表して、よ。他の子たちもお見舞いに来たみたい。中々、愛されているようで母親としてそれなりに鼻が高いわ」

「俺が愛されているというより、クラスの連中がお人好しばかりだってだけだろう。俺も誰かが入院したら冷やかしついでに見舞いには行く気はあるし」

「フフッ。素直じゃないわね」

 軽く微笑んだ母親は椅子に座ったまま、見舞いの品であるリンゴを手に取り、そのまま齧り始める。

 息子への見舞い品に躊躇うことなく手を出す彼女に、仁は抗議の眼差しを向けるも涼しい顔で受け流される。

 尤も、彼も母親にそんな眼差しを向けたところで意味がないことは重々承知の上。

 ため息交じりにバナナを手に取り、皮を剥いて食べる。

「バナナ、ね。どうせなら唾液塗れで頬張ってみせなさいよ。撮影したらそれなりに需要があるかもしれないわ」

「そんな物に需要を求めるな。というか、需要があったらむしろ困る。俺のそういうシーンは安くない」

「それもそうね。私も、息子のそういうシーンはそれなりの値段じゃないと納得できないわ。言い換えると、それなりの値段なら売り捌いてもOKということだけれど」

「わざわざ言わんでいい。ところで母親よ、あの後、どうなったのか詳細を聞いてもよろしいでしょうか」

「何処から聞きたいの? 私と校長が死闘を繰り広げた話? それとも古の幻獣の乱入によって阿鼻叫喚になった辺り? あるいは戦勝記念パーティーを開いている際中に真の魔王を名乗る青白い偉そうなおっさんが現れた話?」

「俺が寝ている間に凄いことが立て続けに起こっていることに、衝撃を隠すことができないんだが。というか青白い偉そうなおっさんってなんだ?」

「さあ? 確かにあの人も魔王だったけれど、それはもう昔の話。今はあの人の弟が魔王をやっているはずだから、こっちにちょっかいを掛けてくる理由も必要もないはずなんだけれど」

「そうだよなー。って、おい、母親。またも息子として聞き逃すことができない単語を口にしていると自覚しておりますか?」

「あら、そんな単語、口にしたかしら? ごめんなさいね。最近はちょっと私も年老いてきちゃったから、物覚えが悪くなってしまっているの」

「老婆心を働かせる程度には年老いていることは知っている。だがそんなことよりも我が父が元魔王だとか、わけのわからないことを言われたような気がするのだが」

「そうなのよー。聞いてくれるかしら? 私が以前、勇者をしていた時の話なんだけど、女勇者だからって見縊るような連中が多くてねー。面倒だから片端から潰して回っていたら、いつの間にか私のことを魔王だなんだって呼び始めるバカどもが現れる始末。私だって向こうの都合で召喚されただけの被害者なのに、酷いと思わない?」

「あっ、えっと」

「まあ召喚されたからこそ、あの人と出会うことができたというのもあるにはあるんだけどね。ほんと、最初は魔王という名が独り歩きしているだけの雑魚だと思っていたのに、私の予想に反して物凄く強くって、私もついつい、本気になって――」

 始まったのは夫婦の出会いという名の惚気話。

 他人の惚気話を聞くのは仁にとっても苦痛であり、ましてそれが両親の惚気話となれば破壊力は数段増す。

 更に耳に胼胝ができるほど、聞き飽きている内容を真面目に聞く義務義理は存在せず、仁は母親の話の大半を聞き流してバナナを齧る。

「ちょっと、聞いているの。仁」

「聞いているような気がしているが、たぶん聞いていないと思われマッスル」

「正直でよろしい。デコピン一発としっぺ一発、どっちがいいかしら?」

「それは頭を吹き飛ばされるのと、腕を衝撃で切られるのとどっちがいいという問いですか? それならば腕の方を選びまするが」

「そこまで強くする気はないわよ。もしも加減を間違えてもここは病院よ。その程度のことならば問題なく処置できるわ。たぶん」

「そこは自信を持って欲しかったでござりまする」

「最悪、保険医にでも頼めば改造人間? として蘇らせてもらえるでしょう。ついでに私たちの血肉を使ってパワーアップとか?」

「いや、真面目に息子に何をしようとしているのですか、母親」

「やーねぇ、ちょっとした冗談よ。母親ジョーク。このくらい、息子なら見抜きなさいよね。ほんと、未熟者なんだから」

 リンゴを食べ終えた母親が次に手を出すのはパイナップル。

 見舞いの品として丸ごとパイナップルを送るのはどうなのだろうと、仁が疑問を抱いている間に母親はパイナップルを皮ごと歯で食い千切り、飲み込んでいく。

「その食べ方はどうなんだ、母親。ぶっちゃけ息子としては見ていられないような、というか見たくないような光景なんだが」

「新鮮で美味しいわよ。新鮮かどうかはわからないけど」

「いや、そんなことはどうでもいい。それより、話を戻すぞ」

「私とあの人との馴れ初めのこと? 良いわ。アレはそう、私が勇者として初めて魔王たるあの人と相対した時のことだけど――」

「そんな戯言に聞く耳を持つ気はない。俺が聞きたいのは校長とのバトルだ。古の幻獣のことも気になるが、まずはどうして母親と校長が殺り合うことになった?」

「校内で生徒に手を出すのを看過するわけにはいかん、なんていちゃもんを付けられたからよ。失礼しちゃうわよね。私はただ、あの子たちがどれくらい強くなったのかを確かめようとしただけなのに」

「……いや、マジで何をしてんだ、母親。もしかしなくても理香や東間に手を出したりしたのか?」

「手を出していないと言えば嘘になるけど、殺す気なんて初めから無いし、後遺症が残るような下手な真似もしていないわ。そこは安心しなさい」

「母親の腕は信じている。だが、どうしてそこまで気を遣ったのかは気になる。やはり血の繋がりのない子供にはある程度、遠慮するのか?」

「だってあの子たちに下手な真似をしたら、貴方が私のことを殺そうとするじゃない。当然、貴方がどれだけ限界を超えようと返り討ちにできるけど、文字通り、死ぬまで私を殺そうとするんでしょう?」

「流石、母親だけあって息子のことをよくわかっているようだな」

「当たり前よ。ちなみに、二人とも私の予想以上に成長していたわ。他にも伸びそうな子たちがたくさんいたし、今年も豊作なようで何より。魔境の未来は安泰だわ」

 パイナップルを食べ尽くした後に彼女が手を伸ばしたのはメロン。

 先と同じく、皮ごと果肉を貪るその姿を父親に見せたらどのような反応を示すか。

 想像した仁は褒め称える姿しか思い描けず、深く大きなため息をつく。

「ため息ばかりついていると、癖になって事あるごとにため息をつくようになってしまうわよ、マイサン」

「ため息をつかせる原因に言われてもな。あと、メロンは残して欲しかった」

「あら、メロンが好物だったかしら? そんな記憶は無いのだけれど」

「いや、何処かの高級メロンとか嘘をついてネットで売ればそれなりに高値になるかなとか考えていただけだが」

「妄想にしても出来が悪いわよ。というか、そんな簡単に売れるわけないじゃない。そんな物に飛びつくようなバカ、そうそう見つからないわよ」

「ネットの海は広大だ。探せばバカの一人や二人はあっさり見つかる。といっても、マジで買おうとされたらそれはそれでドン引きものだから、やっぱり売らないってオチになりそうだが」

「意味のないことをしようとするんじゃありません。人生は短いんだから、無駄に使える時間なんてほとんど無いのよ」

「父親と母親がイチャイチャするのは無駄な時間じゃないのか?」

「全てにおいて優先すべき大切な時間よ。それに、もしかしたら三人目ができるかもしれないじゃない? 今度は弟と妹、どっちがいい?」

「どっちでもいいが、紗菜みたいな感じになるのだけはやめて欲しい。紗菜が二人になったら流石に面倒見切れん」

「弱音を吐くことを許されるのは長男以外なのよ。長男は我慢しないといけないの。次男では我慢できないことも、長男は我慢するべきってある名作に書いてあったわ」

「好きで長男に生まれたわけじゃない、とか言って反論するのは有り無し?」

「無しよ。そもそも長男に生まれたことを不幸と思うか、幸運に思うかは自分次第。それに仁だって、なんだかんだ紗菜のことを可愛がっているじゃない」

「アイツは俺の妹だからな。そこだけは違えることはない」

「よろしい。しっかりお兄ちゃんをやっているようで、お母さんはそれなりに安心できるわ。これからも――」

 唐突に言葉を区切った刹那、窓ガラスを突き破って部屋へと侵入する影が一つ。

 空中で見事な脱衣を披露し、そのまま仁のベッドへと飛びつかんとする涎塗れの紗菜を母親は一瞬で着替えさせ、頭を鷲掴みにする。

 悲鳴を上げることさえできず、頭蓋骨を絞めつけられた紗菜は数秒後に失神。

 彼女の意識が完全に途絶えたことを確認した母親は、空いている方の掌を破壊された窓ガラスへ向ける。

 たったそれだけで時間が巻き戻るが如く、四散したガラス片が集まり、数秒後には窓ガラスが元の形を取り戻す。

 僅か十秒にも満たない時間で起きた出来事。

 本調子でないことも手伝って、呆気に取られている仁に対し、母親は先程までと変わらぬ口調と態度で話を再開する。

「これからもこの子のことをしっかりと頼むわね、お兄ちゃん?」

「……母親、俺は兄として本当にやって行けるのか、自信が無くなってきた」

「ちょっと、ダメじゃない。こんな程度のことで自信を喪失するなんて。もしかしてまた一から鍛え直して欲しいとか、そういうことを期待しているのかしら?」

「それは無い。が、あるいはその選択肢も視野に入れなければならないのではと悩み始めている今日この頃。俺はどうするのが正解なのだろうか」

「そんなこと、私にわかるわけないじゃないの。というか本当に大丈夫? いつもなら二つ返事で断っていた再特訓を容認するとか、私が思っているよりも疲れが溜まっていたりするの?」

「かもしれない。いや、すまない、母親。ちょっとだけ待ってくれ。すぐに俺自身を再起動させる」

 思い切り叩くのは己の両頬。

 赤く腫れあがるほどの一撃を叩き込み、痛みによって自分自身の復活を促す。

 ただ、気合いこそ入ったが疲労感は未だ全身に残留しており、まだ完全には調子を取り戻せないことを実感しつつ、仁は両親との地獄の特訓のことを思い出し、二度とあの日々には戻るまいと強く決心を固めた。

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