第四百九十二話
その世界が夢であることを自覚できたのはあまりにも異質なものに溢れ返っていたからか、はたまた彼の脳が無駄に冴えていたためか。
形容できない謎の生物たちが跋扈する赤い世界。
仮に正常な人間が訪れたならば、確実に発狂するであろう不可思議で歪が過ぎる真紅の地獄に仁は孤独に佇む。
何かするわけではない、何かできるわけでもない、ただただ無為かつ無意味に過ぎていく時間。
だが夢である以上は終わりが来るのが自然の道理。
例え体感時間で十年、二十年、百年、千年の歳月が流れようと、仁は耐え忍ぶ。
平均より高い程度の忍耐力でやり過ごせたのは偏に彼が狂っているから。
もしも理香や東間がこの場を訪れたのなら果たして耐えることができたであろうかと、何の意味も無い想像を膨らませている最中に現実の彼は目を覚ます。
「……夢か」
目を擦り、付着した血液に首を傾げながら起き上がった彼が最初に見たのは血液。
血の海と呼ぶに相応しい、ベッドを侵食する赤黒い液体は彼の両目や両耳、鼻や口より垂れ流されているもの。
「ああ、そうか。アレに目を通した反動か。まさか一晩中続くとは」
自覚したと同時に襲ってくるのは貧血の症状。
明らかに血を流し過ぎたがため、立って歩くことさえ困難。
が、そんなことは慣れているので歩けないならばと彼は躊躇なく地面を這い、器用に階段を下って一階へ降りる。
もちろん、その間も血は流れ続けているので廊下や階段は彼の血で染まってしまったが、今の仁にそのことを気にしている余裕はない。
だからこそ通信を使うなり、大声で叫ぶなりすれば一号やアストを呼べるという単純なことに気付けず、結局は居間にたどり着いた時点で力尽き、母親に治療されることでようやく安堵の息を吐く。
「やれやれ。助かったぜ、母親。この借りは以前の奴で清算できていたってことでOKだよな?」
「息子を治すのに貸し借りなんてケチなことを言うつもりはないわよ。それに、ちゃんと治療してなかったから今朝も噴き出してしまったようでもあるし」
『マスター、造血剤です。どうぞ』
「ご命令通りぃ~、いちご味ですよぉ~」
「うむ。ご苦労。感謝する」
差し出された赤黒い液体入りのコップを手に取った仁は中身を一気飲み。
常識のある人間ならば確実に拒否するであろう液体を飲み干してみせた彼は盛大なゲップを漏らす。
家族しかいないからこそできる芸当。
あるいは理香や東間、神凪や華恋たちの前でなら同じことを平気でやって殴られていたかもしれない下品な振る舞いに、母親は嫌悪を示す。
「ちょっと、親しき中にも礼儀あり、よ。そもそも家族の前でキチンとマナーを弁えられないような子が、社交界にデビューできると思っているの?」
「する気はないし、する機会もない。名門校とかに通えばワンチャンあるかもしれないが、学力はともかく内面で確実に落ちる自信がある。むしろ俺を落とさないような教師がいるような学校はこちらからお断りだZE!」
『流石はマスター。ご自身のことを深くご理解されているようで』
「私がぁ~、面接官でもぉ~、ますたぁ~のことは躊躇いなく落としますねぇ~。でもでもぉ~、面接の無い学校ならぁ~、行けるんじゃありませんかぁ~?」
「一ヶ月、通えたら奇跡のレベルでしょう。それこそ、個性最優先で他はどうでもいいとかいう学校でもない限り、問題を起こし続けて即退学でしょうね」
「まあ単に卒業したっていう証が欲しいだけなら裏から手を回すだけでどうとでもなるし。面倒臭かったら両親を使えばいい」
「私やあの人の名前は安くないわよ」
「息子の金で豪遊しているクソどもの名前なんて簡単に買ってやるよ」
「言うじゃない。私たちだってちゃんと稼いでいるわよ。まっ、貴方ほど稼げていないのも事実なんだけれど」
「それなのにぃ~、ますたぁ~はぁ~、学校でぇ~、危険な仕事を引き受けたりするんですよねぇ~、何故でしょうかぁ~?」
「コネ作りが主な目的。後はまあ、学校の金で旅行行けるとか、背徳感が快感となって押し寄せて来たり来なかったり」
『まあ、お金はいくらあっても問題ありませんし、使い方次第でもありますから』
「むむぅ~、納得できるようなぁ~、納得できないようなぁ~」
「それより仁、そろそろ出掛けないと遅刻するわよ。理香ちゃんたちにも置いて行かれたくはないでしょう」
「ぬっ。もうそんな時間か、一号、朝食、お手軽なの」
『畏まりました』
恭しく一礼した一号は即座に台所へ移動。
手早くおにぎりを作り、お茶と一緒に仁の前へと持ってくれば、彼は目にも留まらぬ速さでおにぎりとお茶を丸呑みにする。
ただ、流石にお茶が入った湯飲みまでは呑み切れなかったらしく、口の中に手を突っ込んで湯飲みを取り出し、むせながら洗面所へ向かう。
歯磨きしながら洗顔も済ませ、鞄を片手に玄関の扉を開けてみれば、巨大なアメーバ状の生物が立ちはだかる。
若干、興味を引かれた仁であったが、今は登校の方を優先すべきと判断。
アメーバ状の生物を踏みつけ、天高くへと跳び上がるも、攻撃されたと認識したらしいアメーバ状の生物が自身の体を伸ばして仁の右足を絡め取る。
「チッ。面倒な」
「仁、忘れものよ。受け取りなさい」
舌打ちした彼が何かする前にアメーバ状の生物は破裂。
刹那、凄まじい速度で空を切り裂きながら飛翔するのは書類の入った封筒。
下手をすれば頭部を切り取っていたかもしれない、鋭い一撃を仁は片腕を犠牲に受け止める。
「じゃあ任せたわよ」
「別に構わないが、下手をすると死んでいたぞ、今の」
「この程度で死ぬような子を産んだ覚えは無いわ。まあこれの後始末は私がやっておくから、早く学校に行きなさい」
「後始末って、今ので終わったんじゃ――」
彼が言葉を紡ぎ切る前に破裂したアメーバ状の生物の破片が集合。
元に戻ったアメーバ状の生物は母親を敵と認識し、その体を包み込む。
「どうやら、思っていたよりもしぶとい生命体のようね。何処かの邪神が産み落とした忌み子か何かかしら?」
「様子見をしているところ、言うべきかどうか迷ったが言うことにしよう。なんか溶かされているように見えるんですけど、大丈夫ですか、母上様」
「…………まさか、私の心配をしているの? 私がこんなのにやられるとほんの僅かでも考えているの?」
「戦いに絶対はありませぬ。どれほど低かろうと、宇宙の中から目的の砂粒を一秒以内に探し出せる可能性よりも低かろうと、起こらないという保証はないでござる」
「それはその通りね。だけど敢えて私はこう言いましょう。青二才の分際で、私の心配をするなんて百年早いと」
「百年なんだ。意外と短い」
「私たちの子なんだから、百年程度なのは当然でしょう」
信頼の込められた眼差しに、仁は少し照れ臭さを感じ、逃げるように走り出す。
その背後、凄まじい轟音が響き渡すのを肌で感じるが、誰が何をしたのかわかり切っていたので敢えて振り返るような真似はせず。
あるいは先程、自分で言ったように低過ぎる可能性の方が的中したということも否定はできないが、仮にそうだとしても母親は無傷もしくは掠り傷で済む。
どれだけ死亡フラグを建築しようが、相手がどんな存在であろうが、真正面から蹂躙する。
そんな相手をどうやって惚れさせたのか、結婚して子供を産むところまでこぎ着けたのか、改めて父親の偉業に畏敬の念を抱きつつ、彼は理香と東間に追いつく。
「おう、薄情者ども、久しぶりだな。この俺に復讐される心の準備はOK?」
「朝から意味がわからないくらいハイテンションだね、仁」
「なんで私たちが復讐されないといけないのよ」
「俺が遅くなったのに、お前等は待たずに先を行ってしまった。これは俺に復讐されたいという懇願と判断。俺は何か間違っているだろうか」
「全部が間違っていると思うよ。もしくは存在自体が間違いとか?」
「アンタも随分なことを言うわね。まあ発言が間違いだらけっていうのは私も同意してあげるけど」
「幼馴染みたちの非道なる言葉の刃の数々。受け流すこともできず、直撃した俺の心はボロボロになってしまった。鬱だ、女子更衣室を覗こう」
「鬱になるのはアンタの勝手だけど、女子更衣室を覗いてどうするのよ」
「勘違いするな。俺が覗くのは大学の女子更衣室だ。断じて我が校の女子更衣室などではない。そこを勘違いされては困るのだよ」
「犯罪であることに変わりは無いと思うけど」
「甘いな。高校生が大学の女子更衣室を覗く。それ自体は確かに言い逃れできない犯罪行為と言えよう。だが、大学に詳しくないとか言い訳を並べて間違って覗き込んでしまったとか言い張ればもしかしたら許されるかもしれん!」
「その時は警察にアンタなら絶対やると思ったって証言してあげる」
「僕も、仁は大学について詳しく調べてから覗きを実行しましたって証言する」
「友達の無罪を信じるどころか、嘘の証言で有罪に追い込もうとする。そんなお前等のことを俺は心から愛している」
「はいはい、私も愛しているわよ」
「ようやく、正直になったね、二人とも。結婚式はいつかな? 僕もスピーチの練習とかしておかないと」
雑談で盛り上がりながら通学路を行く少年少女たち。
普段と変わらぬ光景に、敢えて違うところがあるとすれば、小学生の群れを襲っているのが珍妙な化け物という点か。
見知らぬ生物は外来種か、それとも突然変異種か。
攻撃しても通用せず、何人か呑み込まれてしまった様子ではあるが、小学生たちの瞳に諦めの色は見られず。
むしろ手出し無用と、意地と根性で謎の化け物に挑んでいく彼等をスマホで撮影するのは通りすがりの中学生たち。
自分たちも通ってきた道なのだから、小学生たちに手を貸す必要は無いと言わんばかりの彼等の態度はある意味では世も末と言えそうな光景だったが、彼等同様に手を出すのは無粋と判断した仁たちもまた一瞥しただけで通り過ぎようとする。
「だが、そこに待ったを掛ける男がいた」
「なによ、仁。珍しいわね。アンタがああいうのに朝から関わろうとするなんて」
「もしかして賞金首とか? それとも校長先生に頼まれたの?」
「どっちでもない。だがあの生物は珍しいかもしれん。できれば捕獲してサンプルとして地下に閉じ込めておきたい。監禁して可愛がりたいというこの気持ち、正しく愛だと叫んでおこう!」
「ヤンデレみたいなことを言わないの。大体、捕獲ってそんな簡単にできることじゃないわよ。何処かのモンスターをハントするゲームじゃないんだから」
「そうだよ、仁。落とし穴とか痺れる罠とか、そういうのに引っ掛かっている間に麻酔を打ち込んだところで捕獲できるとは限らないんだよ」
「これだから田舎者は、夢が無いなー。そんなお前等に俺が夢を見せてやる。具体的にはまず小学生たちを囮にして――」
「却下。というか、決着がつくみたいだよ」
「うん?」
東間が謎の化け物を指差した瞬間、リーダー格の小学生が振るった強烈な一撃が頭蓋を打ち砕く。
頭部を破壊され、息絶えたらしい謎の化け物は横倒しとなり、その間に呑まれていた小学生たちが自力で脱出。
中には胃袋を二つに裂いて、腹部から無理やり出てくる血塗れの豪傑もおり、彼等の雄姿を見た理香が歓喜に身を震わせる。
「良いわね、あの子たち。是非とも道場に入門してくれないかしら」
「毎日、ってわけじゃないけど、彼等もよく襲われているからね。嫌でも強くなるしかないってことかな」
「懐かしいなー。俺たちもガキの頃は似たような体験をしてきたよな。主に東間と理香のせいで」
「アンタのせいでもあるでしょう。無駄に敵を作ったりして」
「僕が一番、マシだったと思うよ。まあ誘拐未遂や誘拐された回数なら僕が圧倒的ではあるんだけど」
「理香を誘拐すると師範が地獄の底まで追い駆けてくることがわかってからは、理香を狙う奴が極端に減ったよな。いやー、あの頃は本当に恐ろしかった」
「昔のことをいつまでもネチネチと言わないの。そもそも、サンプルとして捕獲するとか言ってなかった? 今なら死体だけは確保できるわよ」
「おっと。そうでしたな。我としたことがうっかり。新鮮なのが欲しかったというのが本音ではあるものの、死体でもまあ我慢しておこうと、大人な発言をしておこう」
「いいから早く済ませて欲しいんだけど」
「ういうい。せっかちさんめ。そんな東間きゅんも大好きと公言しつつ、これ以上はマジで怒られそうなのでおーい、そこの小学生たちー、我と交渉しませぬかー!」
手を振りながら走り寄る仁に小学生たちは警戒を示す。
直後、死んだはずの謎の化け物が起き上がり、注意を仁へと向けていた小学生たちを強襲。
油断はしていなかったが、仁のせいで反応が遅れた彼等は不意打ちによって蹴散らされ、再び彼等を食らわんとする謎の生物の顎を乱入した理香の蹴りが打ち砕いた。
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