第四百九十一話

 母親に陰陽師風の少年が何を依頼したのか、物理的に耳を塞いでいた仁の耳に届くことは無い。

 ただ、母親は彼の告げた仕事について何故か乗り気となり、彼等が居間へと移動したことを気配で察した仁は背後から襲い掛かって来た全裸の紗菜を迎撃。

 意識せず、流れるような動作で実妹を倒してみせた彼の表情に浮かぶ感情は無。

 一応、アストが紗菜に対してやり過ぎないよう注意及び一号に監視を命令してから自身も風呂を済ませようと浴室へ向かう。

 服や下着を脱ぎ、髪や体を洗ってから湯船に浸かって今日の疲れを溶かす。

「……まさかとは思うが、アイツ、風呂に入っていくつもりじゃないよな?」

 当然ながら虚空への問い掛けに答える者はいない。

 仁も返答など期待はしておらず、適当なタイミングでお風呂から上がる。

 パンツ一丁で駆け回るのも気分的には有りだったが、お客様――と呼んでいいのかわからない人物が居座っているため、手早く寝間着に着替えて脱衣所を出て冷蔵庫から牛乳を取り出し、一気飲み。

 咽喉を潤している最中、居間より話し声が聞こえてこないことと、気配が一つだけになっていることから話し合いが終わり、彼が去ったことを認識。

 何がどうなったのか、両者の話し合いの結末について気にならないと言えば嘘になるものの、それ以上に巻き込まれたくないという気持ちが強かったため、仁は寝室へと歩いて行く。

「待ちなさい、仁。お話があります」

「俺には無い。明日も学校がある。早めに寝て、遅刻しないよう余裕を持って出発しなければならない」

「熱心に学生をやっているようで何より。でも、お母様の命令は絶対という、我が家の掟を忘れてしまったのかしら?」

「俺や紗菜にしか適応されない掟を急に作られても」

「あら、私にだって適応されるわよ。私は私の命令にキチンと従います」

「父親は?」

「あの人は良いのよ。だって私が選んだ夫なんだから」

「はいはい。仲良きことは美しきかな。じゃあおやすみなさい、母上様」

「ええ、お休みなさい。お話は明日、帰って来てからにしましょうか」

「母上様、今日まで育てて頂き、感謝します。俺は明日から師範の道場の跡を継ぐための修行に入りたいと思いマッスル」

「遂に覚悟を決めたのね。お母さん、寂しくもあり、嬉しくもあるわ。茶番はこれくらいにして、話を聞きなさい」

「ああ、逃れられない。慌てず騒がず落ち着いて」

「いちいち発狂しないの。まったくこの子は、不安定なのが安定しているというか、色々な意味で将来が気になる子ね」

「恐縮です」

「まっ、こういう無駄話は嫌いじゃないわよ。特に私たちは家を空けることが多いから、子供たちと話をする機会も少ないし」

「おかげで自由にやれております。その点だけは感謝していると言えないこともないかもしれませぬ」

「可愛い我が子が放任主義を受け入れてくれているのは素直に良かったというべきかしら。まあいいわ。話というのはさっきのあの子がしてくれた仕事の話よ」

「むしろそれ以外だったら驚き過ぎて小便を漏らしていたかもしれませぬぞ」

「汚いからやめなさい。まっ、私相手に値切り交渉とか、勇気あることをしたあの子供の評価は少し上げるべきかも」

「それは確かに、命知らずな真似をと苦言を呈しつつ、尊敬に値する行動かもしれませぬ。ちなみに母親はそんな彼をどうされましたか?」

「決まっているじゃない。勇者には、相応の扱いをしてあげないと」

 笑いながら手を振る母親の動作を見た仁はこの場で起きた惨劇を想像。

 別段、親しいわけではないが、決して殺したいとも死んでいいとも思っていない知人の最期に、同情の涙を流す。

「ちょっと。まさか私があの子の命を奪ったとでも考えているのかしら?」

「血の跡がないところを見るに、恐らくは跡形もなく消滅させたのでしょう。通報したところで、警官が全滅するだけでしょうから、無力な我は祈ることしかできませぬ。友ではないが知り合いよ、せめて安らかに天へと召されてくれ」

「失礼な子ね。私がそんな下手な真似をするわけないじゃない。ただ、ちょっと小生意気な小僧に仕置きとして、手足の骨を砕いて自力で立てなくしただけよ」

「マジでやっちゃっていたよ、この母親。冗談のつもりが冗談じゃ済まなくなってしまったでござるの巻」

「本当に失礼な子ね。交渉が成立した後にキチンと完治してあげたわよ」

「砕いた骨を?」

「当然じゃない。私の手に掛かれば死人だろうが蘇らせられるんだから」

 余裕の微笑みに満ち満ちている自信。

 ただの戯言と切って捨てるのは簡単だが、様々な意味で常軌を逸している母親ならば本当に死者蘇生も可能かもしれない。

 尤も、魂を呼び戻すことのできない形での死者蘇生の場合、ロクなことにならないのもお約束。

 そして母親は仮にできるとしてもいちいち死者の魂を呼び戻したりしないであろうため、彼女の手で蘇生させられた死体がどうなるのか、簡単に想像できてしまった仁は再び、同情の涙を流す。

「ねえ、わざとやっているのかしら、それ」

「当たり前なり。無駄話が好きだという母親のために、敢えて長々と話を引き延ばしてやっているなり。感謝して欲しいなり」

「OKよ。つまり非は私にあると。母親として受け入れましょう。でも、いい加減に本題に入りたいから、脱線したら首を切る。それでいいかしら?」

「ダメといったら?」

「頭を潰すわ」

「OKだ。母親よ、これより俺は理不尽な発言に対してのツッコミ以外は基本的に沈黙することを約束しよう」

「息子の選択を賢明と言ってあげる。仕事というのは邪神の完全復活の阻止よ。というわけで仁、邪教徒どもを殲滅して、不完全ながら顕現した邪神を潰しなさい」

「母親よ、貴女は息子に死ねと言うのか? 俺の実力は知っているだろう。百歩譲って邪教徒の殲滅は可能としても、邪神なんぞ相手にしたら瞬殺される」

「それは完全な形でなら、の話よ。聞いた話だと、偶然にも歯車と歯車が噛み合ってこちら側に出てきてしまっただけらしいから、今ならまだ大丈夫よ」

「それで大丈夫などと言える母親の精神が俺には信じられないでございまする。大体、仕事を引き受けたのは母親だろう。息子を使って楽をしようとするな」

「可愛い我が子の修行になると思って引き受けたのよ。まっ、確かにもしも復活が進めば今の貴方たちでは勝ち目がないでしょうね。例え相手が名も無き邪神であろうと神の力は決して侮っていいものではないわ」

「母親が素直に認めた。これは裏があると俺の本能が叫んでいる」

「理不尽発言へのツッコミ以外は口を開かないんじゃなかったの?」

「あくまで基本的ですので」

「じゃあこっちは私が片付けておくわね。場所も特定できているし。五分もあれば十分でしょう。というわけで、貴方はもう一つの仕事を片付けて欲しいの」

「待ちたまえ、母親。彼奴は二つも仕事を持ってきたのですかな?」

「いいえ、一つだけよ。こっちは私が元々、引き受けた上で中途半端にしたまま放置していたもの。それを片付けて欲しいのよ」

 ウインクする母親の態度から仁は先程の仕事は最初から任せるつもりがなく、これから話す仕事こそが本命であることを悟る。

 といっても悟ったからと言って逃げるという選択肢は既に失われており、仁は覚悟を決めて唾を呑み込む。

「それで、俺は誰を殺せばいい?」

「そんな物騒な話をする気はないわよ。仕事と言っても至極簡単、書類整理を頼みたいの。いいかしら?」

「……書類整理?」

「そっ。私ってこういう事務仕事はあまり得意じゃないの。その点、万能型のバカ息子ならこういうこともこなせるでしょう」

「まあ、人並み程度には」

「そういう謙遜は要らないわ。じゃあ早速、寝る前に任せていいかしら? それとも明日、帰って来てからにする?」

「確認するが、大量、というわけじゃないんだよな?」

「ええ」

「さっき言ったように、俺が人並み程度の書類処理能力を有していると仮定して、母親の見立てでは、どれくらいで終わると思う?」

「そうね。調子が悪くなければ三十分くらいで終わるんじゃないかしら? あくまでもスムーズに捌ければの話だけれど」

「…………わかった」

 表情を変えない母親に、得体の知れない怪しさのようなものを覚えつつも、仁は迷いの果てに小さく頷く。

 それを見た母親は軽く指を鳴らし、空間の裂け目より現れた封筒を仁に手渡す。

「じゃあ、これを頼むわね。それで、今からやるの?」

「本当に三十分で終わるのなら」

「そっ。それなら私は今の内に仕事を片付けてくるわね。帰ってきたらどれくらい進んだのか、様子を見てあげるから」

「気を付けて、と言っておく」

「フフッ。子供に心配されるのは嬉しいわね。行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 一瞬の内に姿を消した母親に、仁は肩をすくめる。

 五分もあればと言っていたが、彼女の実力なら邪神を葬るのも合わせて二分以内に遂行可能。

 もちろん、遊びを始めたり、やる気が無ければ話は変わってくるが、名も無き邪神程度ならそれこそ、赤子の手を捻るようなもの。

 出発したと思ったらすぐに帰ってきた、などということも考えられるため、文句を言われる前に少しでも整理しておこうと、封筒を開けて書類を取り出す。

 表紙には特に変わったところはなく、強いて違和感を上げるとすれば手触りが独特な点。

 が、表紙をめくり、記された文章を読み始めた仁の脳を何かが過ぎていく。

 不快感を直接、脳髄に叩きこまれるような気持ち悪さ。

 少しでも気を抜けば胃の中のものどころか、小腸や大腸にある物体まで逆流させて口から吐き出してしまうほどの猛烈な吐き気。

 気が付けば平衡感覚を失い、立っていられなくなった仁はうつ伏せに倒れる。

 それでもと、意地と気合いで書類を読み進めていくが、結局は一枚目を全て読み終わる前に肉体が限界に達し、両目と両耳、鼻と口から血が溢れ出す。

 精神はまだ負けを認めていないが、既に指先の感覚さえ失っており、真っ赤に染まった両の眼から得られる情報は無し。

 けれども脳内に直接、送り込まれる不快感と情報は止まることが無く、脳の回路全てが焼き切れそうになっても情報の津波は容赦なく彼を襲う。

 死を覚悟した彼は刹那、そんな覚悟を決めてしまった己自身を恥じ、たかが書類に殺され掛けているという事実を受け止めながらも意地で攻略を誓う。

 その甲斐あって一枚目の書類の内容全てを把握し、二枚目に突入。

 ただしそこが彼の本当の限界。

 正確には限界を突破してたどり着いた、新しい限界とでも言うべきもの。

 血反吐で床を濡らし、気付けば歯が数本、砕け、髪の毛のほとんどが抜け落ちていたが、それでも彼は止まらない。

 自分では止められない彼の自殺行為を止めたのは案の定というか、様子を見に戻って来た彼の母親。

 床に這い、生ける屍に近い状態となっている我が子を前に彼女は特に感想らしい感想を抱いた様子も見せず、彼の手元にある書類を奪い取る。

「及第点、くらいはあげてもいいかもしれないわね。初見で一枚目を読み終わったわけだし、そこだけは褒めてあげる」

 もはや口を動かすことさえできない、己の血の海に沈む息子へと手をかざす。

 途端、死ぬ寸前だったその肉体は時間を逆行させるが如く再生を果たし、床に染み付いていた血液も、砕け散った歯も、抜け落ちた髪の毛も全てが元通りになる。

 あるいは幻覚でも見せられていたのかもしれないと、疑いたくなるほど何も起きていない状態へと戻された仁は内心で戸惑いつつ、母親の持っている書類を睨む。

「なあ、母親。それは何なんだ?」

「私が処理を頼まれた書類よ。この私がわざわざやるんだから、普通の書類じゃないことくらいは最初からわかっていたでしょう?」

「それはその通りだが、同時によもやここまで危険なものを押し付けられるとは思わなんだ。ぶっちゃけ俺みたいに、とにかくしぶといことが取り柄の奴だったからこんな物を読んでも生き残れたのではなイカ?」

「まっ、そうでしょうね。たぶん紗菜だったら死んでいたわよ。あの子、攻撃に特化しているせいで耐久力は並だから。それで、負けを認めて引き下がるのかしら?」

「冗談じゃない。面倒事は御免だが、たかが書類如きに殺されそうになったとあっては俺の限りなく薄っぺらいプライドに傷がついてしまう」

「限りなく薄っぺらいのなら、無いと同じじゃないの?」

「薄っぺらくてもあるのだよ、何故か。ともかく、母親よ。その書類を渡してくれ。今日中に攻略できるところまでは攻略する!」

「そっ。せいぜい、頑張りなさい。死にそうになったら治してあげるから」

「お頼み申す。では、参る!」

 母親に見守られる中、仁は再度、奇妙な手触りの書類を読み始める。

 読めば読むほど不快感は増していき、死ぬ寸前になってから母親の手で蘇生。

 それを五回ほど繰り返し、心身ともにどうしようもないほど疲弊した仁は遂に倒れて動かなくなってしまい、仁の努力を見守っていた母親は彼を担ぎ、部屋にあるベッドまで運んだ。

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