第四百八十話
取り立てて面白いと思えるような報道は無く、時間だけが刻一刻と過ぎていく。
女性の入浴時間は長い、などと一概に決めつけるようなことはできないが、アストの入浴時間が通常時よりも長いことは事実。
故に彼は朝食を諦め、買い置きされていたパンを複数個、腹に収めた後、鞄を片手に家を出る。
「んじゃ一号、後よろしく!」
『行ってらっしゃいませ、マスター!』
浴室方向からの返事に仁は軽く手を振りつつ、玄関の扉を閉めてスキップしながらいつもの道を進む。
道中で理香や東間と合流し、学校に到着後はクラスメイトたちに挨拶を済ませてからのんびりと授業を受ける。
貞娘先生の授業は真面目に、リューグの授業はあからさまにふざけた態度を取ってはわざと制裁を受けるなど、お世辞にも授業態度が良いとは言えない彼を注意するのは委員長である黒澤と幼馴染みである理香だけ。
それ以外の生徒はいつものこととして完全に流しており、相手をすることはおろか視界に入れようとすらしない者たちまでいる始末。
尤も、あくまで慣れているだけで彼を嫌う者はクラス内にはいない。
クラス全体の仲が良い、というのもあるが、真っ当な人間が極めて少ないというのも少なからず影響しており、なおかつクラス内が黒澤に統一されているというのも大きいか。
下手に騒ぎを大きくしたり、問題行動が過ぎれば粛清される。
どういった形でかは誰も知らず、粛清された者たちも決して口外はしない。
わかっていることは肉体に傷一つ付かないことと、精神に致命的なダメージを負うということだけ。
だからこそ彼女がこのクラスの主と言える立ち位置に居り、仁たちも本気で逆らうことができない。
知らないこと、わからないことは恐怖の根源。
そんな謎の粛清を行う黒澤にとって仁を諫めることなど容易い。
例えそれがリューグの前であっても仁は借りてきた猫のようにおとなしくなり、急に跪いて命乞いでもしそうな雰囲気を発する彼にリューグは頭を掻きながら深いため息をつく。
「先生、どうかされましたか?」
「いや、なんでもない。助かった、ありがとう」
「いえ、この程度のこと、なんでもありませんから」
笑みを深める彼女に対し、リューグはなんとなく戦慄を覚えるも、教師としての威厳を保つために平静を装おう。
そんな彼をからかうことが仁の最大の楽しみの一つ――ではあるのだが、黒澤の前では何も言えず、仕方なく血涙を流す。
「ねえ、仁っちってばなんであんなに悔しそうなの?」
「あー、たぶん、自分の自由が奪われながら何もできないことを悔しがっている、といった感じのことを表現したいんじゃないかしら?」
「それで血の涙を流すって、相変わらず、変なところで凄く器用」
「まっ、あの涙が本物か偽物かはわからないけど、仁には良い薬かもしれないわね」
「そこ、私語をするな。授業を続けるぞ」
「はーい」
「すみませーん」
「ったく、えーっと、この続きからだったな。つまり――」
血涙を流す仁を無視して再開される授業。
リューグを始め、誰も気にも留めてくれないことに心が傷付いてしまった仁だったが、お昼休みになる頃には完全復活を果たしており、しかしお弁当を持って来なかったことに気が付いて絶望。
世界の全てを呪い、この世界を破滅に導くために暗躍しようと教室を出た直後、華恋の拳を直撃してノックダウン。
なお、華恋が不意打ちを行ったのは仁が妙な気配を発していたため。
本気か冗談かはさておき、ロクなことをしなかったことは確実であったので華恋の行動は軽く注意される程度で済み、一撃で倒れてしまった仁は東間の手で食堂まで連れて行かれる。
彼が目を覚ましたのは東間に連れて行かれてから数分後のこと。
あるいは既に目覚めていた状態で、わざと食事が運ばれるまで気絶していたフリをしていたのか、タイミングを見計らっていたとしか思えない瞬間に両目を開いた彼はスプーンを手にカレーライスを食べ始める。
「ちゃんと噛んで食べなよ。流し込むように飲むと体に悪いから」
「カレーは飲み物!」
「ちゃんと噛んで食べる」
「はい」
強気な態度での発言に東間は一切怯まず、反論を許さない口調で告げられた言葉に仁は素直に従う。
しっかりと噛んで食べることで胃には優しくなるが、時間には厳しくなり、最終的にカレーライスを食べ終わったのは昼休み終了十分前。
ほぼ同時刻に東間も昼食を食べ終わり、後片付けを行った彼等は教室へ戻っていく。
「にしても、委員長は相変わらずの迫力だったZE! この学校の影の支配者として君臨しているだけのことはあるんだZE!」
「委員長がいつ、この学校の影の支配者になったのさ」
「今日、俺がカレーを食べ終わった瞬間に」
「物凄く最近の出来事なんだね。そもそも、いくら委員長でもあの校長とかを従わせるのには無理があるんじゃないかな?」
「校長どころかまず華恋ちゃんで躓くだろうな。何せ華恋ちゃんは委員長からしてみれば天敵もいいところだし」
「そう、だね。華恋ちゃんは罠とか言葉責めとか、そういうのじゃまったく怯みそうにないし、
「というかその弱点も委員長か華恋ちゃんかなら、迷わず後者を取る。それで多少は狼狽するかもしれないが、その程度のことで揺らぐなら俺や理香が既に勝利を収めているだろうZE!」
「我が学年最強は伊達じゃない、ってことか。頼りになると言えば頼りになる。扱い難さは仁よりマシ、な程度だけどね」
「そりゃ、華恋ちゃんは危機や窮地は自力で乗り越えろ派だからな。自分に厳しいが他人にも厳しい、そこに痺れる憧れる」
「自分に甘く、他人に厳しいよりずっと良いとはわかるけど、もう少しくらいは甘くても良いんじゃないかなって思ったりはするかも」
「諦めるが良い。ところで次の授業って確か体育だよな? それも球技」
「他クラス合同、選択式のね。仁は何を選ぶの? 野球? それともバスケ?」
「ドッジボール。俺の火の球投球が火を吹くぜ!」
「まあ名前が火の球だから、火が出てもおかしくはないのかな? でもドッジボールはやめた方が良いと思うよ。あのガイオウ兄弟が出てくるらしいし」
「あのガイオウ兄弟がか?」
仁からの問い返しに東間は神妙そうな顔つきで首肯する。
彼がこういう場面で冗談を言うタイプではないことを熟知している仁は、かつてドッジボール大会にて見たことがあるガイオウ兄弟の試合を脳内にて再生。
そこから得たデータを参照し、自身の勝率を計算。
一秒と立たずに弾き出された結果に、満足そうな顔で大きく頷く。
「うむ。シミュレーションしてみたけど、勝てる見込みが欠片も無いからやめておくことにするか。というか、あの二人が出てくるドッジボールなんて他にやりたがる奴はいるのか?」
「いいや。だから兄弟で一騎打ちになるそうだよ。まあ本当にドッジボールを選ぶかはその時になってみないとわからないけど」
「そこで他の競技を選ぶとか、空気の読めない真似をしたら大ブーイング間違いなしだろうから、やらないと思うが」
「まっ、もしもの時は潔く諦めるしかないかもね。ちなみに僕は野球をやるつもり」
「むう。同じ物を選んでイベントスチルを回収するべきか、あるいは他の競技を選んで新たな出会いに期待するか」
「イベントスチルって何? 君には何が見えているの?」
「気にするな! まっ、誰がどれを選ぶのか、それを眺めてから決めてもさほど問題は無いだろう」
「でも、あまりにも時間を掛け過ぎると勝手に決められてしまうから、今の内に決めておいた方が良いんじゃないかな?」
「その通りだが、少しなら時間があるし、あまり急いで決める必要は無いという建前もあるからな。ならば俺はその建前に従ってやろうではありませんか」
「まあ別に、君が何を選ぼうと僕としては構わないけど。どうせなら君とは真っ向から試合してみたいかも」
「同じクラスだから、同じ競技を選んだらチームメイトになるぞ。それともどちらがよりチームの足を引っ張ったかを比べてみるか?」
「そこはチームに貢献したかを比べようよ。っと、仁は先にクラスに戻っていて。僕はトイレに寄ってから戻ることにするよ」
「了解。そして教室の扉を開けたら女子が着替え中で、覗き魔の烙印を押されるまでが校内でのハプニングイベントなり!」
「どんなゲームをプレイ、もしくは実況動画を見たのか割と想像がつくけど、現実にそれをやったら普通に犯罪者だからね」
「それがどうした、俺は俺の道を行く!」
東間から向けられる呆れの眼差しを背中に浴びつつ、競歩の如く決して走らないよう心掛けながら廊下を高速移動。
己の教室前までたどり着いた仁は躊躇いなく扉を開け放ち、クラスメイトたちの着替えを目撃。
その中に自らも入って行き、体育の授業に備えるべく早めに体操服に着替える。
「食堂。混雑?」
「いんや。空いてはいなかったが、普通といった感じだったか」
「普通って何だ? どういう状態だ?」
「普通は普通だろう。少なくはないが多くもない。我等の席を確保できる程度には席が空いていたということだ」
「食事。美味?」
「学食が不味かったらとっくに潰れているか、改造されているかだろう。そういうところには金を使うべきだし」
「確かにね。食事が不味いと勉学にも支障が出かねない。立派な体を作るのはまず食事からだ」
「おっ、もやしっ子のくせに偉そうに言うじゃねえか。そういう台詞はもっと筋肉を鍛えてからにした方が良いぜ」
「五月蠅いな。僕には僕のやり方があるんだよ」
「なんだか賑わっているけど、何かあったの?」
「東間、遅えぞ。何をしてたんだ? それとも仁の奴の罠に嵌められたとか?」
「この俺がそんなチャチな真似をすると思うてか! 恥を知れ、俗物!」
「いや、いつもいつもチャチな真似をしていると思うが」
「同意」
「右に同じ」
「みんな、酷い……シクシクシク」
クラスメイトの男子たちと一緒に着替えを済ませた仁は教室を出て校庭へ移動。
同じく更衣室にて既に着替えを終えていた女子たちと合流し、授業が始まるまで適当に話をして時間を潰す。
「そういえば、昨日はまた妙な夢を見たぞ」
「妙な夢?」
「どんな夢よ」
「地獄みたいな荒れ狂った景色の中によくわからない何かが出てきて、なんか夢魔っぽいのがいたから拷問に掛けようとしたら止められて、なんだかんだで夢の支配者になったと思ったら目を覚ました」
「理香、通訳」
「無茶振りしないでよ。私にわかるわけないでしょう?」
「東間」
「僕にも無理だよ。黛は?」
「理香っちにわからないことが私にわかるわけないっしょ。そもそも仁っちの言っていることなんて九割は流して問題ないわけだし」
「その通りだが、俺の目の前で断言するとは中々やるな。後で最後の晩餐としてレインボーパフェを奢ってやろう」
「やった!」
「最後の晩餐があの謎に虹色に輝いているパフェで良いんだ」
「アレ、原材料とか全部謎なのよね。わかっているのは本当にクリームも果物も全てが七色だって点だけだし」
「七色のイチゴとか、誰が食べるんだろうって言われていたけど、結構、注文する人が多いのも謎の一つだよね」
「ああ、アレは依存性が強い薬物を混入しているからだぞ。前にあの店のコックに体に無害で中毒性が高い薬物の作り方をレクチャーしたことがある」
仁の言葉に場の空気が凍り付くも、いつも通りの戯言として流される。
が、彼と縁深い幼馴染みたちは彼が偽りを述べているか、真実を述べているのかなんとなくだが判別可能。
だからこそこれ以上、この話を続けるのは危険を判断し、乾いた笑いを発しながらわざとらしく話題を変える。
「と、ところで理香は夢とか見なかったの? 例えば大食い選手になってこの世のありとあらゆる美食を平らげたとか」
「稽古後とかはたくさん食べることはあるけど、私に大食いの趣味はないわよ。そういう東間こそ、何か面白い夢とかは見てないの?」
「僕も特にはないかな。神凪君は?」
「きゅうり。至高」
「いつも通りの最高の夢を見ていたってことかな」
「神凪君はとにかくきゅうりさえあれば幸せだからな。安上りではあるが、ある意味では羨ましいかもしれない。などと言っている間に先生が来たでやんす」
仁が指差す方向より現れるのは四人の教師。
彼等の姿を見た黒澤は軽く手を掲げ、瞬間、雑談に興じていた全ての生徒が口を閉ざして整列。
統率された軍隊を連想させる、一糸乱れぬ連動した動きに教師たちはしばし唖然としたが、すぐに気を取り直して本日行う球技について軽く説明を始めた。
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