第三百九十一話

 それは一瞬の出来事か、はたまた永遠の繰り返しか。

 実際に何秒間、その場所にいたかは定かではなく、そもそも時間の概念が存在しているのかさえわからない。

 ただ一つ、判明しているのはそこが狭くはないということ。

 何故ならば悲鳴が反響しないから。

 入り口となっている穴は人間一人が通れる程度の大きさであったにもかかわらず、真っ逆さまに落ちていく理香の悲鳴は彼方へと消え去っていく。

 尤も、それがわかったからといって何かが変わるわけではなく、ひたすらに絶叫し続けた理香は衝撃とともに目と口を閉ざさるを得なくなる。

「おぉ~いぃ~、大丈夫ですかぁ~?」

「……はぇ?」

 間延びした呼び掛けに間の抜けた返事をした理香は両目を開けて目の前にあるアストの顔を凝視。

 その際に自身が涙目になっていることを知り、次いで自分がもう落ちていないことと、いつの間にか吸血鬼の少女の部屋に戻っていることに気付く。

「……えっと、アスト、私、何処?」

「混乱していますねぇ~。まあぁ~、仕方がないことかもしれませんがぁ~、そろそろそこから退かした方が良さそうですぅ~」

「退く? なんで? どうして?」

「すぐにわかりますよぉ~っとぉ~」

 混乱する理香をアストが力尽くで退かした次の瞬間、彼女が座っていた場所に勢いよく仁が落下。

 衝撃が部屋の中を軽く揺らし、目を白黒させている理香を見て仁が顎に手をやりながら軽く頷く。

「どうやら成功したようだな。ぶっつけ本番だったが、上手く行ったようで何よりと言って良いだろう」

「ますたぁ~、ぶっつけ本番ってぇ~、そんな危険なことをしたんですかぁ~?」

「俺は俺の作品に自信を持っている。故に危険には感じなかったが、何分、法則のわからない異空間で使用したことはなかったからな。それにもしもということは本番でこそ起こりやすい。だから用心していたが、今回は杞憂に終わったらしい」

「わかるようなぁ~、わからないようなぁ~、微妙な説明ですねぇ~。まあそれはいいんですがぁ~、理香さんにちゃんと説明したんですかぁ~?」

「無論だとも。俺の頭の中では一から十までキチンと説明した」

「それってぇ~、理香さんにはぁ~、ちゃんと説明していないってことじゃありませんかぁ~?」

「そうとも言う。だがこうして無事に脱出できたんだから、文句はないはずだ。惜しむらくは恐怖によって理香ちゃんが失禁する場面を撮影及び録画できなかったことだが、それはまた今度ということに」

 にこやかに、爽やかに、変態発言をする彼の顔面に突き刺さる拳。

 恐怖と怒りが混同した、感情の暴走による一撃を直撃した仁はおとなしくそれを受け入れながら後ろに倒れる。

「ア・ン・タ・はぁ……! 何を考えてんのよ! このバカ!」

「うぐぉ……おぐぁ……は、鼻が、鼻が痛い、口も痛い、目も痛い……!」

「要するにぃ~、全部痛いってことですねぇ~。まあぁ~、これもますたぁ~の自業自得ですからぁ~、同情はできませんがぁ~」

「うむ。俺も殴られる前提で変態発言したからな。ついでに怒りの鉄拳を打ち付ければ多少はスッキリするだろうと理香ちゃんのことを存分に思いやっての行動。褒められこそすれど、これ以上は責められたりはしまい」

「そういうことはぁ~、口に出されない方が良いですよぉ~。まあでもぉ~、収まりこそしてませんがぁ~、理香さんもぉ~、これ以上のことをする気は無さそうですねぇ~」

「……フン。アンタのバカ発言が本気じゃないことは私だってすぐにわかるわよ。でもいきなり穴の中に落とされたりしたら、一発くらい殴りたくなっても不思議じゃないでしょう?」

「おいおい。脱出のための通路に落としただけじゃなイカ。それなのに怒り出すなんて理香ちゃんは辛抱が足りんぞ。ちなみに俺が同じことをされたらやった奴を機械でひん剥いてバラバラにした後、改造して忠実な兵士へ変える」

「本気だと思う? 冗談だと思う?」

「半々ですねぇ~。ますたぁ~の場合はぁ~、その場の気分とかにぃ~、左右されることが多いですからぁ~、もしかするとぉ~、真面目に魔改造とかぁ~、施してしまうかもしれませんよぉ~」

「その通りだ。男の子はいつもいつでも本気で行動するべし。とまあ、こんなところでいつまでも話していると、隣の人や大家さんとかに嗅ぎ付けられる危険があるから、そろそろ撤退しようと思うのだが、如何に?」

「ええ、そうね――って、そういえばこの部屋、床下も元通りになっているわね。アレは結局、何だったのかしら?」

「何らかの転移装置が働いたといったところでしょうかぁ~。あるいはぁ~、呪いの類いが発動したのかもしれませんねぇ~。そうなるとぉ~、確かにぃ~、いつまでもここにいるとぉ~、またあちら側に引きずり込まれてしまうかもしれませんねぇ~、そういう意味でもぉ~、早く脱出した方が良さそうですぅ~」

「だな。では俺から脱出するから、おとなしく付いてくるように。特に理香ちゃんは物音を立てないように注意したまえ」

「注意するのはアンタの方でしょう。バレるかバレないか、そのギリギリの境界線にチャレンジするんだとか言い出しかねないじゃない」

「流石は理香ちゃん、俺のことをよく理解している、そんな理香ちゃんを俺は心の底から愛している」

「はいはいぃ~、どうでもいいですからぁ~、さっさと脱出しますよぉ~」

 彼等を促すと同時に率先して部屋から出て行くアストに続く形で仁と理香も玄関の扉から外へ脱出。

 周囲に誰もいないことをあらかじめ調べておいたのか、アストの足取りに迷いはなく、音を立てることにも躊躇はしない。

 だからといって油断していい道理はなく、アストを信用していないわけではないが仁や理香も常時、周囲を警戒しながら彼女の後ろに付いて行く。

「それでぇ~、ますたぁ~、これからどうしますかぁ~?」

「取り敢えずは校長に報告だな。幸い、死体の回収は済んでいるし、あの吸血鬼も捕獲している。任務は概ね、達成したと言って良い」

「言って良いのかしら? だってあの吸血鬼の女の子が無関係じゃないってことはハッキリしているとはいえ、黒幕とか、あの異空間については何もわかっていないじゃない。それにあの廃校とかも」

「行方不明者たちが見つかったんだから、最低限のノルマはこなしたということで調査自体は終了で良いだろう。というか、これ以上、無策に首を突っ込んだりしたらたぶん面倒なことにしかならない」

「それには同意。私もどうにも、嫌な予感がするのよね。この先は深淵に繋がっているっていうか、絶対にロクなことにならないっていうか」

「ますたぁ~や理香さんの勘はぁ~、十分に信じられる根拠となりますねぇ~。でしたらぁ~、これで私たちのお仕事は終わりということで良いんですかぁ~?」

「良い。というかこれ以上はできないというのが正しい。藪をつついて蛇を出す趣味もないし、観光でもして帰るとしよう」

「観光はするのね」

「じゃないと来た意味がない。まあ君子危うきに近寄らず、ってことで、ヤバそうな臭いのする場所を避ければ楽しめるだろう。もしもの場合は全力で逃げればいいだけだし、俺たちの逃げ足に追いつける脅威がこの街にいるとすれば、もうこの街は終わっているはずだしな」

「あるいはぁ~、街中が洗脳状態になっているかもしれませんよぉ~、例えばぁ~、予防接種とかいう理由でぇ~、寄生虫を注射されてぇ~、知らない内に支配下に置かれているとかぁ~」

「そういえばそんなホラーゲームがあったわね。いやでも、いくら事実は小説よりも奇なりといっても、本当にそんなバイオでハザードなことは現実に起こったりはしないでしょう?」

「保険医もしくは保険医クラスのイカれた研究者が関与しているなら起こり得る。逆にアレくらいイカれた奴が関わっていないなら、起きない」

「つまりぃ~、可能性が低いだけでぇ~、起きないって断言はできないって解釈で良いんですかぁ~?」

「まあ、な」

 神妙な顔つきの仁に違和感を覚えた理香は言及するべきかを迷う。

 もしかすると何か知っているのかもしれないが、それを口にしないのは確証が持てないためか、それとも確証があるから黙っているのか。

 問えば恐らく答えてくれる。だが何か知った上で敢えて黙っているということは相応の理由があるはず。

 それが触れてはならないことの可能性がある以上、教えてくれるまでは問い質すような真似は控えるべき。

 内側で結論を出した理香は仁に対して追及するような真似はせず、場の空気を和ませるためと、体に感じる疲労を少しでも取り除くために、たまたま見掛けたうどん屋へと走り出す。

「どうした、理香ちゃん。朝食はちゃんと食べたはずだが」

「そうだけど、結構、運動したから小腹が空いたというか、ちょっと早いけどお昼ご飯にしない?」

「ちょっとというかぁ~、お昼にはかなり早いですよぉ~。そんなにお腹が空いたんですかぁ~?」

「私、日頃からかなり運動しているせいか、割と燃費は悪い方なのよ。アンタたちがお腹減ってないって言うなら、我慢するけど」

「我慢は美容の大敵、ってな。まっ、腹が減っていないわけじゃないし、お昼になったら改めて何か食べるか話し合えばいいだろう?」

「ますたぁ~がぁ~、そうおっしゃられるのならぁ~、私は構いませんよぉ~」

「OKね。じゃあ行きましょうか」

 スキップでもしそうな軽やかな足取りでうどん屋に入る理香。

 入店した客をハキハキした声で出迎える店員に軽く手を振り、空いているカウンター席に腰を下ろすと追ってきた仁たちを手招きする。

「こっちこっち、早く座りなさい」

「むう。理香ちゃんが割とハシャギ気味。いや、これはどちらかというと空元気に近いのだろうか」

「どうでしょうねぇ~、まあ空元気も元気の内と言いますしぃ~、元気がないよりはあった方が良いんじゃありませんかぁ~?」

「だな。で、せっかくだから俺たちもうどんを楽しむことにしましてっと」

 明るい表情で手招きを続ける理香の隣の席に腰を下ろした仁はメニューを開き、嫌でも目に付くほど大きな写真が掲載されている、一番人気のうどんを注文。

 理香たちもこだわりや食べたい物が無かったのか、仁と同じ物を注文して完成するまでの間、待機する。

「さて、暇になった時間を使って校長に報告でも済ませますか」

「ここでやるの? 部屋に戻ってからでも良いんじゃない?」

「誰かに見られたらぁ~、とかいう心配は必要なさそうですがぁ~、せめてメールじゃなくて電話とかで報告しては如何ですかぁ~?」

「詳細な報告は帰ってからすることになる。それにどうせうどんが来るまでは暇なんだし、この時間を有効活用しないと」

「でも、そんなに時間は掛からないと思うわよ。私たち以外のお客さんなんて数えられる程度しかいないんだし」

「時間が時間ですからねぇ~。もう少しお昼に近づけばぁ~、もっとお客さんがやってくるかもしれませんよぉ~。といってもぉ~、平日ですしぃ~、お仕事で忙しい人たちがぁ~、さっさと食事を済ませるために来る程度でしょうがぁ~」

「それはわからんぞ。暇を持て余した無職の住人たちが、潤いと癒しとうどんを求めてやってくるかもしれん。奴等は街を徘徊し、無職ウイルスをばら撒いて世界を汚染するのが役目なのだから!」

「そんなことを言っていると、いざ卒業して無職になった時に、今のアンタと同じように周りの誰かに小馬鹿にされかねないわよ」

「俺が無職になるとでも?」

「気に入らない仕事をするくらいなら、無職になって研究に没頭して最終的にバイオテロでも起こしそうじゃないの、アンタ」

「うむ。俺自身、そういう未来が訪れるかもしれないと一瞬、考えてしまったが、まあ最悪、理香ちゃんのところで師範代になるから良しとしよう。もしくはアストロゲンクンシリーズに稼いでもらって、俺は悠々自適な老後生活を」

「老後が早過ぎる。というかなんで師範代なのよ。その、私がお義父さんの跡を継ぐとしても、アンタだって師範になっても良いんじゃないかしら?」

「無理。俺、師範の座を師範から奪おうなんて気はさらさらない。というか生物的に不可能だと思う。あの師範を超えられる奴なんて、広い魔境でも数えられる程度しかいないし」

 遠くを見つめながら水を飲む仁の横で、顔を赤に染めながら呆ける理香。

 そんな彼等を微笑ましそうに見つめつつ、内側に黒い何かが燃え盛るのを実感していたアストはコップに注がれていた水を一気飲み。

 冷たい水を流し込んたことで体は冷えても、心が冷えることはなく、むしろ燃料を注がれ続けているが如く燃え続ける何かを、アストは決して表に出すことなく可能な限り無心となってうどんが来るのを待った。

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