第三百八十八話
薄暗い闇の中、仁は孤独に歩いて回る。
声を出して叫んでみても、その声が誰かの耳に届くことはなく、何処までも何処までも遠くへ消えていく運命。
己の存在もまた、闇に消えてしまうのではないかと妄想を抱き始めた頃、彼の死角より忍び寄る影が一つ。
濃密な気配を隠そうともしない何者かに、仁は敢えて気付かぬふりを続けながら理香とアストを探す。
「おーい、理香ちゃーん、アストー。何処にいるー。出て来ないとチミたちの恥ずかしい思い出話を一つずつ語っちゃうぞー。アストの方は知らんけど、理香ちゃんのことは子供の頃から知っているから、何歳のいつ頃までおねしょしていたのかもちゃんと覚えているんだぞー。むしろ洗濯する前の地図を理香の泣き顔共々撮影して保存していたりもするんだぞー。ほんとか嘘かはわからない危険な情報なんだぞー。ちなみに観賞用にいつもデータを持ち歩いていることは秘密なんだぞー」
理香が聞いていたら確実に鉄拳制裁ものであろう暴露話にも反応は無し。
もしかするとアストには届いているのかもしれないが、アストを開発してからそれなりの時を過ごしても彼女の弱みは一つも握っていない。
尤も、相手の弱みを積極的に握ったりするつもりは欠片もなく、結果的に弱みになるであろう情報が手に入るだけな上に悪ふざけの域を出た悪用する気は皆無なので、知らなかったとしても何一つ、不都合など存在しないのだが。
「にしても、真面目に反応なしは辛いものがあるんだじぇー。俺のようにしゃべってないと死んじゃうかもしれない病に罹っている者にとって孤独は大敵。せめて打てば響くような返しをしてくれる何者かが欲しいんだが、お前は意思疎通が取れたりするのか?」
背後より忍び寄る影に向けて放たれた言葉を受けて、けれども仁の後方にいる何者かの気配の中に驚愕も警戒も生まれない。
感情というものが存在しないのか、あるいは気付かれていることに気付いているからこそ何も反応しないのか。
いずれにしてもこれ以上、無意味に移動しても仕方が無いと、仁は懐より聖水を取り出しつつ、木刀を構えて百八十度回転する。
彼の背後に漂っていたのは無数の腕を生やした巨大な何か。
身長は仁の二倍弱ほどだが、足と呼ぶべき部位も腕となっており、闇に溶け込むような真っ黒な肢体は完全に人間より逸脱している。
一応、頭部らしきものは体にくっ付いてはいるが、大きな一つの目玉以外は存在せず、呼吸している様子さえ見られない。
何らかの方法で空気を取り込んでいるか、もしくは空気を取り込む必要のない体なのか、そもそも生きていないのか。
考察の余地はあり、正体について調べるのも面白そう――などという考えが一瞬だけ頭を過ぎるが、フォローしてくれる友や仲間がいない以上、ふざけて瀕死に陥る余裕はなさそうだと、取り敢えず、聖水の入った瓶を投げつけ、木刀で叩き割って液体を腕の化け物に浴びせる。
「まっ、仮にその体が霊体でもこれで攻撃が通るようになるだろうから、普通に倒して後で死体を調べるって感じにしておきますか」
聖水を浴びた腕の化け物は、自身に掛けられた液体を意に介さず、仁の四肢を掴もうと複数の腕を伸ばす。
二本腕より三本腕の方が有利なのは周知の事実であるように、基本的に戦いにおいて腕の数はそのまま手数の多さに繋がる。
速さに圧倒的な差があるならまだしも、一対一で正面から腕の多い者に挑むのは愚行以外の何物でもないため、仁はひとまず、距離を取ることに専念。
伸びる腕の射程範囲外へと逃れると、高速で木刀を振るい、生じた風の刃で腕の一本を切り落とす。
太いとは言えない無数の腕の一本は枯れ枝のように容易く切断され、地面に落ちるとそのまま闇に消える。
再生する様子は見られず、切断面もそのままであるため、腕を全て切り落とせば残るのは単眼の木偶の坊。
ただし腕を全て切り落とすというのは現実的な策とは言えず、すぐに再生しないだけで時間経過で再び腕が生えてくる可能性も十分に考えられるため、長期戦を挑むのはあまり良策とは言えないだろうか。
「ふむ。やはり情報は欲しいところ。だが情報を得ようにも、調べる時間を与えてくれるほど温和にも見えません、か。アストがいてくれれば、戦いながら相手を調べることもできたかもしれないんだが」
肩をすくめながら天に祈っても、増援が駆けつけてくれる気配はない。
窮地に陥れば誰かが救いの手を差し伸べてくれる、などの都合の良い展開は漫画やアニメの世界だけの話。
如何に事実は小説よりも奇なりと言えど、現実は物語よりも無情で冷酷。
自分でどうにかしなければならない事態は、これからも数多くあるだろうと、お先真っ暗な未来を想像する彼に無数の腕が襲い掛かる。
今度は捕まえるなどという生易しいものではない、純粋かつ強力な数の暴力で押し潰さんとする腕の化け物が闇に覆われた地面を押し潰す。
もしもその場に仁が突っ立っていたならば、今頃は肉塊と化していたであろう質量の暴力は、けれども地面を抉るだけで血や肉が四散する様子は無し。
「ふむ。容赦ないな。あのまま突っ立っていたらミンチになっていたわけか。それはそれでピンチを演出することもできそうだが、生憎とお前以外に何が潜んでいるかわからない状況下で、そこまでバカな真似はする気になれないんでな」
瞬間移動でもしたかの如く、腕の化け物の背後に回り込んでいた仁は木刀を軽く振るいながら腕の化け物を挑発するように嘲笑う。
その声が届いたかは定かではないが、自身が攻撃している場所に仁がいないことを悟ったらしい腕の化け物は勢いよく振り返り、腕を伸ばして仁へと襲い掛かる。
「やれやれ。コミュ障にも程がある対応だな。もっとフレンドリーな対応はできないのかね? そんな様では友達の一人もできんぞ。俺を見習えとまでは言わないが、まずは笑顔を作るところから練習しようか。まっ、その単眼で笑っても不気味なだけかもしれないが。やはり目だけというのはいかんな。せめて口が無いと――」
不敵に笑う仁を無数の腕より生えた口が強襲。
正しく口が生えたとしか言いようがない、牙が生えた球状の口が仁の体を食い千切らんと開閉を繰り返しながら降り注ぐ。
「うん。我がアドバイスを真に受けてくれたのは素直に嬉しく、称賛に値する行いだと言っておきたい衝動に駆られそうな気がしないでもないぃぃぃぃ!?」
一本の腕より十数の口が生え、無数の腕に同じ現象が起きている。
数えるのがバカバカしい、視界を埋め尽くす口の群れに、仁は雄叫びのようなものを上げながら全速力で逃走。
敵に背を向けることに躊躇いを持たない彼の逃走速度は、理香やアストに比べて非常に速いと言える。
まして彼は常人を超える身体能力の持ち主。
魔境の中では決して高い方とは言えないが、それでも魔境の外の住人から見れば十分に超人の域に達している。
腕の化け物が今まで何者を相手に勝利を収めてきたかは不明だが、逃げ足に関してのみ言うなら仁に匹敵する獲物は存在しない。
故に取り逃がしてしまうのも無理からぬことであり、闇の中を迷いなく、信じられない速さで逃げ出した仁に追いつくことは叶わず。
彼方へと消え去った彼に、初めて戸惑いのようなものを示した腕の化け物はしばらくその場で立ち尽くしてしまう。
「おっと。油断大敵なんだじぇー。敵はいつ、如何なる時に襲い掛かって来るかわからないんだから」
上から頭部らしき部位を貫くのは仁の木刀。
更にその柄に腕組みしながら降り立つのは、先程、見えなくなるほど遠くまで逃げ出したはずの仁。
だが死角に降り立った彼を腕の化け物が見ることはできない。
ただ、頭が急所というわけではないのか、死んだり消えたりする様子もなく、頭に乗った異物を排除するべく腕を振るう。
「ふむ。やはり頭が弱点ってわけじゃないのか。それともピンポイントに眼球を攻撃するべきだったか? 何にしても、まだ倒すことはできていませんよっと」
腕の攻撃範囲より逃れるべく、木刀をそのままに大きく飛び退いた彼は懐よりカプセルを取り出す。
何が入っているのか、見た目からは想像もつかないソレが如何に危険であるかを腕の化け物が知ることは不可能。
警戒も何もなく、質量や数の暴力で襲い掛かる腕の化け物に、仁はカプセルを開けて中の物で対抗。
その際に生じた謎の煙もまったく気にせず、無数の腕から生える無数の口が仁の体に群がり、噛みつく。
瞬間、血飛沫や肉片が飛び散るような凄惨な事態にはならず、単に口が音を立てて溶けていくだけという結果だけが残される。
何が起きたというのか、腕の化け物にはわからず、ただ、己の口が、腕が溶かされていく光景を目の当たりにして急いで腕を切り離す。
が、腕を切り離しても切断面より体が溶けていき、最終的に全身が溶けて跡形もなく消滅するという末路を迎える。
液状と化した腕の化け物は煙となって蒸発し、闇に還っていく姿を黙って見ていた仁は自身が開発した物の威力に戦慄を隠せず、掻いた冷や汗を手の甲で拭う。
「うーむ。ふざけ半分で開発したつもりだったが、想像以上の威力にドン引きせざるを得なくなっておりマッスル。まさかここまで強力な毒物になっていようとは」
割れたカプセルより取り出されていたのは小さな粉末。
吹けば飛ぶような細かい粒、その一抓み分を浴びただけで猛毒に侵された腕の化け物は消滅してしまった。
苦しんで死んだように見えなかったのは、感情表現できないからか、それとも痛覚が存在しなかったからか。
どちらにしても比較的、幸福な最期を迎えることができたのだろうと、一応程度に祈りを捧げた仁は粉末をカプセルの中に戻し、死んだ魚の瞳で虚空を見上げる。
「……うん。冗談半分だったんだよ。冗談半分で――理香の手料理の一部を基盤にして、料理の材料を混ぜ合わせたものを粉々にしただけなんだよ。むしろ毒素的には薄まっていると考えていいはずなんだよ。それなのに――」
一体、どのような工程で調理を行えばこのような破壊力を有した化学兵器とでも呼ぶべき代物が誕生するというのか。
誰に向けられたものでもない問い掛けは無駄かつ無意味。
そもそも危険な現場とはいえ、理香の隣に立って調理を手伝ったり、彼女の調理手順を逐一、監視しながら完成まで見守ったことは一度や二度ではない。
その上で完成した料理はこの世の物とは思えない、人外魔境の異物と呼ぶべきような代物となった。
作業手順に不具合は一切ない。
味などもはや度外視して、アレンジを一切認めず、本に書いてあった通り以外に行動を取ったら即座に調理を止めるという方針の下でに作らせたこともあった。
その結果は言うまでもないものであり、何故そんなことになってしまったのか、科学的に解明しようとして、何一つ、答えを得られなかった屈辱的な過去を思い出してしまった仁は恐怖と憎悪を膨らませる。
なお、生まれた感情の内、前者は理香の悍ましいを通り越して素晴らしいとさえ言える天才的な才能に対して抱いた物で、後者は己の無力さに対して抱いた物。
理香自身に向けるべき感情ではないことは言うまでもなく、彼女が作った物やそれを改造したことで生まれた自身に作品に対しても憎悪を抱いたりはしない。
ただ、威力が威力なだけに恐怖を抱くことは許して欲しいと、アストロゲンクンシリーズとは異なり、己の意思も感情も持たない、正真正銘ただの道具に対して仁は心の中で謝罪の言葉を並べる。
「……フゥ。さて、と。まあ色々と整理がついた――整理がついたような気がするということにして、これからどうするべきか、私は考えなければならない」
腕の化け物以外の気配はなく、相変わらず理香やアストの姿は見えない。
彼女たちが何処にいるのか、それさえわかればすぐにでも合流できるのだが、生憎とこのような事態は完全に想定外。
持ってきた道具を駆使すれば解決できる可能性は極めて高いとはいえ、誰に見られているかわからない状況下で手持ちのカードを見せ過ぎるのは愚策。
「取り敢えず、なるようになると考えて移動しますか。まっ、いざとなったら青いタヌキが如く、様々な道具を駆使して解決を図ればいい。あっ、劇場版仕様ではないのでそこのところをよろしく。劇場版だと大体の場合、あの青いタヌキは道具を使えなくなるからなー。まあ使えたら使えたで相手側の方が上手でほぼ無意味と化すわけなんだが。便利な道具を幾つも持っているキャラ故の弊害って奴かねー」
独り言を口より発することで寂しさを紛らわせつつ、探索を再開。
処理するのが面倒だから敵は出ませんようにと大仰に祈りながら理香やアストと合流するべく、闇の中を突き進んで行った。
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