第三百八十七話

 床下に引きずり込まれた理香が最初に行ったのは周囲の確認。

 暗黒空間と呼んでも差し支えがない程度には闇に包まれたその場所は、けれども視界不良なわけではなく、むしろ視界は開けていると言える。

 闇に目が慣れた、というよりはこの空間を包む暗闇が視界を遮っていないと言った方が正しいのか。

 そもそもここが現実の世界なのか、それとも何処か別の、異空間とでも呼ぶべき場所に連れ込まれたのか。

 後者だと確信したのは、引きずり込まれる際に自身の意識がハッキリしていたことと、周りに仁やアストの姿がないことを認識した瞬間。

 各個撃破のためにそれぞれが別々の場所へと連れ込まれたのか、あるいは彼女だけが仁たちと分断されたのかは不明だが、いずれにせよ、理香が最優先に行うべきことは明確。

「――さっさと出てきたら? それとも、私が油断するのを待っているの? だとしたら無駄骨以外の何物でもないわよ。私は仁と違って、油断する気はないから」

 警戒心を剥き出しにした呼び掛けに応じるように現れるのは虫の大群。

 甲高い羽音を響かせながら一ヶ所に集まり、巨大な蠅の形を造り出したソレが何なのかは彼女にはわからない。

 仁やアストがいればすぐに調べてくれただろうが、彼女のスマホを扱う技術では巨大な蠅になる虫の大群など見当もつかないため、正体に関しては一旦、忘却の彼方へと追いやる。

 ここで重要なのは目の前の巨大な蠅が敵だということ。

 この場へと彼女を引きずり込んだ黒幕かどうかは定かではないため、敵が虫の大群だけと言い切ることはできないが、だからといって背を向けて逃げ出すわけにもいかず、威圧感を放ちながら槍を構える。

「一応、訊いておくけど、仁たちは無事なの? そもそも私たちを襲う理由は? あの吸血鬼の少女と何か関係があるの?」

 問い掛けに巨大な蠅は無言を貫く。

 虫の集合体なので知能自体が著しく低いのか、知能は低くないが発声器官が存在しないのでしゃべれないのか。

 やはりこれも不明であり、調べる方法も無し。

 なので理香は意思疎通及び生け捕りを諦め、真正面から叩き潰す道を選ぶ。

「フッ!」

 小さく息を吐きながら一気に間合いを詰め、振るわれる槍が蠅の体を両断。

 真っ二つに裂かれた巨大な蠅は、何事も無かったように元に戻り、口から伸びた針のような物が理香の心臓を刺し貫かんと迫る。

「それは蠅じゃなくて、蚊が使うようなものじゃないかし、ら!」

 高速で突き出された針を蹴り壊し、勢いのままに跳躍。

 巨大な蠅の頭上を取ると槍を突き出し、脳天を貫く。

 結果は先程と同じ。貫かれた頭は何事も無かったように戻り、ほぼ同時に腕を伸ばして理香の足を掴むと地面に叩きつける。

 背中から全身へと伝わっていく強い衝撃に理香は大きく息を吐き、次いで放たれた頭蓋を砕かんとする大きな足による踏みつけを、地面を転がって回避。

 ある程度、距離を取ったところで急いで立ち上がり、体勢を立て直すと改めて巨大な蠅を睨む。

「成る程、ね。蠅っぽく見える体はあくまでも見せ掛けで、本当は小さな虫の集合体。だからどれだけ攻撃しても意味が無いと。厄介と言えば厄介ね」

 物理的な攻撃は蠅の形を形成している虫たちに避けられてしまうので効果は薄い。

 まったくの無意味、とまでは行かないが、一度の攻撃で倒せるのは数匹止まり。

 何千、下手をすると何万という数の虫を葬るには気が遠くなるような回数の攻撃が必要となり、加えて相手もおとなしく攻撃を受け続けてくれるわけではない。

 倒すには火力が不可欠。それも広範囲を一気に攻撃できるような、それこそ仁やアストが持っている火炎放射器でも使わない限り、倒すのは困難。

 そこまで考えてから理香は不敵に微笑み――笑顔に獰猛さを滲み出させる。

「要するに、私が一番、倒しやすいから出てきたってことかしら? 仁やアストが相手だと勝てないから、私を一人にして、私だけなら倒せると考えたってこと? 私があの中で一番の雑魚だと判断したってこと?」

 問い掛けには相変わらず沈黙しか返ってこない。

 尤も、答える機能が無いのか、答える気が無いのか、理香にとってはもはやどちらでもいいこと。

 明白なのは相手が理香を嘗めている、侮辱しているということであり、周りに誰もいないが故に理香も怒りを隠さない。

「ああ、うん。そうね。そうよね。誰もいないのなら好都合。私だって女の子だから、仁や東間、みんなに隠しておきたいことの一つや二つ、有っても不思議じゃないものね。そこのところはちゃんとわかっているのかしら? わかっていないと女の子にはモテないわよ」

 脚を少しだけ動かし、息を吐きながら槍を地面に突き立てる。

 自ら武器を手放したその理由は彼女にしかわからず、巨大な蠅からは好機にしか見えなかったのか、羽ばたき、空を飛びながら真っ直ぐに突っ込む。

 巨大な蠅として、相応の質量を有した虫の集合体の突進を理香は避けようともせずに右手を広げ――蠅の体を受け止める。

 質量弾と化した蠅の突進を正面から受け止め、微動だにしなかった理香に小さな虫の集合体は果たして驚きという感情を持てたのかについては不明。

 といっても、巨大な蠅が、小さな虫の集合体が何を思おうとも理香は気にすることなく、巨大な掌にて受け止めた蠅の体を握り潰す。

 体を構築している虫の半数以上を一気に握り潰された虫たちはその場で四散。

 理香から距離を置いた場所で再び集まり、先程より二回りほど小さい蠅を形成して彼女と対峙する。

「やっぱり、全部を叩き潰さないと意味はない、ってことね。面倒と言えば面倒だけれど、やってやれないことはないわね。といっても、掌から伝わってくるこの感じは好きになれそうもないのだけれど」

 掌に残る不快な感触に眉を顰めつつ、腕に生じさせた炎によって握り潰した虫の残骸を焼き払う。

 炎に揺らめく彼女の姿は一部を除いてこの場所に引きずり込まれた時と同じ。

 が、その一部、理香の右腕はおおよそ、人のものとは思えないほどに巨大かつ歪に変形しており、黒々とした光沢は特殊な金属を連想させ、硬質化した五指は一本一本が鋼を容易く貫通するほどに研ぎ澄まされたものと化している。

 誰の目から見てもソレが人の腕ではないことは明らかであり、火炎を纏う右腕を眺めながら理香はため息をつく。

「まっ、見ての通り、どういうわけか知らないけど、私の右腕、いつの頃からかこんなことができるようになっちゃったの。このことを知っているのは義父さんくらいなもので、誰にも言えない私の秘密ってやつよ」

 虫の残骸全てを焼き尽くした理香は腕より生じさせた炎を消し去り、調子を確かめるように軽く腕を振るう。

 瞬間、生じた衝撃波が蠅の体を吹き飛ばし、ついでに周りの景色、空間そのものに損傷を与えたように世界に亀裂を走らせる。

「っと、ゴメンナサイ。この腕、ほとんど使ったことがないから、まだ上手く手加減ができないのよ。まあいい感じに抑えるのは無理でも、思い切り手を抜けば問題ないから、今のところは気にするほどのことでもないんだけど」

 力なく笑う理香の瞳に浮かんでいるのは自嘲か、哀しみか。

 ただ、虫を逃がすつもりは毛頭ないらしく、戦意だけは一切、失われていないがために蠅もまた、彼女を倒すべく体を崩壊させる。

「うん? どういうつもり――ああ、成る程」

 一ヶ所に集まった状態では勝てない。

 そう判断したからこそ蠅の形を捨て、無数の虫となって彼女の体に纏わりつく。

 牙が生えているのか、爪でもあるのか、はたまた蠅の時のように針を伸ばして彼女の体を穴だらけにするつもりなのか。

 如何なる攻撃方法で理香を倒すつもりなのか、少しだけ気になった彼女は冷酷無情に反撃を許さず、纏わりつく虫全てを凍て付かせる。

「出せるのは炎だけじゃない。これも最初に浸かった時にわかったことなんだけどね。なんというか、この腕があると妙な全能感みたいなものに襲われるって感じがして、心地いいけど気持ち悪いのよ」

 自身の周囲を極低温の空気で覆い尽くした彼女の声はもはや虫たちに届かず。

 南極の数倍の冷気に捕らえられた虫たちは活動を停止。

 無論、全滅させると決めた理香が凍ったままの状態で放置するはずもなく、右掌から発した獄炎にて一瞬で自分以外の全ての生き物を蒸発させる。

 もし仁やアストが巻き込まれたなら、死にはしないが無事ではいられないであろう超高温の火炎は虫たちを焼き払った時点で消失。

 後には闇だけが残り、敵の反応がないことを悟った理香は右腕を元に戻す。

 復元の際に服なども元通りになっているのは、右腕にそういう能力があるからと考えるのが自然か。

 が、便利な右腕であるが故に使う気が起きないのも事実。

 これが生来の彼女の能力ならば受け入れられただろうが、理香はこの右腕の変異が外的要因、後天的な物であると、自分のものではないと考えている。

 何故ならばこの右腕の変異は成長してから突然、起きたから。

 幼少期に前触れなどまったくなく、切っ掛けらしい切っ掛けと言えば義父との特訓中に追い詰められたこと、そして力を求めたことくらいなものだが、追い詰められたことも力を求めたこともその時が初めてではない。

 ただ、現れてからは制御可能となっており、自由に右腕を変化させることが可能なので本当は彼女自身の能力であり、成長したからできるようになったと考えることもできる。

 そのことは義父にも指摘されており、彼女も反論はできなかった。

 だがそれでも、愚直に、真面目に、努力で強くなろうと、強くあろうとする彼女にとって圧倒的な、それも完全に制御下に置いておけるよくわからない力など自身を惑わす物でしかない。

 今回のように、この腕があったからこそ勝てる場面もある――否、むしろ現段階の彼女の能力では超えられない壁の方が遥かに多いため、使える物は使うべきという思いが無いとは言い切れないのだが、それでも、と、彼女は考えてしまう。

 それは彼女の弱さ以外の何物でもない。

 使える物は使うべきと、気に入らない力でも積極的に行使することはもちろん、絶対に使わない、使うくらいなら敗北する道を選ぶと決意を固めることもできずにいる。

「……ハァ。我ながら本当に情けないわね。こんな醜態、仁たちに晒したりしたら笑いものでしかないわ。いずれ向き合わないといけないとしても、ね」

 肩をすくめた彼女は道なき道を歩き出す。

 何処に向かえばいいのか、道標など何もない。

 東西南北がわからなければ、仁やアストがいる方向などわかるはずも無し。

 そもそもこの空間に現実世界の法則を当て嵌めて行動していいのかすらわからないのだから、移動しても移動しなくても結果は同じかもしれない。

 それでも歩き始めたのは、進まなければ何も始まらないからか。

 結果として動いても動かなくても同じだとしても、それは動いてみなくてはわからないことでもある。

 何よりもただジッとして、時が過ぎるのを待つのは彼女の性に合わない。

「仁! アスト! 何処かにいるの? いたら返事をして!」

 反響することがない、何処までも遠くへ飛んでいく大きな声に、返答は無し。

 この状況下で返事をしないという選択肢は――仁ならばもしかするとやりかねないが、少なくともアストは返答する。

 仁とは繋がっていて、アストとは繋がっていない、という状況の方が考え難いので、やはりこの空間と彼等がいるであろう空間は隔てられていると考えるべきか。

「困ったわね。さっきみたいのとは違う、せめて言葉が通じる相手が出てきてくれればまだ突破口が開けるかもしれないのだけど」

 歩きながら考え込み始める彼女は、すぐに頭を左右に振って思考を切り替える。

 周りに警戒を任せられる者がいるならばまだしも、敵地の只中で思考に耽るなど襲ってくださいと言っているようなものであり、思考に夢中になってしまえば反応が遅れてしまうことも起こり得る。

 彼女の義父のように、達人と呼ばれる人々ならば思考に集中していても体が勝手に襲撃に対応してくれるであろうが、理香がその域に到達するには最低でも十年以上の修練が不可欠。

 仁のように襲われて、重傷を負ってもなんだかんだで逆転できる悪運の強さと狡賢さとしぶとさを兼ね備えているならばともかく、今の理香には不意打ちでの重傷を負ってから対処は不可能に近い。

 彼女が不意の強襲からの逆転劇を披露できるとしたら、それは変異した右腕に頼った時のみ。

 それは極力避けなければならない事態だと、歩みを止めることなく前進を続けながら彼女は仁とアストの姿を探すことと、周りに敵がいないかを警戒することに全神経を集中させることにした。

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