第三百八十六話

 宿に戻って就寝――する前に部屋の中で行うのは校長への報告。

 仕事の難度が想定より高くなっているのは彼女も承知の上であり、もしもの時は生き残ることだけを考えるよう指示を受けた仁はこれを了承。

 元より、彼は金の亡者ではなく、単独で行動しているわけでもない。

 自分はともかく理香やアストの命を仕事よりも優先することは彼にとって自然かつ当然のこと。

 故にそこまで深入りする気はなく、さりとて完全放置も寝覚めが悪い。

 だからこそ仕事をここで終わりにするつもりはなく、深入りし過ぎないように理香たちに注意を促してから改めて就寝。

 次の日の早朝、目覚めた仁たちは早速、主を失った部屋へと直行。

 とはいえ、そこを借りている存在が捕らわれの身となったことを知っているのはこの街では彼等だけであり、大家に対して素直に事情を話して入れてもらえる可能性は限りなく零に近い。

 むしろ入れてもらえた場合、大家は関係者ないし黒幕である確率が極めて高くなり、部屋の中に罠が仕込まれていると考えるべき。

 言い換えれば入れてもらえるなら大家を捕まえ、尋問することで情報を吐かせることが可能ということでもあるが、無関係の場合、部屋に入り難くなるだけでなく、下手をすると警察沙汰になりかねない。

 大家に話をするべきか否か、話し合いの末に不法侵入を行うことに決める。

「けどそれってれっきとした犯罪よね?」

「今更何を言っているんだか。そもそも俺たちは合法の下に活動しているわけじゃないし、警察とかから見れば俺たちは厄介者以外の何物でもないぞ」

「魔境の中ならともかくぅ~、外の司法から見ればぁ~、私たちはぁ~、蛮族と言っても過言じゃありませんからねぇ~。そもそもぉ~、捜査をかく乱するためにぃ~、情報操作とか行っていますしぃ~」

「……初耳なんだけど、いつの間にそんなことを」

「うふふふふふぅ~、いい女はぁ~、みすてりあすなんですよぉ~。秘密の百や二百はぁ~、持っていても不思議じゃないんですぅ~」

「そしてアストの体には九十九の秘密兵器が搭載されている」

「だ、そうだけど?」

「九十九じゃ少な過ぎますからぁ~、三桁くらい増やしておいてくださいぃ~」

「了解した」

「……ハァ」

 この親にしてこの子あり、などという感想を抱いたのはこれで何度目か。

 呆れつつも彼等の意見に反対する気もない理香は黙って後に付いて行き、道中にて鳴り響くサイレンの音の方を振り向く。

「アレってやっぱりパトカーの音よね?」

「だな。通報してから結構な時間が経っているが、その程度の時間じゃ警察官のお仕事は終わらないだろうし」

「もしくはぁ~、別の事件の捜査のためかもしれませんよぉ~。結局ぅ~、あの吸血鬼さんが暴走した理由もぉ~、不明なままですしぃ~」

「血を飲んでいたら制御が効かなくなった、とかは?」

「そんなバカな吸血鬼は世界中を探しても数えられる程度しかいない。というか居たとしても限りなく零に近い数のはずだ。吸血衝動に負けたとかならまだわからなくもないが、昨日のアイツはそういう次元の話じゃなかった」

「となるとぉ~、やっぱりぃ~、自分で暴走したのではなくぅ~、誰かの手で暴走させられたとかでしょうかぁ~」

「何とも言えん。こういうのは専門家に任せるしかない」

「専門家――って、もしかしなくても保険医のこと? 大丈夫なの?」

「他に手が無い以上は仕方がない。俺の知識じゃどうにもならんし、こういうことに関しては経験不足としか言いようがない。歯痒いという気持ちが無いわけではないが、もっと経験を積む必要がある」

「ということはぁ~、吸血鬼狩りですかぁ~? 吸血鬼さんたちを狩り続けてぇ~、研究データを集められるんですかぁ~? それはそれでぇ~、吸血鬼さんたちにぃ~、凄く恨まれそうな気もしますがぁ~」

「できればそうしたいところだが、昨今はあまりそういうことができない世の中だからな。研究に犠牲が付き物だということを理解できん愚か者が多過ぎる。それに研究資金を集めるのにも、いちいちバカどものご機嫌取りをしなくちゃならんし、まったく、やってられん」

「仁、アンタ今、凄く悪の研究者っぽくなっているわよ。あんまり人の道に外れるようなことをしていると、ぶん殴って止めるからね」

「理香ちゃんに殴られるならご褒美です」

「……あっそ」

 鉄拳制裁をご褒美と言えるのか否か。

 間違いなく否と答えるであろう程度には威力のある一撃を脳天に受けた仁は頭を押さえながらしばらくの間、蹲ってしまう。

「ますたぁ~、殴られるってわかっていてそういうことを言うのはぁ~、紛れもないバカですよぉ~。おバカさんですよぉ~」

「フッ。わかっていてもやめられない、止まらない。それがこの俺! そしてそれこそが理香ちゃんなのだよ!」

「言っておくけど、殴った私の方も痛いんだからね。そこは忘れないで」

「それってぇ~、心がとかですかぁ~?」

「いいえ。物理的に拳が。仁の頭もかなり硬いから、連続して殴ったらたぶん私の拳の方が砕けるわ」

「またまたー。理香ちゃんってば大袈裟なんだからー。俺の頭はむしろ柔軟性に特化しているんだぞ。柔らかいからダイヤモンドよりも硬いんだぞ」

「柔らかいのか、硬いのか、どっちかに統一しておきなさい。で、もうすぐ目的地だけど、そろそろ歩ける?」

「問題なーし」

「そっ。じゃあ行くわよ。何があるかわからないから、気を緩めないでね」

「はぁ~いぃ~」

「ういうい」

 気の抜けた返事をする仁とアストに若干の不安を抱きつつ、理香は目的のアパートへと急ぎ――途中で足を止めて息を呑む。

 彼女が立ち止まった際にぶつかりそうになった仁は足を止めて衝突を回避するか、それとも勢いのままに理香を押し倒すべきかを逡巡。

 後者を選んだ場合、色々な意味で身が危なくなると直感で悟ったために急停止し、動きを止めた理香の横を通り過ぎて前に出た途端、彼女が何故立ち止まったのかを悟り、肩をすくめる。

「成る程。昨日とはまるで違う、か。何があったのかは知らんが、中々にヤバそうな雰囲気だことで」

「やっぱり大家さんが黒幕だった?」

「あるいは他の住人か、はたまた外部の黒幕があの少女の敗北を知って何か手を打ってきたか」

「結局はぁ~、よくわからないってことですよねぇ~」

「まっ、何かしてきたって言うならそれはそれで手掛かりを掴めるかもしれん。虎穴に入らずんば虎子を得ず、ってな」

「虎の穴じゃなくて罠の穴だったら?」

「どの道、入る以外の選択肢はない。これが選択式のアドベンチャーゲームとかだったら入るかどうかでルートが変わりそうな気もするが、生憎とこの世界にセーブ機能は付いていないから、どちらか片方しか選べん」

「ええぇ~? ますたぁ~ならぁ~、現実にせぇ~ぶ機能を付けることもできるんじゃありませんかぁ~? 選択を間違えてもぉ~、そこからやり直せる的なぁ~」

「……ふむ」

 あまり深く考えたことはないが、可能かもしれない、などという表情となって思案する仁の腕を掴み、引っ張りながら前進するのは先程以上に気合いの入った顔つきをしている理香。

 目の前に建っているアパートの外観は昨日、見たものと全く同じ。

 間違い探しができそうなくらいの誤差しかないであろう建物は、けれども纏う空気が別物と化している。

 真っ当な神経の持ち主で、腕に自信がない者ならば回れ右して撤退しそうな程度には薄暗く、それでいて濃密な空気に、理香は毅然とした態度で立ち向かう。

「理香ちゃん、来る前に言ったと思うが、無茶は禁物だぞ。俺たちが失敗しても後釜は用意される。故に俺たちが死んでも犬死になる可能性が極めて高いのだ」

「わかっているわよ。だから無理をする気も無茶をする気もないわ。ただ、逃げるにしてもまずは挑まないと、義父さんに顔向けできないもの」

「まっ、表面はそうかもしれんが、師範も割と親バカなところがあるから、突き落とすにしても登れそうな崖だけだろう。もしくは登れるか、登れないか微妙な崖か」

「絶対にぃ~、登れそうもない崖には突き落とされないんですかぁ~。理香さんの成長を信じたから突き落とすとかぁ~」

「さて、訓練ではまず行わないだろう。というかやっても無駄だしな。限界を超えて成長できるのは大抵、実戦の中でだけだし」

「訓練以上のことを実戦でできるとも思えませんがぁ~?」

「時と場合、それと戦う相手による。良い師だけじゃたどり着けん。良い敵にも巡り合わないと爆発的な成長は見込めないのさ」

「仁、アスト」

「わかっている。だが人の気配はないし、アストも誰の姿も発見できていない。つまり今なら不法侵入しても咎められることはない」

「不自然過ぎるくらいにぃ~、誰も居ませんよねぇ~。昨日はぁ~、夜も遅かったですしぃ~、暗い路地裏での出来事でしたからぁ~、人が来ないのもぉ~、辛うじて頷けはしましたがぁ~、今はぁ~、平日の朝な上にぃ~、普通に道のド真ん中ですからねぇ~」

「人が来ないなんてあり得ない、ってことか。通行人がいないにしても、車さえ通らないからな。確実に何かあるだろう」

「つまり、やっぱり気を抜いちゃダメってことよね。特に仁、何があるかわからない危険度不明な状況で、ふざけたりしたらダメなんだからね」

「サキュバスのお姉さんとかロリっ娘とかにわかりやすく誘惑されて、ホイホイと後に付いて行くのは?」

「切り落とすわよ?」

「抉り取りますぅ~」

「うっす。大丈夫っす。俺、精神系の状態異常は掛からないので。精神異常スキルを自前で持っているので、常にバーサーク状態なので」

「ばぁ~さぁ~くというかぁ~、混乱状態と言った方が正しそうですぅ~。常に混乱しているからぁ~、精神異常に掛からないって感じでぇ~」

「あっ、それ、当たっているかも。俺ってほら、天然で狂っているし」

「堂々と言わない。ったく、大体、本当に狂っているなら会話自体が成立しなくなるでしょう。あんまり狂人を見縊らないのっと」

 念には念を入れて周りに注意を払いながら、吸血鬼少女の部屋の前へ移動。

 一応、他の部屋も調べてはみたが、人の気配はなく、中の様子もうかがえない。

 掛かっている鍵を開けることは簡単だが、この空気の中、長時間留まり続けるのは危険と、彼等の中の本能が警鐘を鳴らしているため、無視して本命に集中する。

「さてさて、箱の中身は何じゃろなっと」

「箱じゃなくて部屋よ」

「待っているのはぁ~、鬼か蛇かぁ~、希望か厄災かぁ~、楽しみですぅ~?」

「何も出て来ないという場合もありますよっと」

 針金一本で簡単に開けられる鍵に苦戦する道理は無し。

 防犯意識が低いのは建物自体が古いためか、もしくは彼等のように不法侵入を試みる者たちを罠に嵌めて全滅させるためか。

 慎重に扉を開け、中に入った仁たちは電気を付けようと近くのスイッチを入れてみるが、電灯は反応せず。

 吸血鬼が住んでいるので明かりなど必要ないということなのか、首を傾げつつアストの中に搭載されているライトで室内を照らしながら足を踏み入れる。

 日当たりの関係か、部屋の中は想像していたよりも暗く、光源が無ければ何も見えないほど。

 ただ、アパート自体があまり大きくなく、そのために部屋も割と小さめなのが救いと言えば救いか。

 足を踏み入れた彼等は闇の中をアストの光源頼りに探り、不意に湿った音と感触が自身の首から放たれたことに仁は首を傾げながら自分の手で調べてみる。

「仁、どうかしたの?」

「いや、どうかしたっていうか、うわーお」

 いつも通りの呑気な声音に、僅かばかり含まれているのは嫌悪。

 指先に付着した、粘着性のある液体の正体を察した仁はアストに指示して天井にライトを向けさせる。

「うわぁ~、これは中々凄い光景ですぅ~」

「……凄いっていうか、悪趣味よね」

「理香ちゃんに同意。ったく、こういうのは一人で楽しめ――ああ、そういえばここはあの子が借りている部屋だったな。しかも一人暮らしのようだし、一人で楽しんでいたのか」

 呆れ果てた様子の彼等の視界に映っているのは、天井を塗りたくっている夥しい量の濁った血液。

 付着してからそれなりに時間が経過しているのか、鮮度が感じられない血は乱雑に天井を染め上げており、滴り落ちる雫が床を侵食している。

 ただしそれだけと言えばそれだけの光景。

 あの少女の趣味だとして、それが事件の調査に繋がるわけでもないと、仁たちは視線を下に戻し――床下より這い出ている真っ白な手のような物が自分たちの足首を掴んでいることを初めて認識し、対処する間も与えられず、床の中へ引きずり込まれた。

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